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いつかの日に溺れる  作者: マーシャ
記憶を消したい男
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相川広夢の場合1

消したい記憶、ありますか?

もし目の前にボタンが出されて、これを押したら嫌な記憶が消えますよ、さあどうぞって言われたら、それを押しますか?

 僕は押します、あの記憶もこの記憶も、全部消します。そうすればきっと、穏やかに暮らせると思うのです。心穏やかに暮らしていたいのです。あなたのことも、僕のことを深く深く傷つけた、できごとも全部消して、生まれ変わって生きていきたいのです。こんな心の傷、忘れてしまいたいのです。



 “その日”は突然訪れた。新聞の一面、ニュース、雑誌の見出し、すべてに同じ文字が躍った。

 記憶を消す技術が確立される。

 勿論、一大学生の僕にもその情報は飛び込んできた。朝食を食べている最中に見ていたテレビで、その文字を見た。

 記憶を消す。

 今までにありそうでなかったその技術は、どうやら日本最高峰のA大学医学部の今藤教授が創造したらしい。朝の情報番組に中継で出ているその教授は、取材が殺到したせいか、なんだか少し疲れているように見えた。歳のせいだけではなさそうだ。きっと疲れていなければ、精悍な顔立ちをしているのだろう。力強い瞳が揺らいで、皺だらけになった手が、真っ白な頭を覆い、彼はぼそりとつぶやいた。


「・・・やっと、やっとこれで彼女忘れられます」


 ドクン。

 今藤教授のその言葉を耳にした途端、僕の心臓が大きく波打った。

 そこからはどうやって記憶を消すことができるのか、細かな医学的説明がなされていたが、それらが僕の耳に入ることはなかった。


 消したい記憶、ありますか?僕にはあります。僕には消したくてたまらない記憶があります。


 なんとなくで選んだ経済学部には3年も在籍しており、僕にとっては可もなく不可もなくの環境であった。なんとなくで選んだフットサルサークルも、なんとなくで選んだファストフード店というバイト先も、すべてが僕にとってはとりとめのないものだった。平凡で味がなく、とりわけ苦労もないこのぬるま湯のような生活が、僕は嫌いじゃなかった。

 ただ一つ、僕には大きな傷があった。

 大学二年の春、僕は母を失った。


 僕のアパートから大学までは自転車で十五分。春は自転車にのることが気持ちいいかもしれないが、夏と、冬になりかけた今の寒い季節は苦労のほうが多かった。といっても、十五分だけなので特に不便はない。大学三年の秋ともなると、単位も十分に取り終えてさほど講義もなく、暇を持て余すことが多かった。こうして大学までの道に自転車を走らせているものの、正直、特に用事はなかった。

 落ち葉が目立つ構内の駐輪場に愛車を止め、僕は図書館を目指した。することはなかったのだが、今朝のニュースを見ていたらじっとしていられなくなったのだ。いつもは人で溢れている構内も、肌寒いせいか外に学生の姿はあまり見られない。腕時計で時間を確認すると、今はちょうど二限目の講義の最中であった。これならきっと空いている、と少しだけうれしい気持ちになりながら、僕は図書館に足を踏み入れた。

 僕の通う私立大学は多くの学部が存在しており、いわばマンモス大学であった。そのため、図書館の規模は机上に大きく、様々な専門書が並べられていた。いつもは経済学、と分類された本棚で足を止める僕だが、今日はそこを通り過ぎ、目的の本棚まで歩を進めた。

 僕がたどり着いたのは医学書コーナーだった。

 僕が探しているのは、今藤教授の本。今朝のニュースでみた彼の顔がどうしても忘れられなかったのだ。しかし、今藤教授の本は一冊もなかった。ミーハーな日本人のことだ、多くの人が今話題の人の本を読みたくなったのだろう。

 お目当ての物が手に入らず、肩を落としながら僕は大学を後にした。アパートに戻り、布団がぐしゃぐしゃになっているベッドに身を沈める。

 記憶を消す技術。

 今朝のニュースを見てから、僕は母のことをずっと思い出していた。

 僕の家は、所謂母子家庭だった。父は知らない。顔すらも思い出せないくらい幼い頃、家を出て行ったそうだ。当時、専業主婦だった母は必死に仕事を探した。二人で狭いアパートに住み、来る日も来る日も働く母の姿を、僕はずっと見ていた。

母はどんな時でも笑顔だった。

 そう、言えればよかったのだが、僕の母は違った。僕が何かを欲しがる度、ごめんねと泣いてばかりいた。その度に母は言うのだ。

 お母さんも辛い、お母さんも苦しい。お母さんね、お父さんのこと、忘れたいの。

 僕はずっと、その言葉の意味が分からなかった。お父さんのことを忘れたい。父の記憶がない僕には、母のその感情に寄り添うことができなかった。その言葉の本当の意味を知ったのは、母が亡くなったときだった。

 僕が大学二年生の五月に、母は交通事故で死んだ。


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