1.
さりげなく投稿してみました。
トーヴィル侯爵の亡き妻アルベットへの愛の深さはベリアーノ国の貴族であれば誰もが知っていることだ。
良妻賢母と言われたトーヴィル夫人は愛する夫と五歳になる双子の子供を残してこの世を去った。流行り病での突然の死去。その出来事はトーヴィル侯爵の心を酷く痛めつけ、彼は泣き悲しむ日々を過ごしていた。そんな彼もやがて立ち直りの姿勢を見せ、以前と変わらぬ姿となった。“父親”としての彼は変わってしまったけれど。
幼かった双子は今や十五歳。トーヴィル侯爵夫妻が出会った貴族が通う“王立学園”に二人とも通っていた。
『わたし、お父様大好き』
『あら、エリザが好きなのはお父様だけなの?』
『お母様も好きー!』
『ふふっ。ならお母様とお約束しない?』
『お約束?』
『そう。あのね……』
愛していた母がエリザに囁いた約束。
あの内緒話をしたのは母を目にすることができなくなる少し前のことだったか。
あの頃は父も母も、アンジェリカとエリザを分け隔てなく接していて家中が笑顔であふれていた。
そんな懐かしい思い出がふと脳裏によみがえったのは、今いる場所が父と母が好んでいた場所、書斎だからかもしれない。朝日が入り、日当たりのよいこの書斎で良く二人はお茶を飲んだり話をしたりしていた。二人で穏やかな時を過ごしていた。
けれど今は穏やかとは程遠い ―――
「聞いているのかっ?」
トーヴィル家の書斎で父である侯爵に一喝されたのは彼の愛娘アンジェリカ、の妹であるエリザだ。
娘たちは双子であるにもかかわらず似たところがない姉妹であった。アンジェリカは輝く巻き毛の金髪、陶器のような肌、目鼻立ちがはっきりし艶やかな紅い唇を持つ母親のアルベットにそっくりな美少女だ。しかし妹のエリザは父親のストレートの茶髪に茶色の瞳を受け継ぎ、見目は特に秀でる所のない少女だった。
十年前、トーヴィル侯爵の心の喪失を埋める存在となったのは、妻によく似たアンジェリカであった。彼女は事ある毎に妻の面影を思わせ、侯爵の心を慰めた。故に侯爵は彼女を、アンジェリカだけを溺愛する。
傍目から見てもわかるくらいにアンジェリカとエリザへの対応は雲泥の違いがあるものだった。
「お前はアンジェリカに迷惑しかかけられないのか? アンジェリカの未来がかかっている晩餐会だぞ。お前が足を引っ張ってどうするのだっ」
この国では貴族女性の社交界の関わりは十六の誕生日にお披露目として己が晩餐会の主人となり、その実力を他の者たちに示して見せることがスタートとなる。その実力次第で社交界での始まりの位置が決まる。晩餐会の出来不出来はまさしく未来を左右するものであった。
アンジェリカの誕生日まであと一週間。彼女の晩餐会まで日がないのに、準備に手間取っていることが侯爵に知れ、エリザはその責を問われていた。
「晩餐会がいかに重要なものなのかはお前も知っているだろう! “アンジェリカ”のお披露目まであと一週間しかないのだ。早急になんとかしろ!」
侯爵の怒りを口答えせずエリザは受け止めていた。自分が口を開いても彼がそれを聞いてくれることはないと知っている。だから静かに頭を下げ、侯爵の言っていることを厳粛に受け止めたと態度で示し言葉で表す。
「大変申し訳ございません」
エリザの態度と謝罪に侯爵も一応は満足したのか、下がれと言うひと言ともに彼女を解放した。
呼び出された書斎を出てエリザは溜息を零す。
晩餐会の準備が進んでいないのは決して自分のせいではないのだが、侯爵はそれを知ることも認めることもないだろう。お披露目の補佐をしろと父に言われていたエリザは何カ月も前よりアンジェリカへ誰に招待状を送るのか、リストを作ることを依頼していたのだ。
「私を知る全員に送ればいいじゃない」
その時アンジェリカは事もなげに笑顔でそう言った。当初はその発言は冗談であると思っていた。この館にそれだけの人数が入るわけがないことはわかりきっている。リストアップを終えたらそれをきちんと渡してくれるものだと思っていた。しかし、依頼して一カ月を過ぎてもアンジェリカはリストアップで悩む様子もなくリストを渡してくることもない。不審に思い尋ねてみたところ、あの時と同じ態度で同じ言葉を彼女は口にしたのだった。
あれは冗談ではなかったのだと理解したエリザは慌てて親戚や父と交流ある貴族、記憶を辿ってのアンジェリカの友人をリストアップし、館のホールの大きさを考え招待客の人数を調整し……とスタートから遅れ遅れとなってしまったのだった。
それでもアンジェリカが自身と会場の装飾と装飾品の選択だけは行ってくれたので、本人と会場装飾は既に用意できていた。ただ、晩餐会全体の準備状況を尋ねられ、父の予定していた状況よりも遅れていたこと、その原因について『だってエリザが…』とアンジェリカが唇を尖らせて漏らしたことで今回の叱責に繋がったのであった。
「エリザ様。晩餐会のお食事と食器の件ですが…」
気分を晴らす間もなく厨房とホール担当の使用人がエリザに声を掛けてくる。残された時間は少ない。トーヴィル侯爵家の威信をかけた晩餐会だ。エリザとてそれに協力することを惜しまない。
侯爵家の使用人たちも自分たちのプライドをかけて主人であるアンジェリカのお披露目の成功を願っている。だが、使用人たちはエリザの指示がなければ動くことができなかった。本来お披披露目の晩餐会は主人の力量を示すために他の者たち、使用人たちが勝手に動くことは禁じられている。しかし、アンジェリカからの指示は一向にない。結果、戸惑った使用人たちはアンジェリカが主人ではあるが、“侯爵令嬢が主人である”と広義に解釈し、エリザに指示を求めた。実際、アンジェリカに晩餐会の相談をしても呆れた様子で
「そんなこと、エリザに聞きなさい」
そう“指示”が返ってくることも使用人たちは重々承知していた。
「そうね。メニューは先日決めた物で順番もそのままでお願いします。仕入れはカスコットさんの所にお願いしてあります。当日取れた新鮮な物を調達してくださるとお約束していただいていますが、一応材料はハーノイに目を通させて、彼が不要とした物は使用しないように。食器は数が不足しているのですか? それでは……」
次々に必要な指示を出せば、その場にいた使用人たちはほっとした顔を見せた。
トーヴィル侯爵家にエリザがいなかったら、間違いなくアンジェリカのお披露目は失敗していたであろうと誰もが痛感している。
そして同時に顔を曇らせるのだ。アンジェリカのお披露目の晩餐会は開催されるけれど、エリザの晩餐会は決して開催されることがないことに。
「晩餐会まで一週間を切ったね。準備はどうだい?」
図書室で本を読んでいたエリザに声を掛けてきたのは三年生のヨルクだった。彼は王の側近であるマルセルム伯爵家の長男だ。学園では常にトップの成績を収め、人当たりも良く見目も麗しい彼は学園内でも男女問わずの人気者である。
対してエリザを気に掛ける人間は学園内では数少ない。
というのも、エリザが誰かと親しくしているとアンジェリカが不快を露わにするのだ。トーヴィル侯爵に溺愛されていることは周知の事実で、その彼女に取り入ろうとする者は多い。そんな取り巻き達がエリザから人を遠ざけてしまうのだった。
『誰からも愛されるのはアンジェリカで、誰からも愛されないのはエリザ』
それがアンジェリカの“常識”なので、取り巻き達はその“常識”を守ろうと協同している。
それでもヨルクがエリザと話ができるのは、彼がベリアーノ国第一王子ルーパートの親友であることとマルセルム伯爵家がトーヴィル侯爵家と同等以上の財力と権力を持っているからである。アンジェリカがいかにヨルクをエリザから離そうとしても、彼にはアンジェリカや取り巻き達の力は及ばないのだ。
ヨルクはエリザが学園に通い始めた当初から気さくに声を掛けてきていた。父にアンジェリカと比較され続けてきたエリザにとって、踏み込まれる交流はあまり得意ではない。伯爵家長子という身分のヨルクとの会話は戸惑いだけのものであったが、それでも半年続けば慣れも出てくる。打ち解けあう、とまではいかなくても先輩後輩の会話程度には言葉を交わすことができるようになっていた。
「順調に進んでおります。皆様に満足していただけるような晩餐会になるように全力を尽くします」
読んでいた本を小さな音を立てて閉じ、膝元に置く。
「ヨルク様もご出席いただけるとのお返事で、アンジェリカも喜んでおりました」
彼からの返事が届いた時、アンジェリカは喜び勇んで侯爵の元に駆け寄り
『ヨルク様が来てくださるのですって! お父様、実は私ヨルク様をお慕いしているのです ―――』
扉が閉じていても彼女の興奮した声は廊下まで響いていて、本来ならば『レディとしてはしたない』と叱責される状況でも侯爵は甘い声で彼女の話を聞いていた。恐らくアンジェリカはヨルクと“家同士”の付き合いができるように父にお願いしたのだろう。そして父はそれを承諾したはずだ。
「父もヨルク様の出席を喜び、心よりお待ちしています」
「そうなのかい?」
ヨルクはエリザを見たままふうん、と小さく頷いた。その仕草が『君は喜んでいるの?』と言っているように見えたが、気のせいだとエリザは一蹴した。
晩餐会当日。
アンジェリカは華やかな光沢のあるサテン生地のロイヤルブルーのドレスに、父が買ったエメラルドを中心とした装飾品を身に付けて父と談笑していた。主人としての見映えは良く、会場内も華やかな装飾なので、“アンジェリカらしい”晩餐会の会場となっている。
「アンジェリカ、そろそろお見えになる時間よ。お客様のご挨拶は……」
「そんなことは分かっている。お前はもう控えていろ」
侯爵の言葉にエリザは頭を下げて後ろに下がった。
今日は自分の誕生日でもあるが、お披露目はアンジェリカのみだ。となれば、自分には社交の場に出る資格はなくドレスを纏ってこの会場にいることもできない。
きらびやかな身繕いのアンジェリカとは異なり、エリザは給仕服を着ていた。晩餐会中も滞りなく進行できるように細かな指示は必要だ。正式に参加できないのであれば、給仕がてら状況をみてその場その場で指示を出すしかない。
「エリザ様。お飲み物の事で……」
早速声がかかる。給仕に指示にと忙しい時間が始まった。
「……君は主人なのだろう?」
「いいえ。今日のお披露目の主人はアンジェリカです」
正装で現れたヨルクはエリザを見るなり目を丸くしていた。珍しいお顔を拝見したわと口には出さずに心で呟く。
「だって今日は君達の誕生日で」
「ええ、誕生日なのでアンジェリカによる晩餐会です」
「いや、だから今日のお披露目は君も……」
「ですから本日のお披露目の主人はアンジェリカで」
「進展ない会話は一回止めましょう」
埒があかないと判断したヨルクの同伴者の女性がパチンと扇を閉じて二人の注意を惹いた。
エリザはその女性を学園では見たことがない。当然だ。その女性は白髪混じりの初老の女性だったからだ。
「初めまして。私、ヴィヴィア・ベトロートと申します。マルセルム伯爵縁の者で、本日は当主代理で参りました」
「このような姿で失礼致します。私はエリザ・トーヴィルと申します」
名乗りながら膝を曲げてお辞儀をする。
マルセルム家にはヨルク宛と当主宛に待状を出したはずだ。賓客が男性から女性に代わったとなれば席次の調整が必要だろう。
「ヴィヴィア様、ヨルク様。本日はお忙しい中のご来訪、誠にありがとうございます。申し訳ありませんが私はこちらで失礼致します。楽しい時間となりますようトーヴィル家一同、心より尽くさせて戴きます」
軽く礼をして厨房へと足を向ける。
来客が待機している応接間の飲み物の減り具合を確認に来てヨルクと顔を合わせて話し込んでしまったので、指示を出す時間が遅くなってしまった。早急に不足物の手配をしなくてはいけない。それから席次の指示と……
「エリザ様!」
考えがまとまる前に厨房の方から小声で呼ぶ声がする。エリザは無礼のない程度に早足で厨房に向かった。
「晩餐会成功おめでとう。評判は上々だよ」
翌日、不機嫌そうな顔でヨルクはエリザに会うなりそう言った。
彼が眉間に皺を寄せるような感情を持続させていることは少なく、本当は何かしらの不足があったのではと思うが嘘は言わない人なので彼の言葉をそのまま信じることにする。
「それは良かったです」
アンジェリカの社交界デビューも成功したということだ。アンジェリカも父もさぞ喜ぶことだろう。
「あの時は話せなかったけれど、君のお披露目は?」
「ありません。トーヴィル家の者として社交の場に立つのはアンジェリカの役目と昔から決まっています」
「決まっている?」
エリザの即答内容にヨルクが訝しげな顔をした。
エリザは彼にずっと黙っていたことがある。それを伝える時が来たのだと覚悟を決めた。
「はい。父が社交の場では私にトーヴィルを名乗るなと言っておりますので、私はいずれあの館を出ることになります」
それは幼い頃から父に繰り返し言われていたこと。
『私の娘はアンジェリカだけで充分だ。成人後トーヴィルを名乗っていてもお前は社交界には出さない』
つまり貴族の仲間入りはさせないという意味だ。
だからエリザは勉学に励んだ。学園で時間があれば図書室にも通った。卒業後は平民として生きていくために、知識はいくらあっても損はないものだから。
そんな未来を持つエリザと関わっても何の得にもならない。そのことをヨルクに告げずに来たのは、エリザがアンジェリカの視線にも辞さずに声を掛け続けてくれた彼との会話を、いつの間にか楽しんでいたからだ。しかし、さすがにお披露目はないことが知れてしまえばヨルクとてエリザとの関係に価値は見出さないだろう。
今は“まだ”侯爵家の娘であっても。
このような会話も今日が最後かもしれないとエリザは思った。
「でもあの晩餐会は君が企画して事を運んだのだろう?」
「……っ」
ヨルクがその事に気付くとは思ってもいなかった。しかしそれを口外されては困る。否定しようと口を開きかけたが、エリザの口元にヨルクの指が一本置かれ言葉を発することはできなかった。
「招待状は間違いなく君の字で、君の文面だった。だから僕は君のお披露目を祝いに出席したんだ。けれど肝心の君は主人ではなく給仕人で動いていた。でも見ていて気付いたよ。晩餐会は君が進行していたこと。使用人たちは常に君を見ていたし、君に目で指示を仰いでいたからね」
「……お客様を迎え、友好に会話されたのはアンジェリカです。主人はアンジェリカです」
あれはアンジェリカの晩餐会なのだとヨルクに信じてもらわなくてはいけない。そうでなければ、あの晩餐会がトーヴィル家の恥となってしまう。
我がトーヴィル家の使用人たちもエリザの指示で晩餐会が動いていたことは口にはしないはずだ。彼らはプライドを持って仕事をしている。主の恥となることを口にするはずがない。
ヨルクが一人、エリザが晩餐会の企画運営をしたと言ったところで誰も信用はしないと思う。けれど、余計な噂はない方が良いに決まっている。
表情を強張らせたエリザを見てヨルクは肩を動かして溜息を吐いた。
「エリザ……三日後に開催されるルーパートの婚約パーティのことだけど、僕のパートナーとして一緒に行ってほしいと言ったら君は承諾してくれるかい?」
エリザはヨルクの誘いに静かに首を振って否、と伝えた。
「君がエリザ・トーヴィル?」
ヨルクと別れて中庭を歩いていたエリザは名を呼ばれたので足を止めた。
周囲を見れば、声の主は話すことなどないと思っていた人物。
目にしただけで高貴と分かる立ち振舞いと彼を取り巻く圧倒される空気。
「……ルーパート、殿下」
慌てて恭しく礼をする。
すると、ルーパートの隣にいる人物がクスリと笑った。
「学園では立場は平等、となっているはずだけど」
「ディオノレ様」
「くすぐったいね。侯爵令嬢にそう呼ばれるのは」
ランディ・ディオノレ。エリザと同級であり男爵家子息の、学園内でルーパートを護衛する人物。
いずれルーパートを“知”で支えるはヨルク、“身体”で護るはランディと学園では囁かれている。
そんなランディはルーパートやヨルクとは異なり、少々…大分気さくな人柄のようだ。
「私に何か御用でしょうか」
「これを君に渡そうと思ってね」
綺麗な手で差し出されたのは、淡い緑の封筒で濃緑の蝋で封がされている。
「あの、これは?」
「招待状だ。私の婚約パーティの」
「確かに預かりました。ではこちらはアンジェリカに渡して……」
「トーヴィル侯爵には既に届けている。それは君宛なのだが」
は、と思わず呆けてしまった。
アンジェリカではなく私?
「失礼ですが、私は披露目をしておりませんので社交の場には……」
「いや、あれは君のお披露目と言っても構わない位だ。トーヴィル家の使用人たちは何も言わなかったが、見て分かったと言っていた」
言っていた? ヨルク様、かしら。
「しかし、父が許すはずが」
「だから君宛の招待状なのだよ。私が直々に君を招待した。この意味が分かるかな? ちなみにヨルクには招待状を渡していない」
「……はい?」
「だから、誰かがヨルクをパートナーに誘わない限り、彼は大事な親友の婚約パーティに参加できない」
「……え?」
「まあ、よろしく頼むよ」
「ええっ?」
慌てるエリザを置いてルーパートは優雅に立ち去っていく。足を止めているランディは、エリザのことを上下左右角度を変えながらまじまじと見て、
「侯爵家に居づらいようなら、ディオノレ領においで。君の成績なら我が領で食うに困らないから」
口早にそう言い残し、ルーパートの跡を追っていった。
エリザは混乱してその場に立ち尽くす。
王子から直々の招待状。これは出席しろという命令に近い。しかも、ヨルクには招待状を届けていないという。“誰か”が彼を誘わない限り……
ルーパートの言い方ではエリザにその役目を担わせたようだが、いいのだろうか。トーヴィル侯爵にまた叱責されるかもしれない。
ああ、でも。
ランディの言葉が思い出される。
『ディオノレ領においで』
もしも、父から見放されたならそれもいいかもしれない。ディオノレ領はこの地から遥か遠く、領主のディオノレ男爵は貴族では珍しい騎士上がりで実力主義ときく。
私のことを認めてくれるのなら、この地を離れてもかまわない。家族はいないに等しいし友人もいないし……
そう思いながらもヨルクの姿と母との“約束”がエリザの脳裏を過った。
お読みいただき、ありがとうございました。