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 石畳で舗装されていない細い道を慣れた様子で通り抜け、ヴィルヘルムは少し錆びの浮いた小さな鉄の門を潜る。緑が生い茂る庭を通過して邸の扉を開けると、暗い玄関ホールが目に入った。


「ただいま」


 幾分大きな声をかけて、薄い上着を脱ぎながらしばらく待つ。外の気温のせいで首筋が汗ばんでいたが、どうせすぐに着替えるので良しとした。


 間もなく小さな足音が聞こえてきて、ヴィルヘルムは目元を緩ませる。走って玄関に現れた鮮やかな金髪の女が、彼の顔を見るなりぱっと顔を輝かせ、正面から飛び付いてきた。


「ただいま――リエナ」


 教えた通りの挨拶を素直に実行してくる女の頭をぽんぽんと撫でて、ヴィルヘルムは満足そうに微笑んだ。

 彼がリエナと呼んだ女の歳は、些か小柄だが二十かそこらというところか。今年二十二歳になったヴィルヘルムと並ぶと、初々しい若夫婦か恋人同士にしか見えない容姿だった。少なくとも今のヴィルヘルムを見て、両親に婚姻を諦められるほど筋金入りの人嫌いだと考える者はいないだろう。


「今日は庭に出たかい?」


 リエナを離して問いかけると、彼女はこくりと頷いた。


「畑? 花の世話? 小鳥? ……ああ、新しい肥料を撒いたのかい」


 納得したように頷いて、ヴィルヘルムはリエナの手を取る。咲き誇る花のような美貌を子供のように無邪気に綻ばせ、リエナはヴィルヘルムの隣を歩き始めた。


「今日は早めに夕食にして、庭の花を見に行こう。確か白いのが咲いていただろう? あそこで夕涼みをするのも良い。最近暑いから、体調には気を付けなよ。君は普段この邸に一人でいるんだから、もし倒れても夜まで見つけてもらえない」


 こくんこくんと首肯するリエナの背中を廊下の向こうにそっと押して、ヴィルヘルムは「僕は着替えて来るよ」と自室のドアを閉めた。

 じきにちょこまかと家事を再開するだろう彼女の姿を想像して、何か手伝おうかと彼は手早く服の釦を外す。

 リエナは彼の早い帰りを喜んでいたから、今日の夕食は少し手の込んだものになるだろう。どうせならその間に夕涼み用の果物でも買って来ようかと、ヴィルヘルムは白いカッターシャツに袖を通した。


 窓から庭に視線をやれば、あちこちで色とりどりの花が咲いている。手が回らないから当分動物を入れることは出来ないだろうが、リエナは鶏を欲しがっていた。そう言えばアルフィードの屋敷にも鶏がいたなと思い出して、ヴィルヘルムは小さく目を細めた。

 ――ヴィルヘルムの邸の庭に、蓮の池はない。




※※※




 全てが終わったあの日。

 炎に包まれて崩れ落ちる館から、リエナを助け出したのはヴィルヘルムだった。

 リエナが召喚陣を利用してヴィルヘルムを館外に転移させたあの時、もしも魔術が完璧に発動していたなら、ヴィルヘルムに打つ手は無かっただろう。

 けれど実際には、慣れない操作を強引に行ったリエナの魔術は発動までにタイムラグがあり、従ってヴィルヘルムに干渉する隙を許してしまった。


 リエナは確かに魔導の授業で一、二を争う優秀な成績を修めていただろうが、それはヴィルヘルムも同じこと。あらゆる方面に対して遺憾なく発揮される才能は、リエナに決して劣らないレベルの魔導を使いこなさせた。

 それ故に、転移を終えたヴィルヘルムが放り出されたのは、リエナが望んだ街中ではなく、同じ館の別の部屋。即座に廊下を駆け戻ったヴィルヘルムが見たものは、炎の中に倒れるリエナの姿だった。

 炎を押しのけ、意識のない彼女を抱き上げて館を脱出したヴィルヘルムは、そのまま駆け込んだ医師のもとで、ようやくリエナの命に別状がないことを告げられる。

 ただしその消耗は著しく、余程大掛かりな魔術を使ったのだろうと医師はしわくちゃの顔を顰めて言った。


 ――医師には何も言わなかったが、彼女が使った魔術にヴィルヘルムは心当たりがあった。

 恐らくは封印術。あの館の地下には、確か魔神の封印の一つがあったはずだ。召喚陣に蓄えられた莫大な魔力を暴走させずに消費するには、それが一番合理的だとリエナなら考えるだろう。


『いつ目覚めるか分からん。何年も目覚めないかも知れん。今息をしていることが奇跡みたいなもんだ』


 そう宣告されたリエナの中には、ヴィルヘルムがその手で首を刎ねた貴族魔導士の魔力の残滓があった。

 恐らく、あの男が最後に見せた悪足掻き――だと思っていた行動が原因だろう。てっきりリエナを道連れにするためだとばかり思っていたが、何を思ったのか魔導士はその真逆を為した。

 余剰分の魔力が無ければ力を使い尽くしたリエナは早々に瀕死に陥り、渦巻く炎に止めを刺されていた確率が高いと、医師は感心したように言っていた。



 結果として、リエナはそれから一年間、小さな邸の一室でヴィルヘルムに匿われて眠り続けることになる。

 一年が経って目覚めた彼女は、繋いだ命の代償のように声と記憶を失っていたが、ヴィルヘルムは全く構わなかった。


 意識の戻らないリエナの不在を誤魔化すために、『大事故に巻き込まれて死体も吹き飛んだ可能性がある』と処理されていたリエナ・ラーナガルの『行方不明』が、ヴィルヘルムの手により正式に『死亡』と手続きし直された。

 面倒な手間など、精々それだけだった。




※※※




 リエナの目が覚めてから一年、この世界の常識や人間との記憶をごっそり失い、自分の名すら分からなくなっていた彼女に、ヴィルヘルムは丹念に刷り込みを行った。

 万が一街で顔見知りに声をかけられても、発言に矛盾を感じないように。

 他に何も頼るものがないリエナが、ヴィルヘルムにだけは縋り信頼するように。

 砂糖菓子よりも甘ったるく接した。時に厳しく叱り付けた。今まで誰にも与えて来なかった優しさを、リエナにだけは注ぎ込んだ。

 リエナが彼を疑わないように。たとえどんなことが起きたとしても、彼だけは絶対の味方だと信じ続けてくれるように。


 そうして一年が経った今、リエナは子猫のようにヴィルヘルムに懐き、日々邸の中で細かな雑事を請け負っている。

 一度わざと人通りが多い時間に一人で邸から出してみたら、ストリートの喧騒や雑多な人込みに慣れなかったらしく、涙目でヴィルヘルムの元に帰ってきた。

 声が出なくなってからの経験が浅い彼女は未だ自己主張の手段に乏しく、道で人にぶつかられただけでどうすれば良いか分からなくなってしまう。

 ヴィルヘルムとしては正直ずっと邸で自分のことだけを待っていてくれれば良いのだが、流石にそれでは後々支障が出そうなので、外界にはゆっくりと慣れさせていくことにした。


 貴族と一般人の生活圏は、基本的に被らない。ましてや然程顔が広くもないリエナなら街でばったり知人に会うこともなかろうと、ヴィルヘルムはしばしばリエナの手を引いて買い物に連れ出すようになった。

 もしも彼女に時間があるなら、この後も一緒に果物を買いに行かないか誘ってみようと思いながら、彼はのんびりと部屋を出る。

 物音を追って外に出れば、庭ではリエナがせっせと水を撒いていた。楽しそうな彼女の様子に、彼の口の端が持ち上がる。


 ――本当は、リエナという人間はこういう風に育つはずだったのではないか。こんな光景を見るたびに、ヴィルヘルムはそう考える。

 以前とまるで違うはずのリエナの人格は、驚くほどあっさりとその体に馴染んだ。

 人を拒むことも世界を厭うこともなく、ただ真っ直ぐ伸ばした背筋だけをそのままに、歪みのない真っ白な笑顔で、好奇心の赴くままに笑って生きて。

 ヴィルヘルムがその歪みに惹かれたはずの女は、けれど見えない境界線を無くした後も、存外違和感なくそこに在った。ヴィルヘルムが考えていた「彼女らしさ」を失って、それでもリエナはきちんと己の個を確立させ、その足で大地に立っている。


 ――本当は、少しばかり懸念していたのだ。

 アルフィードという要素を丸々失えば、彼女は彼女でなくなってしまうのではないかと。ヴィルヘルムの恋したリエナは、あくまでアルフィードの付属物としてしか存在し得なかったのではないかと。


 だが、結果的にはその懸念は杞憂に終わった。何せ彼女は全てを忘れて尚、かつてのリエナの面影をしっかりと残していたのだから。


 ――例えば、凛と伸びた背筋とか。

 ――例えば、ふとした時に綻ぶ唇とか。

 ――例えば、感情によって微妙に移り変わる瞳の色とか。


 どうということもない仕草の一つ一つが、一々彼女を間違いなくリエナなのだと主張して。

 ヴィルヘルムの焦がれたリエナが、変わらずそこに残っているのだと告げていた。


(きっと僕は、彼女が何者になろうが構わない。彼女の本質が、変わらず彼女でさえあるならば)


 声も記憶も持たない今のリエナをリエナじゃないなんて、ヴィルヘルムは間違っても思わない。

 彼女が声を失ったのは、酷い話だがヴィルヘルムにとっては僥倖だった。

 だって彼の記憶の中で、リエナの声はいつだってアルフィードに想いを紡ぐためだけにあったのだ。その喉が大切な感情を込めて呼んだのは、父でも母でもヴィルヘルムでもなく、アルフィードの名前だけだった。


 だから、アルフィードを恋うた彼女の記憶と、最後の最後までアルフィードを求めた声は、仕方がないから冥府の従兄弟にくれてやる。

 ヴィルヘルムがずっと欲しかったのは、彼女の声でも顔でもなく、常盤色をした一対の目だった。

 まだ幼かったあの日、リエナの好意と信頼を一心に乗せたあの眼差しを自分の上に得られるのなら――きっと自分は、何を差し出しても良かったのだ。


「――リエナ」


 ざくりと靴音を鳴らして呼びかけると、バケツと柄杓で水を撒いていたリエナはこちらを向いて小首を傾げた。背後から腕を回しても、彼女は微塵も抵抗しない。


「リエナ、この後果物でも買いに行こうかと思ってるんだけど、時間があるなら一緒に来ないかい?」


 ぎゅっと抱き締めて聞くと、少し長いヴィルヘルムの前髪がリエナの額にかかった。少し考えて頷いたリエナの頬に、ヴィルヘルムは軽く口付けて手を離した。


「出かける用意があるならしておいで。バケツは僕が片付けておくから」


 擽ったそうににこりと笑ったリエナはまた頷いて、邸の方へと駆けていく。残った水を撒きながら、ヴィルヘルムはかつての日々に思いを馳せた。


 もしも今誰かに、リエナやアルフィードに対する後ろめたさがないのかと問われたならば、ヴィルヘルムは迷わず無いと答えるだろう。

 アルフィードが存命ならまだしも、死者に遠慮などするつもりは更々ない。それはリエナに対しても同じことだ。アルフィードに焦がれて止まなかったリエナは、あの燃える館で静かに死んでしまった。


 ――結局、誰もが一途に誰かを愛しただけなのだ。

 誰かの手が離れた後も。道が途切れてしまった、その後も。


(だからアルフィード、君の出番はもう終わり)


 買い物籠を持ったリエナが、大きな帽子を被って走ってきた。

 いつものように受け止める体勢を作って、ヴィルヘルムは彼女を待ち受ける。

 くつりと洩れた嘲笑は、ずっと妬ましく思っていた従兄弟に対するものか、それともそこまでしても執着を手放せない無様な自分に対してか。


 ――どちらでも構わない。結果として自分は欲しいものを手に入れて、そしてそれを失う気など欠片もないのだから。

 誰に何と言われようと、ヴィルヘルムは今が幸せだった。自分の傍にはリエナが居て、彼女は自分に笑いかけ、世界中で自分だけに絶対の信頼を置いてくれている。もしもこの幸福を奪う者が現れたなら、ヴィルヘルムは迷わずその慮外者を叩き潰し、耳障りな言葉を吐き散らす喉を切り裂くことすらしてみせるだろう。


 彼に真っ向からぶつかってきた柔らかな体と、少し低い体温。抱き締めれば日向と土の匂いがして、胸の中の彼女は猫のように小さく笑った。

 永劫この手は離すものかと、記憶の奥底に沈めた二人の人間の影に誓う。薄紅色の唇に口付ければ、リエナの頬がふわりと染まった。


 ヴィルヘルムが求めた永遠の誓いに、リエナが応えてくれたのはつい一月前のことだった。そうして一年もしたならば、彼女はヴィルヘルムの妻になる。

 この夏が過ぎて秋が来たら、ヴィルヘルムに辞令が出る手筈になっていた。冬には地方師団の責任者として、リエナ共々遠方の地へと移ることになるだろう。

 新たな住処となった地で、春が訪れたら式を挙げよう。家族も招ばない小さな式になるだろうけれど、きっとリエナの花嫁姿は、他人に見せるのが勿体ないほど美しい。


 満足した獣のように目を細めて、リエナの髪に顔を埋め、ヴィルヘルムはうっすらと笑った。



 ――僕の、もの。

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