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いつかの日に溺れる  作者: マーシャ
記憶を消したい男
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相川広夢の場合2

 その日、母はいつものようにパート先に行こうとしていた。自転車を漕ぐ母に、スマフォを弄りながら運転していた大学生の女の子の車が突っ込んだらしい。母は車と民家の塀に挟まり、トマトのように潰れてしまった。

 正直、そのときのことは今でも詳しく思い出すことができない。ひとつだけ思い出せるとしたら、病院でたくさんの管をまかれた母に縋りつく僕自身と、その横で土下座をする女の子とその両親、という光景くらいだ。

 その後、母の保険金と女の子からの慰謝料という形で、莫大なお金が僕の手元にのこり、僕は母と暮らしたアパートを出て、今住んでいる学校近くのアパートに引っ越した。母をひき殺した女の子から手紙やら電話が何度もあり、母にお線香をあげさせてくれと言われた。しかし、僕はそのたびに怒鳴り散らし、挙句の果てにはお前が死んでくれとまで叫ぶのであった。

 僕はその時にはじめて母の言葉の意味が分かったのだ。

 自分の大切な人、愛している人にもう二度と会えないくらいなら、こんな記憶捨ててしまいたい、忘れてしまいたい。

 母の言っていた、父を忘れたいとは、こういう気持ちだったのだ。

 気持ちの行き場などなかった。ぶつける相手もいなければ、失った悲しみを本人に伝えることもできない。もう二度と、会えない。この虚無感と一生付き合わなければいけない、それは僕にとって絶望と同義だった。

 普通の人と、同じように過ごすの。それが一番なの。

 母の口癖を思い出し、僕は母が死んだ後も生活を変えなかった。バイトも、サークルも、大学も、友達みんなと同じ様に頑張った。

そして現在に至る。これが僕の半生だ。


ベッドに体を預けていたら、いつの間にか眠っていたらしい。誰かの押したチャイムの音で、僕は目を覚ました。寝ぼけ眼でベッドから起き上がり、ドアスコープから訪問者を覗く。そこに立っていたのは、見たこともない女の子だった。

宗教勧誘か、なんて思いながら、ドアチェーンを外さずに僕はドアを開けた。


「はい」


「あの、突然すみません。隣に越してきた、桜井栞と申します。ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、以後よろしくお願い致します」


 桜井と名乗る女性が深くお辞儀をすると、彼女の長い黒髪が艶やかに揺れた。おどおどとした話し方や立ち振る舞いに僕も同調してしまい、震えた声で返答をする。


「あ、相川です。宜しくお願いします」


 桜井は少しですが、と言って小さな袋に丁寧に包まれた焼き菓子を僕に手渡し、足早に去っていった。

 こんな時期に引っ越してくるなんて珍しい。

 僕は静かにドアを閉め、部屋に戻った。今までは意識したこともなかったが、これからは桜井が隣の部屋に住んでいるのかと思うと、自分の生活音が少し気になる。桜井に手渡されたお菓子をそっと机上に載せ、なるべく音を立てないように僕はバイトに行く準備を始めた。

 桜井と再び会ったのは、その日のうちであった。

 十一時過ぎに、バイト帰りの僕はいつも通りアパートに戻った。学生が住むアパートにしては値段が良いため、ここには社会人が多く住んでおり、この時間になると電気が消えている部屋がほとんどである。しかし、僕の部屋の隣、桜井の部屋である102号室からは締め切った茶色のカーテンから明かりが漏れていた。角部屋である上に隣がずっと空室だったため、自分の部屋のとなりに明かりが付いている、というのは僕にとって新鮮なことだった。

 習慣となっている動きで鞄から鍵を出した瞬間、僕は動作を止めた。

 何か、声が聞こえる。

 一瞬で僕は気づいた。その声が泣き声であることに。母の泣き声を毎晩のように聞いていたため、女性の泣き声には僕の耳はすっかり敏感になってしまったようだ。

 しかも、声の主が誰かもわかっていた。


「桜井栞・・・」


 僕の唇が小さく動く。彼女の部屋のドアの前に立って耳を澄ませれば、間違いなく彼女の声が漏れていた。

 それは叫びにも近かった。掠れ切った泣き声で、聞いただけでこっちの身まで裂けそうな、辛く苦しい咆哮だった。

 暫しその場に立ち尽くした後、僕はふと我にかえり、桜井の家の呼び鈴を力強く押した。


「桜井さん、大丈夫ですか、桜井さん」


 何が彼女をそこまで泣かせているのか。怪我や病気、泥棒の場合、助けてあげなければならない。そんなもっともらしい理由と言い訳を掲げているが、実際は彼女の泣き声が怖かっただけだ。

母を、思い出すようで。


「桜井さん」


「う、ああ、うわぁあん、あああ」


 僕の声と彼女の泣き声が重なる。

 いたたまれなくなり、僕は衝動のまま彼女の家のドアノブに手を掛けた。幸い、鍵はかかっていなかった。


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