前編
自分でなかった頃の自分の記憶がある。
十年以上も前のことになる当時の記憶において、『リエナ・ラーナガル伯爵令嬢』というのはとあるゲームの登場人物だった。
バトルと恋愛を主軸に据えた物語の中で主人公の恋敵を勤める、よくあるタイプの悪役の一人。攻略キャラクターの一人に熱を上げ、挙げ句自らの婚約者を死に追いやった凶恋の娘。
ゲームをクリアしてしまえば然程記憶にも残らない、そのまま新たな日々と娯楽に押し流されてしまう程度にしか思い入れのなかった人物が、まさに新たに生を受けた自分自身の立ち位置なのだと何年も気付かなかったのが少女の最初の、そして決定的な不幸だった。
「――ああ、」
赤にまみれて横たわる、婚約者の骸の傍らで。
蓮花のようと讃えられる美しい顔を茫然と凍らせ、リエナという名の少女は呻く。
幼い頃より、二十年近い年月を生きた女の記憶があった。
けれど最も肝心な、世界という名の物語を思い出したのは今のこと。全てが手遅れになってしまったこの瞬間。
「――ああ、あああ」
齢十四の若きにして、極めて精緻に整った美貌が、込み上げる激情にくしゃりと歪む。まるで固い蓋が開かれたかのように脳裏へ溢れ出す『物語』の記憶に、猛烈な嘆きと吐き気が喉を焼いた。
「――あああああああああああああああああああああああああああああ……っ!!!」
最早動かぬ婚約者の前で、リエナはがくりと膝を折る。生まれて初めて絞り出すのは、咆哮のような魂切る悲鳴だった。
壊れたように叫び続ける少女の瞳から、ぼろぼろと涙が零れて落ちた。
透明に澄んだそれが血の色でないことをおかしいとすら感じる。微塵も気持ちを楽にさせない落涙は、一筋滴るごとに心へ罅を入れていくようだった。
――どうして。
どうして、このひとが。
ひたすら思考が繰り返す、少女の自問に意味はない。答えはとうに分かっていて、けれどそれ故に尚狂おしいのだ。
「どうして――アルフィード……!!」
――リエナと『リエナ』の間にある最大の差異を、そしてこの後二人の『彼女』が歩む道を違えた最大の要因を、敢えて一つ挙げるならこれだろう。
リエナ・ラーナガルは、己の婚約者を心の底から愛していた。
それが全てだった。
そして、たったそれだけで良かったのだ。
※※※
馬鹿馬鹿しいほど趣味の悪い大きな屋敷から、細いサーベルを提げた騎士団員たちが忙しなく出入りし始めるのを見届けて、金髪の少女はそっと身を翻した。
けれど、すぐに見知った人間の姿を認めて足を止める。気配を隠すでもなく家屋の壁に凭れ、腕組みをしてこちらを見詰めている青年は、一つ年上の知り合いだった。
無造作に切ったアッシュブロンドの短髪に、猫科の肉食獣のような金色の双眸。少し伸びた前髪の一房は鼻筋にまでかかっていたけれど、その油断のない眼光までは隠せていない。
ヴィルヘルム・イアーレウス。ここ四年に渡るリエナの暗躍を知っている、言うなれば唯一の「共犯者」だった。
「――また新たな誰かを葬ったのかい」
「人聞きの悪い言い方しないでくれませんか」
温もりのない声で揶揄するような言葉を吐かれ、少女――リエナは、常盤色の眼差しを僅かに険しくした。
「私は違法な取引に手を染めている悪質な貴族を、善意に基づいて告発しただけ。罪を宣告することも、相応しい罰を下すことも、全て司法が決めることですよ」
「よく言う。あれだけ証拠を絞り出しておいて」
抜き身の刃を想わせる怜悧な美貌を皮肉に歪め、ヴィルヘルムは無機質な瞳を鋭く尖らせて少女の戯れ言を嘲笑した。
「ああも根こそぎ悪事の証拠を抑えられれば、処罰は家の取り潰し、最低でも当主首のすげ替えは避けられないだろうね。君が潰した貴族はこれで三つ目、自業自得とは言え容赦がないよ」
「……自業自得と分かっているなら口出ししないで頂けませんか」
「君が動けば間接的に僕の仕事も増える。一気にあれこれされると面倒なんだよね」
「それこそ知りませんよ。精々走り回って、騎士団の役目を全うしてください。それでお給料貰ってるんでしょう?」
十九歳という若さで騎士団の分隊長を勤めるだけあって、意識せずともヴィルヘルムが発する静謐な空気は、常に冷ややかな威圧感となって周囲の人間を畏縮させている。将来的には国軍トップの地位まで登り詰めるだろうというから、如何に実家の権勢があるとは言え、実際その才知も戦闘力も恐れられるに足るだけのものを持っているに違いない。
とは言え、そんな彼の威圧にもとうに慣れたリエナにとっては、その睨みも些細な嫌みと変わらない。眉間に皺を寄せて睨み返せば、ヴィルヘルムはつまらなさそうに肩を竦め、ばさりと封筒を投げ付けてきた。
「君が知りたがってた隣国の密輸ルートだよ。バレて変えられたら意味がないから、間違っても下手を打たないようにしてよね」
「……ありがとうございます」
片手で封筒を受け止めて、リエナは渋々と礼を言う。
リエナが本格的にあちこちの勢力を潰して回るようになって約一年、彼女の行動を誰にも喋らない代わりに何やかやと干渉してくるヴィルヘルムは、けれどその情報網と技量は代え難いほど確かだった。常にマイペースで太々しく、馬が合わない相手ではあるが、度々世話になっているリエナとしては、彼のくれるものは正直有り難い。
早く屋敷に帰って資料に目を通そうと、封筒を荷物に仕舞った彼女をじっと見て、ヴィルヘルムは鋼剣じみた光を宿す目を細めた。
「――リエナ」
囁く声は落ち着いて。しかしその底に沈めた感情は確実に何らかの熱を持って、彼女の名前を口にする。
怪訝そうに顔を上げたリエナに、ヴィルヘルムはほんの少し目を細くして言った。
「この一年、君は行動を焦り過ぎているように見えるよ。どうしてそんなに急ぐんだい」
「…………」
リエナの顔から僅かに感情の色が消える。対照的に微かな苛立ちを滲ませて、ヴィルヘルムは言葉を続けた。
「メトラーレ子爵家、ゾファーリエ侯爵家、ナバカ商工会やマルタ第六研究棟。その他幾つの相手に手を出した? たった一年で潰すには余りにも立て続け過ぎる」
「その代わり、証拠集めと事前準備には充分時間をかけてきましたよ。それに、実際冤罪なんて一つもなかったんだから良いでしょう」
「そうだね、君の調査も推理も恐ろしいほど正確だよ。いっそ未来を読んでいるとでも言われた方が納得できるほどにね。でも動かされてる連中だって馬鹿じゃないんだから、もう少し後先を考えろと言ってるんだ」
これまで何度となくしてきた遣り取りを繰り返して、ヴィルヘルムは溜め息をついた。
彼が言いたいのは捕まった連中のことではなく、リエナ自身の保身についてだ。リエナはいつも自身の存在を晒さず、誰かを誘導して『発見』させたり、匿名の通報を行ったり、犯人自身のミスを誘うことで事件を明るみに出している。今まではそれで上手く行ってきたが、いい加減利用される側も第三者の存在に気付いているだろう。
「……婚約の申し出も、相変わらず全て断っていると聞いたけど」
「まともに会話を交わしたこともない相手から美貌が云々と称賛されても、真面目に取る気にはなれませんね。中には両親より年上の人まで交じってますし」
「婚姻は貴族の義務だろうに」
「あなたが仲人業に興味があるとは知りませんでしたよ。私を大人しくさせるためだけに、何処かに嫁がせたいんですか?」
「嫁げとまでは言っていないよ。個人的にも君にそこまで望んでいない。ただ、君の行動はどうにも刹那的過ぎるんだ。婚姻のことに限らず、たまには周りにも目を向けたらどうなんだい」
何を言っても頑なに表情を凍らせるばかりのリエナに、ヴィルヘルムとて苛立ちが増さなかったわけではない。
だから彼は声のトーンを変えて、ぽつりとその名を落とした。
「――アルフィードが死んで、もう四年が経つ」
ぴくりと反応したリエナに、ヴィルヘルムは気付きながらも無視をした。少女の顔色を注視しながら、ただ淡々と言葉を紡いでいく。
「もういい加減冷静になったらどうだい、リエナ。あの日からずっと、君はまるで生き急ぐように走り続けている」
リエナの拳が握り締められる。俯いた顔に金髪が落ち、白い頬に陰を作った。
四年の月日が経っても尚、亡き婚約者を変わらず胸の真ん中に置いているリエナは、あの日から立ち止まることを忘れたように前へと突き進み続けている。
「――復讐なんてしたって、アルフィードは笑ってくれやしないよ」
――ガンッ!
瞬きする間もなく胸倉を掴まれ、壁に叩き付けられたヴィルヘルムは僅かに眉を顰めた。
頭一つ分高い長身を凄まじい力で抑え付けながら、ヴィルヘルムの胸の中から激甚な怒りを纏ったリエナが彼の双眸を見上げてくる。いつも礼儀正しく装われ、小綺麗に整った顔立ちが、今は込み上げる激情に悪鬼の如く歪んでいた。
「あなたが――」
ギリギリと軋む歯の間から洩れるのは、地獄の底から湧き出てくるような憎悪の滴る声だった。
常盤色の瞳をギラギラした光に染め上げて、少女は押し殺した音で吐き捨てる。
「あなた如きが、アルフィードを語るな……!」
ありったけの感情を打ち込むように口にした言葉に、ヴィルヘルムは静かに彼女を見下ろした。
しばらく彼を睨み付けていたリエナは、やがて無言で腕を引いて身を翻す。細く息を吐いて感情を落ち着かせたリエナを、ヴィルヘルムは襟元を直しながら視線で追った。
「帰るのかい」
「ええ。頂いた資料に目を通したいので」
返された声は、またいつもの冷静なものに戻っていた。小柄な背中に物言いたげな目を向けた後、ヴィルヘルムもすぐに踵を返す。
「見つからないように帰りなよ。――また訪問させてもらう」
静かに投げられた硬質な声はリエナの耳にも届いていたが、彼女は何も答えなかった。
代わりにこれからの予定と集めた情報、『物語』の知識に意識を回す。次に潰すべき相手は誰なのか、ひっそりと思考を巡らせた。
――今更自分が何をしようと、アルフィードは喜ばない。アルフィードは笑ってはくれない。
そんなことヴィルヘルムに言われずとも、リエナはとうに分かっていた。分かっていて尚、リエナは止まらない。走り続けないわけにはいかないのだ。
「――『しかし君、恋は罪悪ですよ』」
ぽつりと落とした呟きは、思いの外明確な重みを持ってリエナの胸に落ちてきた。かつて生きた世界でさしたる実感も湧かなかった言葉は、今のリエナには何よりも強く圧し掛かる。
ヴィルヘルムは、リエナの亡き婚約者であるアルフィードの従兄弟だ。『物語』の中のリエナは、あの青年に恋をして道を踏み外した。研ぎ澄まされた刃のような青年は、愛を乞う『リエナ』に最後まで路傍の石ころを見るような目しか向けなかった。
しかし、今のリエナはヴィルヘルムに共犯者以上の感情を持ってはいない。従兄弟の婚約者であるリエナにヴィルヘルムの方から近付いて来なければ、彼らは互いに顔見知り以下の存在として関係を終えただろう。
『リエナ』が恋をしたのは、ヴィルヘルム・イアーレウスだった。
けれど、リエナが恋をしたのは、アルフィード・イアーレウスだった。
婚約者の敵討ちだなんて、そんな上等なものじゃない。これは、徹頭徹尾リエナ自身のためだった。リエナはただ、この世で自分だけが助けられたかも知れない最愛の人を、むざむざ失った絶望と憤りの捌け口が欲しかったのだ。
死んだ婚約者に、真剣に恋をしていたからこそ。
最早己が二度と立ち止まれないのだと、リエナは誰よりもよく理解していた。