約束の薔薇(2)
番外編をお読みくださった方、ありがとうございました。
ベルンハルトから宿題を課されて館に帰ったアンジェリカは使用人たちに迎えられた。エリザがヨルクと共に出て行ったときに涙を流して彼女を見送った者たちだ。けれど彼らはアンジェリカには一度たりともそのような感情を含ませたことはない。なぜなら常に侯爵とアンジェリカに対しては一線を置いていたからだ。愛想笑いを浮かべながら己の仕事だけを極めていた使用人たちだが、エリザが出て行った以降は瞳に氷を入れているのではと言いたいくらいに冷めた目でアンジェリカを見ている。声を掛けても「はい、わかりました」としか答えない。彼らに宿題の協力はしてもらえないとわかりきっているアンジェリカはベルンハルトに言われたように自分で考えるしかない。
しかし。
―――薔薇は薔薇よ
いくら考えてもアンジェリカには母親の言っていた意味がわからない。
薔薇は美しいからこそ薔薇なのではないのか。枯れてしまえば薔薇と呼べないと思うけれど、母は綺麗ではなくても、匂いが悪くても、枯れていても、薔薇なのだと言った。
しかも、ベルンハルトはアンジェリカのことを枯れた薔薇だと言った。
私は枯れた薔薇。バラは、バラ―――
「アンジェリカ、具合でも悪いのか」
思考を振り払って視点を合わせれば、向かいに座る父の深い茶色の瞳がアンジェリカを映していた。
父親に笑顔はない。アンジェリカがはしゃいだ調子で話をすれば、それを嬉しそうに聞いていた侯爵。それは既に過去の姿で、ある日彼から『品がないから食事中の会話は控えるように』と彼女は叱られた。以降、食事の席での会話は段々と減り今では無いに等しい。アンジェリカが父親の書斎で談笑することもなくなった。
父はエリザが可愛くなり自分のことを嫌いになったのだ、小言しか言わない父親と顔を合わすのはごめんだと、アンジェリカは食す時間をずらしていたのに今日は考え事をしながらの食事であったために同席となってしまったのだった。
「いいえ、少し考え事をしていただけ」
にこりともせずに硬い表情のまま小声で答えれば、侯爵は眉を顰めた。
その表情を盗み見て、きっとお父様は私のことを可愛げがないと思ったのだろう更に嫌われてしまった、とアンジェリカは思った。アンジェリカは笑うことが少なくなった自覚はある。笑うような心境ではないし笑える出来事もないのだ。むしろ怒りだけが日々募っている。
それは学園だけではなくこの館でも同様で、アンジェリカはイライラとしていることが多くなった。そう思い至った時。
枯れた薔薇。
確かにそうかもしれない、と思った。
見た目は若く美しいけれど、輝いていない薔薇。見るものを魅了する力のない、薔薇。母やベルンハルトはそれもまた薔薇だと言う。ならば、私はいまそういう薔薇だということだろう。
それがアンジェリカの回答だった。
「昨日の答えは、今の私は美しい薔薇だけれど、誰も魅了できていない薔薇ということねっ!」
美術室で絵を描くベルンハルトにアンジェリカは遠慮なく近づき、その背に向かって唐突に回答を告げた。
意気揚々としたアンジェリカの言葉をベルンハルトは鼻で笑う。
「オマエ、そういうコトを嬉々としながら話すんじゃねぇよ」
アンジェリカとしては自分で答えを見出したことを自慢したかったのであり、何故ベルンハルトに笑われたのかがわからない。笑われた、ということは答えが違ったということなのだろうか。そう思い首を傾げたアンジェリカは
「オマエが見つけた答えがそれなら、それが正解だろ。じゃあ、魅力のないお前はこれからどうするんだ」
「え?」
答えを見つけたのに褒められるどころかすぐに次の質問をされ、一瞬呆気にとられる。
「綺麗なのは一時だけだろう。お前が歳を重ねて綺麗ではなくなったとき、お前はどうすんだと聞いてる」
「ええっ」
今度は驚き、身体が固まってしまった。彼女はベルンハルトに言われるまでそんなことを考えたことがなかったのだ。いつまでも美を追求して美しくあろうと決めていたし、未来永劫美しくいられると信じていたからだ。
「わ、私はいつでも美しくいられる……」
「エリザの横に立つヨルクの顔、見たことあるか?」
「―――あるわ」
エリザを見ながら蕩けそうな、愛おしいと思っていることが見て取れる笑顔。以前父親が自分を見ていた時と同じ瞳。アンジェリカがずっと自分に向けて欲しいと願った表情。それが手に入らなかったことが悔しくて、エリザやヨルクを見ることも話すこともやめてしまったのだ。
「じゃあ、俺からの次の宿題。オマエが誰かをあんな顔にさせるにはどうしたらいいのか、考えて来い」
「いくら考えてもわからないわ」
答えを見つけようといくら考えてもわからない。
『相手を魅了するには『美』だけで十分じゃない。私がもっと美しくなればいいのでしょう?』
一度ベルンハルトにそう言ってみたが、
『お前の答えがそれならそうしろ』
にべ無い返事で終わってしまった。変わらず筆を持つ手を止めずキャンバスと向き合う彼の背中が『答えが違うのかも』とアンジェリカに思わせた。その後もベルンハルトの元に通ってはいるが、彼からの回答も同意も得られずに時だけが過ぎていた。アンジェリカは見えない答えを求めて溜息を吐く。
「綺麗なだけではいけないの?」
「ここにいたのか」
「……お父様」
アンジェリカは馴染んだ低い声に即座に反応し、表情を強張らせた。
「ここは私もアルベットも気に入っていた場所だ。お前も好きなのか」
気遣うように問われれば、同じように気遣いながら頷いて俯く。ここはアンジェリカが母親と約束を交わした、赤い色と独特の香りの薔薇に囲まれた場所だ。
アンジェリカの肯定を見てそうか、と公爵は言いアンジェリカの座る対の椅子に座った。
無音の時間。アンジェリカは何を話したらいいのかわからず、自分の指を眺める。あまりの居心地の悪さにこの場を去ろうと立ち上がろうとしたその時。
「―――薔薇園で私とアルベットは出会った。ここはその場所に似ているんだ」
「えっ」
侯爵の声に顔を上げれば彼は脇目もふらず薔薇を見ていた。そこにあったのは以前アンジェリカを見ていた侯爵の表情。アンジェリカの好きだった父親の顔。
「お前がここを好きと言ってくれて、私は嬉しいよ」
アンジェリカの頭を撫で、目を細めて笑う侯爵に言葉を返せない。父親は薔薇を見て母親を思い浮かべていた。
そしてアンジェリカが薔薇を好きだと言っているのも母親との思い出があるからだと理解した。薔薇を見て母親を思い出すのだ。大好きだった母からの言葉を、声を、面影を。
だから、私は薔薇が好き。
―――あなたがどんな薔薇に育つのか楽しみにしているわ
どんな薔薇になれとは言わなかった母。けれど母に自慢できる薔薇になりたいと思った。あの時母の魅力を上げた一輪の紅い薔薇のように。
母は薔薇のように美しかった。だから私は『美しさ』を求めて―――違う。母は美しいだけではなかった。優しくて、温かくて、強くて、誰からも愛されていた。そしてあの時、母は薔薇を見て父親と同じような瞳をしていた。きっと、あれは……
「お母様もお父様と出会った時のことを思い出していて、だから薔薇が好きだったのね。私は……」
アンジェリカは母親の言っていた意味を初めて理解した。
「私、ずっと薔薇のように綺麗であればいいのだと思っていた。だって薔薇だから」
「アンジェリカ?」
父の呼びかけに気付かず、アンジェリカは咲き誇る紅い花を見た。そこには母の思い出が詰まっていた。母だけではない。
あの頃。優しかった母親と、力強かった父親と、仲の良かった妹と四人の思い出―――
アンジェリカはエリザを思い浮かべた。邪険にしていたにもかかわらず傍にいて支えてくれていた妹。どんなに無下に扱っても気遣ってくれていた妹。
そしてベルンハルトがエリザを薔薇と例えた意味がわかった。
エリザは薔薇だ。華やかというよりも上品で毅然とした女性、そんなピンクの薔薇。
ヨルクが彼女を愛するのも当然だ。家族に疎外され学園でも孤独であっただろうに凛としていたエリザ。貴族としての品を常に保ち続けていたエリザ。
己を振り返ってみれば、幼い頃から感情に任せて口ばかり動かしていた記憶しかない。形と色だけは薔薇で、でも匂いはきつくて棘は尖り切り人を痛めつけていた花。そんな自分は薔薇どころか花の咲かない茨の方がふさわしい。
「ねえ、お父様。私をおばあ様の所へ行かせて、エリザをここに呼び戻してもいいのよ」
薔薇を見つめたままアンジェリカは思いを零す。
私は父にとって自慢の娘にはならない。父に嫌われて当然の娘。トーヴィル侯爵家の娘と名乗るにふさわしいのはエリザの方。
「アンジェリ……」
「トーヴィル家の娘としてお父様がエリザを選ぶなら、私はそれでも構わないわ」
「選ぶ選ばないじゃない。私の愛する娘はアンジェリカとエリザだ。なぜお前はここを出て行こうとするのだ。私から離れようとするのだ」
アンジェリカの両肩を掴み、真顔でアンジェリカの目を見て断言する声に迷いは一切ない。
「お父様はこんな私を、愛してくれている、の?」
「当たり前だっ」
父親の言葉を素直に嬉しいと思った。
茨である私が父に愛されている。それが『綺麗だ』と言われていた時よりも何故だか嬉しい、とアンジェリカは思った。
そして脳裏に過る母の言葉。
―――薔薇は薔薇よ
「あれは、どんな薔薇になっても私を愛してくれるという意味?」
お読みくださり、ありがとうございました。




