番外編:Jの悲劇
番外編のアルフィード生存IFです。コメディ。
アル×リエは某黒幕魔導士のちょっかいさえ無ければ、確実に幸せを手に入れていたカップルだと思います。
その日、所属している騎士団で部隊長に就任した報告のため叔父の屋敷を訪ねてきたヴィルヘルム・イアーレウスが、一つ年下の従兄弟及びその婚約者の声を聞き付けたのは偶然だった。
少し開かれた客間の扉の隙間から、今年十六歳になった従兄弟と、その婚約者の会話が聞こえる。途切れ途切れに響く言葉は近付くごとに明瞭になって、歩き慣れた廊下を行くヴィルヘルムの耳へと届けられてきた。
従兄弟のアルフィードは、親の決めた婚約者であるリエナと仲が良い。普段はアルフィードがリエナの屋敷を訪れるはずだが、今日は逆であるようだ。
懐っこい子犬と面倒見の良い子猫がじゃれているような二人の遣り取りを見てむしゃくしゃする人間など、およそ両家の中ではヴィルヘルムくらいのものである。家族は二人の交流を歓迎しているので、今日も彼らの邪魔をしないよう使用人を遠ざけているのだろうと思いながら、ヴィルヘルムは幾分眉間に皺を寄せ、足音を潜めて部屋の前を通り過ぎようとした。
『――じゃあ、アルフィードは何が好きなの?』
扉の前を通ると同時に、鈴が鳴るように澄んだリエナの声が凛と響く。その後に、清水のように穏やかで優しいアルフィードの声が続いた。
『オレは、そうだなー。昼下がりの情事とか好きかな』
――ズザアァァァァァァッ!!
力一杯スライディングした。
しこたま廊下で前半身を擦った後、ヴィルヘルムはよろりと顔を上げる。愕然とした目で床と扉を交互に見て、ぱくぱくと口を開閉した。
「……!! ……、…………!?」
我ながら混乱している自覚はあったが、何を言いたいのかすら分からない言葉は残念ながら声にはならない。バカップル共のいちゃつきなど見たくもないと思っていた目が、クロールよりも激しく泳いだ。
『昼下がりの情事? ああ、良いわね』
良いのか!?
『だよね! 耽美な雰囲気で、でもスリルがあって、時々ふっと手を出したくなるって言うか!』
アルフィード!? お前そういうこと大声で言うようなキャラじゃなかっただろう!
いくら何でも、これは無視したら後が気になって仕方ない。たまりかねたヴィルヘルムは、不躾は承知で部屋に突入することにした。ノックをする間ももどかしく、扉を開けて中へと踏み込む。
綺麗に掃除が行き届いた客間では、アルフィードとリエナが間に行儀良く小テーブルを挟み、向かい合って座っていた。不意の闖入者に気付いた二人が、表情に微かな警戒を刷いてこちらを見上げてくる。
「――あ、ヴィル兄さん。来てたんだ」
「ご無沙汰してます、ヴィルヘルムさん」
けれど、すぐに現れた人物が顔見知りであることを知って、二人の目から緊張の色が消える。
幼げながらも柔和に整った容貌を持つアルフィードは、何一つ後ろめたいことなど無い無邪気な顔で。蓮花を想わせる美貌のリエナは、いつもの通り婚約者の従兄弟に向ける他人行儀な顔で。
何事もなかったかのような態度にイラッとするが、それで幾分気勢も削がれた。ヴィルヘルムは一度大きく息を吐き、とりあえず二人に挨拶を返す。
「……お邪魔してるよ、アルフィード。今日は叔父上に用があってね。リエナ、如何に婚約者と言えど、人気のない場所で異性と一室に籠もるなんて貴族令嬢としてどうなのかな。君たちはまだ正式な婚姻は結んでいないだろう」
「人の通りについては、私たちは何も関与していませんよ。今もアルフィードの自室ではなく客間を使用し、わざわざ扉に隙間まで開けています。この状況をいかがわしい目で見る人なんて、いるなら是非顔を見てみたいものですね」
即答するリエナは、開口一番の皮肉にも微動だにしない。これまでの自分とリエナの関係を如実に表していて些かやるせなくなったが、ヴィルヘルムはむっつりと目を細めるだけで反応を収めた。
「へえ、そうかい。……ところで、最近うちの騎士団の、第五部隊の隊長が一人休職してね。君、何か知らないかい?」
「……さて、心当たりがありませんが」
今度はリエナが目を泳がせた。分かりやすい態度をヴィルヘルムは鼻で笑い、更に畳み掛ける。
「以前は舞踏会で見かけたという君のことばかり声高に話していたのに、半月前を境にぴたりとそれが止まったばかりか、目の下に真っ黒な隈を作って徘徊するようになってたんだけど」
「…………」
沈黙して視線を逸らすリエナに、ヴィルヘルムの目がじっとりした。しばし無言で威嚇し合い、やがてヴィルヘルムは溜め息をつく。
「……まあ良いけどね、あいつは僕も早めに叩き落とそうと思ってた奴だから。でもあんまり見境なく潰されると困るんだよ、後釜がすぐに出来るわけじゃない」
「……ちょっと魔術で夢見を悪くしてやっただけですよ。あのクソ野、下劣な男、私を口説いてくるだけならまだしも、アルフィードのことでひどい悪口言うんだもの」
今クソ野郎って言いかけたな。
「リエナ……そこまでオレのことを……」
お前は黙ってろ脳内春色!
婚約者の行動にドン引くどころか感動しているアルフィードは、最近リエナが絡むと時々穏和を失踪させる。アカデミアに通っていた頃はまだこうではなかったはずだが、文官職で揉まれて何か感じるものでもあったのだろうか。
ちなみにここまで一連のリエナとヴィルヘルムの威嚇合戦は、何年も前から二人の間で挨拶代わりになっている展開である。主にヴィルヘルムが仕掛け、リエナが叩き返すその流れは、最早近しい者の間では「ああまたか」という目でスルーされる。
そうして半ば条件反射で恒例行事をこなしたヴィルヘルムは、本来の用件を思い出す。至極落ち着いた様子の従兄弟とその婚約者の前で、先程聞いたショッキングな言葉を口にするべきか否か、迷ってテーブルに視線をやって、
「……アルフィード。その本は一体何だい?」
「え、最近発売された『夕刻のジェレミア』だけど」
「……、……『ひるさがりのじょうじ』って知ってるかい?」
「え、『昼下がりのジョージ』? もしかしてヴィル兄さんもこのシリーズ好きなの? 良かったら貸すよ、オレ既刊全巻持ってるから!」
――そんなオチだろうと思ったよ!
※※※
『昼下がりのジョージ』。
それは『朝焼けのジャクリーン』『深夜零時のジャクソン』などから成る、通称Jシリーズの名で纏められた小説の中の一冊である。
作者は隣国の著名な作家、ジョナス・ジョイサーズ。執筆生活四十年目にして行う新たな挑戦として、一冊ごとに主人公やサブキャラクター、雰囲気や文調をがらりと変えた書き方は読み手の間では賛否両論だが、魅力的な登場人物や斬新な台詞回し、予想のつかないストーリーに惹かれて、書店に通う者は少なくない。
中でも『昼下がりのジョージ』は、明るい印象のタイトルに反して内容は殊更際どいものだった。幼い頃から芸術のことしか頭になかった見習い音楽家の青年ジョージが、ある時出会った妖艶な娼婦に興味を引かれ、蜘蛛の糸が絡まるように少しずつその淫猥へ溺れていった挙げ句、音楽家として異例の大成を遂げつつも静養所で娼婦の思い出と薬に耽溺した孤独な狂人として生涯を終えるというものだ。
美しい文学調の中に散りばめられた皮肉と謎、嘲笑と狡知は、良い意味でも悪い意味でも読んだ者の意識に残った。醜悪にして耽美、卑賤にして高貴と囁かれるストーリーはあらゆる点で読み手を選ぶが、嵌まれば手放せない一冊になるだろうと評判である。
「ちなみにリエナはスピンオフ作品の、『お八つ時のジェフリー』が好きなんだってさ。あ、でもオカルトホラーに重点を置いた『午前二時のジョセフィーヌ』も捨て難いって」
「紛らわしい!!」
のほほんと注釈を入れてくるアルフィードに、ヴィルヘルムは青筋を立てながら力の限りツッコミを入れた。
「何で逆ギレしてるんですか」と唇を尖らせるリエナの方も、そっち系の回路は今一接続が悪いようだ。軽い疼痛を訴え出したこめかみを押さえ、ヴィルヘルムは深々と嘆息した。
(ああ、そうだった……よりにもよってこの二人が、そんな話題を口に出すわけがないんだ)
何せヴィルヘルムはこの年下の従兄弟が、相思相愛の婚約者と未だキスすら出来ていないことを知っている。既にアカデミアを卒業し、文官として城に勤め始めているにも拘わらず、アルフィードは幼い頃と変わらずに、呆れるほどの奥手だった。
加えて、リエナの方も妙なところで天然だから、およそこの二人の間で思考が破廉恥な方向になど行きようはずがない。人前で恋人繋ぎをすることは躊躇わない癖に、キスすらしてこない婚約者に一片の不安不満も抱かない女など、ヴィルヘルムは彼女以外に見たことがなかった。
――実は、アルフィードとリエナがアカデミアを卒業した数日後、ヴィルヘルムは話の流れで従兄弟の惚気を聞かされている。
アルフィード曰く。
アカデミアを卒業した日、卒業式で初めてリエナに「愛してる」と言ってもらえた。恥ずかしそうに頬を染めて笑うリエナが、咲き初めの花のようで物凄く可愛かった。
とても嬉しかったので、屋敷の門限の六時を初めて破ってしまった。
街で一番高い塔の上に登り、二人で手を繋いで夜空を見た。
星がとても綺麗だった。リエナはもっと綺麗だった。
色々突っ込み所はあるが、全ての話を黙って聞き終えたヴィルヘルムが、その後一言も発さずに自宅へ帰り、人払いをし、部屋の鍵を閉め、カーテンを閉じてから、とりあえずデスクをぶん殴って叫んだ台詞。
『――何だ門限六時って!!』
心からの叫びだった。
おいふざけるなよ、それは一体何歳の頃の門限だ! まさか幼少期の言い付けを未だ律儀に守っているわけじゃあるまいな! そして手を繋いで星空を見て、どうしてそこでもう一歩踏み込まない! キスくらいしろよ! 何なのお前ら! その進行速度に比べたら亀だって光速の世界の住人になれるわ!
夜になってリエナをラーナガルの屋敷に送り届け、夕食前に帰ってきた息子に、叔父は物凄く形容し難い目で見詰めてきたらしい。どうしてだろうとアルフィードは首を傾げていたが、ヴィルヘルムだってその場にいたら叔父と同じ目をしていた自信がある。清らかの域を通り越し、最早欲求回路が断絶していると言った方が相応しい理性的な行動だった。
今時五歳児だってもう少し積極的な交際をするだろうと思えるようなこの二人は、けれど当人たちが全く現状に疑問を抱いていないから質が悪い。それで浮気をするでもなくしっかりお互いしか見えていないというのだから、もうヴィルヘルムにとっては宇宙人でも見るような心地なのだ。
(八歳の頃アルフィードがリエナにプロポーズして、リエナがそれを受けたはず。なのにそれから八年間、全く関係が進展してないっていうのはどういう了見だ……)
いや勿論、二人の仲は深まっている。アルフィードは相変わらず暇さえあればリエナに会いに行くし、リエナはアルフィードの顔を見るたび、清廉な花の如き美貌を綻ばせる。
でも、アルフィードだってお年頃なんだから、もっと、こう、あるだろう。何か。具体的には、ナニカ!
いつになく下世話な方向に突っ走ろうとする思考を、ヴィルヘルムは頭を掻き回したい気分で引き戻す。
将来この二人が人並みの夫婦生活を営めるのかという不安はあるが、それは流石に真っ向指摘するのは気が引けた。アカデミアではそれなりに早熟な連中が周りを囲んでいたはずだが、などと思いつつ、アルフィードを見て口を開く。
「……アルフィード」
「なに、ヴィル兄さん?」
きょとんと無垢な顔で見上げてくる童顔な従兄弟に重苦しく息を吐き、ヴィルヘルムは何だか疲れ切った思いで告げた。
「今度その、Jシリーズ最初から全巻貸して」
「あ、うん、勿論いいよ! 今度兄さんのとこまで持って行くね!」
「代わりに僕も、君に貸したい本があるから」
「え、本当? ヴィル兄さんお薦めの本なんて初めてだなぁ」
ニコニコ嬉しそうに笑うアルフィードには、以前友人に押し付けられた本を絶対に読ませようとヴィルヘルムは決めた。
――『サルでも分かる! どんな馬鹿でも失敗しない、他人と好意的な関係を築く百の方法 〜恋人・夫婦編〜』。
受け取った時は「どういう意味だ」と友人の顔に剣の鞘をめり込ませたが、思わぬところで使い道が出来たらしい。確かあれは性生活のハウツーも記されていたと考えながら、ヴィルヘルムは我ながら純朴な若者をからかう下ネタ好きのオッサンの如き行動にほんのり泣きたくなった。
「アルフィード、面白い本だったら私にも教えてね」
「いいよ、リエナ。何なら一緒に読もうか」
「絶対にやめろ」
即座に釘をぶっ刺して、ヴィルヘルムは反論も待たず疲れた足取りで踵を返した。
従兄弟に本を貸す時になったら、必ず一人で読めと念を押しておこう。自分があんな本を愛読し、あまつそれを他人に押し付けたがるような人間だとリエナに思われるのは耐え難い。
「ヴィル兄さん、また今度ね! 帰ったらちゃんと休んでよ!」
「過労死しないよう、超過勤務には気を付けてくださいね」
別に仕事のし過ぎでふらついてるわけじゃないと思いながら、ヴィルヘルムは無言で手を振って客間を後にした。二人の会話が遠ざかり、少し足取りの覚束ないヴィルヘルムの足音だけが廊下に響く。
(一応恋敵と想い人相手に、一体何をやってるんだ、僕は……)
アルフィードが十八になったなら、あの二人は正式に婚姻を結ぶ。それを忌々しい思いで睨みながら、それでも自分が二人の間に割って入ろうとすることはないのだろうと、ヴィルヘルムは自覚していた。
――だって、自分に入り込む余地なんて無い。ヴィルヘルムが自分の想いを自覚した時、リエナの心はとうにアルフィードのものだった。
複雑な感情は今でもある。けれど同時に、お互いを初恋にして、それからずっと互いしか見ていないリエナとアルフィードは、きっとヴィルヘルムにとって、壊してはならない美しい何かの象徴でもあった。
もしもアルフィードが碌でなしだったなら、ヴィルヘルムは己が従兄弟を追い落としてでもリエナを奪い取っただろう。けれど実際には、アルフィードが真っ直ぐな愛情を込めて呼ぶのはリエナの名前だけで、リエナが愛しさを込めた瞳を向けるのはアルフィードだけで。
だからこそ、一層不快に思ったのだ。別部隊の隊長とは言え、何も知らない他人がリエナに下劣な欲望を向けるのは。リエナが何もしなければ、自分が必ず叩き潰してやろうと決めていた程度には。
(僕自身ですらしないのに、ましてや僕以外があの二人の中に割り込もうとするなんて、想像でも許せることじゃない。あの二人は精々一緒にいれば良いんだ)
幸福な生涯を共にすれば良い。嫉妬を渦巻かせて、人でも殺せそうな視線を押し隠しながら、それでもヴィルヘルムは神の前で永遠を誓う彼らの幸せを祈ってやるだろう。
――自分に手を出す余地が出来ないことを、あの二人の関係が壊れる日が来ないことを。
神に縋らないヴィルヘルムは、柄にもなく願っている。
アルフィードを殺した『人形師』の気紛れが、もしも起こらなかったらのIF。『人形師』にとって、ぶっちゃけアルフィードは重要性も目を引く要素も欠片もない、たまたま気紛れで目をつけた程度の存在だったので、『人形師』の視界に入らない=存在総スルー=駒として使われることもない、となった可能性は本来わりとありました。本編は残念ながら運悪く外れ籤を引いた結果の悲劇。
アルフィードが生きている場合、ヴィルヘルムは想いを自覚しても絶対に口にはしないと思われます。リエナがアルフィードと幸せでいる限り、憎まれ口を叩きながら意地でも一生黙り通す。
そしてヴィルヘルムもヴィルヘルムで実はアルリエ並みに一途なので、ここに主人公が来た場合、原作ヴィルヘルムと違って想い人がいる彼を攻略しようと思えば難易度は鬼のように高くなる。熱しにくくて冷めにくい典型の人です。




