約束の薔薇(3)
番外編をお読みくださった方、ありがとうございます。
アンジェリカは久しぶりに父と膝を交えて語り合った。二人で自分の思いを語り、相手の思いを知り、母との思い出を語り、そして泣いた。
「私もアルベットも、お前とエリザを愛しているよ」
父親から誠意をもって言われれば、アンジェリカの胸が熱くなる。
父に愛されていることの幸せを知った途端に、自分が愛されることは当然と思い傍若無人な態度だったこと、エリザに対しての仕打ちが酷いものであったことに嫌でも気づかされた。そんなことをしていたのに父は自分を愛していると言ってくれた。ならば、その父に相応しい娘になりたいと強く願う。
「私もお父様とお母様を愛しているわ」
「アンジェリカ。エリザのことは……」
「今の私にはエリザに謝る資格がないと思うの」
ごめんなさいとも、許してほしいとも大好きとも。今のアンジェリカである以上、何を口にしたとしてもただエリザを傷つけてしまうだけ。それに、彼女の傍にいるヨルクがきっと自分を近づけることはないと思う。彼はいつでもエリザを大事に大切にしていたし、エリザにはそれだけの価値があるのだ。
「お前が謝罪をすると決めた時。エリザはいつでもそれを受け入れると思うぞ。あの子はアルベットに似て懐の深い子だからな」
続けてお前の視野が狭いところは私に似てしまったのだなと侯爵は溜息を零した。
赤い目で美術室に顔を出したアンジェリカにベルンハルトは僅かに目を見開いたが、何も言わず彼女用の椅子を差した。アンジェリカは彼に勧められるまま無言で座わる。
「昨日、お父様といろいろと話をしたわ」
ぽつりぽつりと昨日のことを語るアンジェリカにベルンハルトは口を挟まずに静かに付き合った。
「それから、あなたからの宿題の答えは『内側を磨くこと』だと思うの。エリザのように内面から輝く女性になるために」
「それがオマエの答えか」
ベルンハルトに問われてしっかりと頷く。
「薔薇にもいろいろあるでしょう。例え枯れたとしても薔薇が思い出となるような、愛される薔薇になってほしいとお母様は願っていたと思うの。それから例え私が他の誰からも愛されない薔薇になったとしても、私は私なのだから、どんな私でも愛するからと―――」
昨日父と話して出た結論だ。今はもうそれを母に確認することはできないが、おそらく間違いないと思っている。
「私、誰かに愛される薔薇になりたい」
唇を噛み締める。
ベルンハルトに先ほど強気に言ってみたものの、あまりにも長い年月茨であり続けた。人の気持ちがわからず、傷つけてばかりだったこんな自分が花に、まして愛される薔薇になることはできるのだろうか。母との約束を守れるのだろうか、とアンジェリカは不安になる。
「そりゃ、オマエしだいだろ」
アンジェリカの暗鬱な思いを他所にベルンハルトは平然と言う。
「ただし、『なりたい』って心持ちでなれると思うなよ。『なる』って決めろ」
「何が違うの?」
「なりたいはただの希望。なるは決意だ」
どっちなんだ、と瞳で問われ、アンジェリカは静かに唇を開いた。
「あなた、たまには先生らしいことも言うのね。―――私、誰かに愛される薔薇になるわ」
「たまには先生らしいところも見せるさ。じゃあお前が諦めない限り課外授業してやるよ。」
そう言ってベルンハルトは課外授業の内容をアンジェリカに伝えた。
絵のモデルとして定期的に彼のアトリエにくること。彼女が今まで感情的になった出来事について正直に彼に話すこと。それでよかったのか、どうしたらよかったのかを自分で考え答えを出すこと。
「話すことで自分を振り返り、自分を知ることができる。どうだ?」
「するわ。その“課外授業”」
こうしてアンジェリカとベルンハルトの“課外授業”は始まった。
長年培っていた感情に負けやすい性格はすぐには変わらない。けれど、自分を知ることで感情を理性で抑えることや忍耐を少しずつ覚えた。そのためには知識も必要と自覚し今まで避けていた勉強に手を付けることもした。
学園卒業前には晩餐会の疑似練習を行った。トーヴィル侯爵の協力はもちろん、ベルンハルトの口添えでロンバルティ侯爵夫人も協力してくれた。
その時にアンジェリカは知った。どれだけ大変な思いをしてエリザが開催したのか。招待客に目を向けるだけではなく料理や調度品の素材を一つ一つ選ぶことの大事さ、指示通りに動いてくれるスタッフのありがたみ。己の出す指示のタイミングと出し方の難しさ。そして己のあまりの不出来さを。
「以前あなたが言ったように、エリザのことを『エリザなんか』と言っていた自分が恥ずかしいわ」
ベルンハルトにそう漏らせば、
「気づいたのなら改善すればいいだけだろ」
彼は変わらぬ顔で返していた。
「母さんが言うには、一応及第点だとさ。お前の笑顔と話術が減点だったそうだ」
「笑顔と話術…」
普段であればクリアしていた分野だ。課外授業が始まってから、様々な分野の知識も手に入れるようにしていたし、以前のような笑顔も意図的にすることもできるようになったからだ。しかし、それが発揮できなかったのは招待客の中にベルンハルトがいたからだった。
正装に身を包んだベルンハルトを見て、しなくてもいい緊張をしてしまったのだ。顔は引き攣り、言葉は歯切れの悪いものになり……
「あなたを見たら急に緊張してしまったの。どうしてかしら」
「どうしてだろうな」
疑問を口にしてみれば、彼からの答えは相変わらずもらえない。
これもまた自分で考えろということね。
アンジェリカは小さく溜息を吐いた。
ベルンハルト・ロンバルティという男はだれからも見上げられているくらいの高身長で、芸術家というには繊細さは皆無に近く、顔つきも男らしくて体格も厳つい。気ままな性格で、彼がどう根回ししたのかそれまで存在していなかった学園の美術教師という唯一の存在として着任してしまっている。そこそこ学生の人気もあり学生との交流もあるけれど深入りはしない。
「それでも私の話に付き合ってくれていたし、課外授業もしてくれているのだから、意外にお人よしなのかもしれないわね」
晩餐会での失点。それを考えるにはベルンハルトを知ることが必要かとずっと彼を観察していたのだがそれは学園を卒業してもそれは変わらなかった。なぜベルンハルトを見て緊張してしまったのかがわからないのだ。
ベルンハルトを見てふとした瞬間に緊張してしまうことも変わらず続いており、その理由が全くわからない。
「私、一体どうしちゃったのかしら」
それが最近のアンジェリカの口癖となっていた。
ベルンハルトのアトリエはかなりオープンに作られていて、遠目ではあれど人目に触れる機会が多い。故にアンジェリカがベルンハルトと二人だけになろうとも不誠実な関係と捉えられることはなく、課外授業が始まり既に三年が過ぎた。
アンジェリカは学園を卒業し結婚適齢期である二十歳となった。課外授業の成果もあってか、縁談の話がアンジェリカにちらほらとかかるようになっていた。今のところトーヴィル侯爵家令嬢という立場にもかかわらず婚約者どころかその候補さえ上がってはいない。それがエリザとの確執の結果であることをアンジェリカは受け入れていた。政略結婚の言いつけを待つ身であることも理解していた。エリザはといえば既にヨルク・ロングラムと婚約しており、結婚間近と言われている。二人の恋愛結婚をアンジェリカは羨ましいと素直に思えた。
課外授業が始まってからベルンハルトはアンジェリカをモデルに何枚か絵を描いていた。ただ、彼が自分の絵を彼女に見せることは決してなかったので、彼が描いているものが本当にアンジェリカの肖像画なのかはアンジェリカ自身も知らないことであった。
そんなある日
「ロンバルティの変わり者が縁談を受けたそうだ」
アンジェリカはトーヴィル家の使用人たちがそんな噂話をしていたのを耳にした。ロンバルティの変わり者、といえばベルンハルトのことだ。アンジェリカは胸に黒くて重い何かが生まれたように感じた。
だから定期的なアトリエでの課外授業の前に、胸のモヤモヤを振り払うべく戸惑いながらも確認をアンジェリカは試みた。
「あなた、結婚するの?」
「まぁな。今回かなり良い話が持ち込まれてな、断る理由が無い」
迷いのない肯定の言葉に、そう、とアンジェリカは小さく頷いた。
ベルンハルトは二十七歳となり、男盛りだ。結婚どころか愛人がいてもおかしくはない。
ベルンハルトの結婚について何かを言う権利はアンジェリカにはないけれど、納得できないものが胸の中に生じていた。あの日生まれた重くて黒いものは、今は闇のようなものに変り胸に渦巻いているのだった。
「そう。それなら、私はもうここには来ない方がいいわね」
「そうか?」
「もちろん。あなたのお相手に申し訳ないわ。旦那様になる人が若い女性と二人でいることは心乱されれことでしょう。相手が元教え子であったとしても」
引き攣った笑みだと自覚しつつアンジェリカがそういえば、彼はくつくつと笑った。
「そんなもんかぁ。まだお前の課外授業終えてないんだけどなぁ」
「ダメよっ! お相手を悲しませることをしては。不誠実よ」
アンジェリカはベルンハルトを睨み付けた。
自分だったら、とアンジェリカは想像する。旦那様になる人が女性と二人だけで過ごす時間、共有する空間があったら。そんな女性がいると知った時の悲しみ―――
そんな思いをさせてはいけないとアンジェリカは思ったのだ。
「そうだな。お前も相手のことを思う気持ちがわかるようになったってことで俺も嬉しい。ってことでお前との課外授業はもうお終いにしよう」
お読みいただき、ありがとうございました。
次回完結です。