二枚目:パンツであれ、愚か者であれ
――それから数分後。
これから自分の身に、人生の転機とも言える大きな出来事が待ち受けている事など露も知らない葛士は、先程入手したパンツの感触をポケットの中で確かめつつ、ぼんやりと暗くなり始める空を見上げながら歩いていた。
「“上を向いて歩けば零れない”……か。真理だな……。流石だぜキューちゃん」
往年の名シンガー『坂之上Q太郎』の代表曲“上を向いて歩いていこう”のサビを思い出しながら、葛士はジュルッと汚い音を立てながら鼻を啜り、ポケットの中のパンツを優しく握りしめる。
すると、葛士の顔から一滴の液体がこぼれ落ちた。
「……!? おかしいな……ちゃんと上を向いてたのに……」
驚きながらも、パンツを握っていない方の手でぐしぐしとそこを擦ると、そこには真っ赤な鮮血がついていた。
「やっべ……! ティッシュ今日持ってきてたっけ……!? あ、でもティッシュで鼻栓ってしちゃいけないんだっけか!? 確か、毛細血管にティッシュの繊維が入るからとか――」
以前どこかで聞いたような気がする“やってはいけない家庭の医学”の事を断片的に思い出しそうとしてみるけれども、それを邪魔するかのように鼻血の勢いが強まったので、葛士はその場にしゃがみ込み、片手で鼻頭を押さえながら葛士はカバンの中に手を突っ込んだ。
ここまでくれば察していただけると思う。
――そう、葛士が上を向いて歩いていた理由は涙を零さない為ではなく、鼻血を零さない為だったのだ。
だが彼を責めないでほしい。異常なまでにパンツを愛しているという性癖さえ除けば、葛士はまだ十七歳――思春期真っ盛りのサクランボーイなのだ。
そんな彼が、文字通り降ってわいた僥倖を手にして興奮しないと言えるだろうか?
――答えは、否。断じて否である。
そしてこれは、悲しいけど男子高校生の性なのである。
「――あらっ!? あららららっ!? ない、ないないない!」
お目当ての物を探し出すため懸命に中を弄ってはみるものの、それらしい感触はない。
――ならば! と思い、自分が今日学校に何を持っていっていたのかを確認するため、葛士は道のど真ん中でカバンをひっくり返す。
そしてカバンから出てきた物は――
「プレイ・しよーぜ・ポータブル――略してPSP――に筆箱と弁当。それと充電器に手回し発電器…………無理だろ!!」
どう考えても学校生活には必要なさそうな物ばかりだった。
ノートや教科書の一冊でもあれば、まだどうにか出来ていたのかもしれない。
……しかし、現実は非情だった。
自業自得にも関わらず、自分で自分にツッコミを入れたのが原因で血圧が上がった葛士の鼻孔からは更に血が流れ出し、足元には少しずつではあるが確実に血だまりが形成されつつあった。
「くぅ……! 鼻血による出血多量が死因なんて情けなさすぎる……!! 何か……何か他に方法があるはずだ……!」
カバンの中に望んでいた物がなかった葛士は、鼻を押さえる事も止めて、一縷の希望を見出す為に全身を軽く叩きだした。
「――何か、何かないのか……!?」
冷や汗を流しながら葛士はまず制服の胸ポケットに手を入れ、次にズボンの後ろポケット、最後にアレが入っていない方のズボンのポケットを探してみる。
――だがポケットに鼻栓の代わりになるような物が入っていない事は、誰よりも葛士が知っていた。
……そして、この状況を打破するために自分がしなければならない事も。
「これしか……! パンツしかないってのかよぉ!!」
苦痛で顔を歪ませ、両目から大粒の血涙を流しながら、今まであえて意識から外していたポケットに手を入れ、葛士はそれをゆっくりと外の空気に触れさせる。
情熱的且つ刺激的で、見ればみるほど気持ちが高まる真っ赤な君……。こんな出会い方さえしていなければ、俺達はもっといい関係になれたのに……。
夕空にパンツを掲げながら、パンツに最大の敬意を払い、マリアナ海溝よりも深い謝罪をし葛士はそっとパンツを鼻に挿入した。
洗剤の匂いか持ち主の匂いか定かではないが……、鉄の匂いに混じってとてもいい香りが鼻腔から脳へと伝わり、葛士の精神と肉体を癒していく。
「くっ……うぅっ……、うぉぉ……っ」
……そして葛士は泣いた。道のど真ん中で自分の無力さに絶望し、葛士は何度も地面を叩きながら思いきり涙を流した。
――――、――――か?
「…………!? な、なんだ……!?」
するとどこからともなく声が聞こえ、葛士は咽び泣くのを止め涙を拭うと、辺りをキョロキョロと見渡しぽつりと呟く。
「……幻聴? それにしては、やけにハッキリと聞こえたような――」
――――らが、――――いか?
「……っ!」
先程よりも僅かながらだがハッキリと聞こえ、葛士は改めてどこから声が聞こえてきたのかを把握するために立ち上がり周囲に目をやった。
視界に入ってくるのは先程までとなんら変わりのない風景。
人気のない住宅街に、自分が先程まで――楽しんで――いた団地。
「……? やっぱり、幻聴だったのか……? はぁ……俺、疲れてんのかな……。帰ろ……」
体ごと首をぐるりと回転させてはみたものの、周囲には自分以外誰もおらず、葛士は深い溜息を吐き肩を落としながら散乱したカバンの中身を拾おうとして――その手を止めた。
「な……なんだ……これ……!?」
驚きのあまり目を見開く葛士の数メートル先で、中空にぽっかりと穴が空きそこから半透明でゼリー状の何かが現れた。