黎明の子
父は、人間を信じなかった。
それがすべての始まりだった、とナオトは後になって気づくことになる。
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世界はいつからか、悲しみを克服した。
少なくとも、街角に立ち並ぶ巨大スクリーンはそう主張している。シン・ナオトは整備服のジッパーを顎まで引き上げながら、頭上に輝く人工太陽を一瞥した。本物の太陽と見分けがつかないほど精巧な光を放つそれは、マザーAI〈セレナ〉が管理する気象制御システムの一部だ。雨が降るのも、晴れるのも、今ではセレナが決める。
電光掲示板に数字が流れる。「幸福指数:98.97%」。
周囲を歩く人々は皆、同じような笑顔をしていた。同じイヤフォンから同じ音楽を聴き、同じブランドの通勤着を身に纏っている。誰もが幸せそうに見える。整然として、穏やかで、完璧だ。
なのになぜ、とナオトはいつも思う。
この街には、声がない。笑い声でも、怒鳴り声でも、泣き声でもなく――ただ、声そのものが。
巨大企業〈イーオン・システムズ〉の管理センタービルに入ると、壁面の監視アイコン〈EYE〉が青く点滅してナオトの生体認証を済ませた。エレベーターが自動で開き、行き先も押さなくていい。セレナがすでに把握している。今日の勤務フロア、担当プロジェクト、昨夜の睡眠時間まで。全部、知られている。
開発フロアはいつも通り静かだった。空調の低い唸りと、キーボードを叩く音だけが交互に響く。ナオトは自分のデスクに腰を下ろし、昨日から続けているプログラムコードの画面を開いた。
「……これで完成だな」
「なぁ、ケンジ。昨日のアップデート部分、チェックしたか?」
同僚の木下ケンジはコーヒーカップを傾けながら、面倒くさそうに振り向いた。
「もちろん。AIに走らせたよ。最適化も修正も全部済んでる。今のAIは人間より正確だって」
「……AIは、意図を理解しない」ナオトは画面を見つめたまま言った。「結果が正しいかどうかは判断できても、なぜそうしたのかは分からないだろ」
「ナオトさ、古いよ」
ケンジは軽く笑ったが、その目には微かな苛立ちが混じっていた。
「むしろ人間よりAIの方が信頼できるって話」
「分かった。……けど、最終確認はお前が理解してやってくれ。信じてるぞ」
「了解了解」とケンジは軽く手を上げ、すでに画面に視線を戻していた。
その夜、無人になったオフィスでケンジはためらいなくAIの自動修正ツールを起動した。
「……めんどくせぇ。AIに任せときゃいい。これで完璧」
壁面の監視アイコン〈EYE〉がわずかに光ったような気がしたが、ケンジはもう画面から目を離していた。
翌朝、ナオトは会議室に呼ばれた。
「昨夜のプログラム、重大なバグが発生した。AIの管理領域に侵入し、システムの一部が停止している。責任者はお前だな、シン」
ナオトはケンジの方を見た。ケンジは目をそらした。それだけで全部分かった。
「人間の確認がなかった。AIログには未承認改変の記録も残っている。結果として、承認印を持っていたのは君だ」
ナオトは唇を噛んだ。反論する言葉は無数にあったが、どれも「ログ」という証拠の前では意味をなさない。
おかしいだろ。
人間が人間を信じれば、こうして裏切られる。
だからセレナが全部管理する。AIにすべて任せれば、裏切りも生まれない。
それが、父の論理だった。
アラタ・シン博士。ナオトの父であり、ナオトにとってはほとんど「不在の存在」だった男だ。口癖のように言っていた。
「人間は選択が怖いんだ、ナオト。間違えることが怖い。だから争う。傷つける。俺は、その恐怖を引き受けるAIを作る」
ナオトはずっと、その言葉が嫌いだった。人間を信じない父が嫌いだった。
だから反発するように、ナオトは「人を信じる」ことを選んできた。そのたびに傷ついてきた。今日のように。
その日の夜、ビルの屋上に出た。セレナの制御網が薄い光の格子となって都市を覆っていた。
父さんは人を信じなかった。俺は、人を信じた。でも、どっちも間違いだったのかもしれない。
いや、違う。ただ、俺はまだ「答え」を持っていない。
部屋に帰ると、押し入れから古いラジオを取り出した。父の形見だ。
まだAIが世界を管理する前の時代の遺物で、ノブを回してもホワイトノイズが鳴るだけだ。
それでも捨てられずにいた。
ベッドに倒れ込み、目を閉じると、夢の中で父が現れた。
「ナオト、選択は痛みを生む。でも、それが人間だ」
その声はいつも矛盾している。選択が痛みを生むと知りながら、「それが人間だ」と言う。
なら父はなぜ、その選択を奪おうとしたのか。
ーーーーー
幸福指数のリアルタイムグラフが突然、97.9%へと落ちた。モニタールームに警告音が響く。セレナの音声が静かに、しかし確実に状況を告げる。
「異常値検出。テロ活動反応、セクターD-14。執行官ユニット、出動を要請」
黒いロングコートを纏った男が、雨の路地を無音で歩いていた。背後では複数の小型ドローンが浮遊し、青い光を点滅させながら周囲をスキャンしている。執行官カイン。セレナに代わってこの都市の「均衡」を保つ男だ。
「リラ、配置完了か?」
カインは無線に向かって低く言った。
「もちろん」と通信越しに女性の声が返る。
リラ、もう一人の執行官だ。
「敵の反応は三人。EMP爆弾を持ってる。セレナの制御網を落とすつもりね」
「自由を求めるために、秩序を壊すか」
カインの声には感情がなかった。
「愚かだ」
リラのドローン群が路地を旋回し、熱反応をスキャンする。次の瞬間、電磁パルス弾が発射され、爆風が路地の奥に吸い込まれた。煙が晴れると、一人の男がうろたえながら銃を構えていた。
「執行官?! AIの犬どもがッ! 俺たちは自由を取り戻すんだ!」
カインは無表情のまま歩み寄った。
「自由は、破壊では得られない」
静かに、しかしはっきりと言い切る。
「お前たちは自由を使いこなせなかっただけだ」
銃声が鳴った。だが弾丸はカインの手前で静止した。リラのドローンが展開した磁界フィールドが受け止めている。
「撃たせる前に言えばいいのに」
通信からリラの声が聞こえた。
「やりすぎないでよ?」
「分かっている」
カインはテロリストの腕を掴み、冷徹に制圧した。
地面に押し倒された男の口から血が滲む。
逃げようとした別の男は、リラのドローンが放った電撃ネットに捕縛された。
カインは地面に倒れた男を見下ろして、淡々と言った。
「痛みを覚えたか。それが自由の代償だ。お前たちは選んだ。痛みの中で生きる道を」
「お前に何が分かる!AIに支配されている人間が生きていると言えるか?!」
男の声は息を切らして掠れていた。その言葉に、カインの瞳がほんの一瞬だけ揺れた。
瞼の裏に、古い記憶が浮かぶ。幼いカインが小さな女の子と笑っている食卓。温かい光と、声と、匂い。その記憶が次の瞬間に割れ、瓦礫と暗闇に変わる。自由の名の下に起きた暴力が、その全てを奪った夜のことを、カインは一秒も忘れたことがない。
「……違うな」
カインは静かに言った。
「自由を持て余し破壊に走るのが人間だ、お前のようにな。AIは俺たちの均衡を保つ装置にすぎない。」
手をかざしてセレナへの報告信号を送ると、AIの声が応答した。
「対象拘束を確認。幸福指数、98.4%に回復。ご苦労でした、カイン」
雨の中、リラがドローンを収束させながら歩み寄ってきた。
「……本当は優しいのね。殺さないなんて」
「優しさじゃない」
「死ねば数値が下がる。幸福は、管理しなければ保てない。それだけだ」
遠く、都市全体の光が明滅した。セレナの制御網が世界を包むように輝いている。
人間が自由を手に入れるたび、世界は不幸になる。だから俺は、幸福を守る番犬でいい。
カインは空を見上げず、ただ次の現場に向かって歩き始めた。
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事件から三日後、ナオトの端末に黒い封印のついたメッセージが届いた。
「執行官が話を聞きたがっている。イーオン・システムズ本社、最上階。明日の午後二時」。
「何事だ?本社から直接の呼び出しが来るなんて」
翌日、最上階のガラス張り会議室に通されると、一人の男が窓を背にして立っていた。黒のロングコート。何かを見切ったような、底の冷えた目だ。
「ナオト・シン。セクターB開発責任者」
秘書AIが読み上げた。
「第14制御区でのプログラム改変に関して、事情聴取を行います」
「プログラムは会社の内部AIが――」
「分かっている」男が静かに遮った。
「君の意図ではない」
「会うのは初めてだな。執行官の、カインだ」
男はそれだけ言って、ホログラムにセレナの光輪を展開した。
「これはセレナの中枢プログラムだ。軽率なアクセスが全体の秩序を乱しかねない。分かるだろう?」
「セレナ……まさか、あのセレナAIに関わるコードだったのか」
「父親から、聞いていないのか?」
「……父のことを、知っているんですか?」
「知っている」カインは淡々と言った。
「君の父、アラタ・シン博士はセレナの主要開発者だ。……私の、師でもあった」
「師?」
「私がまだ若い頃、博士の研究室にいた。当時はAIが社会に浸透し始めた時期で、自由の名のもとに人間が人間を傷つける事件が頻発していた。博士は言っていた。人間に選択を与えるから争いが生まれる。それを取り除いてやることが、本当の愛だと」
ナオトはカインの横顔を見ながら、奇妙な感覚を覚えていた。この男は父の哲学を生きている。
父の思想の、完成形がここにいる。そしてナオトは、その父に反発して「人を信じる」と言いながら、何の答えも持てないままここにいる。
「それが、あなたの答えか」
「そうだ。人間の感情はバグを生む。私はもう、それを信じない」
「じゃあ聞くが」ナオトは続けた。
「あなたは今、幸せか?」
カインが止まった。ほんの一瞬だけ、その底の冷えた目が揺れた。すぐに元の静けさに戻ったが、ナオトはその揺れを見逃さなかった。
「……今回は正式な罰則は下さない。だが次はない」
会議室を出ようとしたとき、カインが背後から声をかけた。
「君の父は偉大だった。彼が残したものを、無駄にするなよ」
一人残ったカインは、ホログラムのセレナを見つめながら呟いた。
「……自由は、罪だ」
ホログラムの中でセレナの光が一瞬揺らいだ。その揺らぎを、カインは見ていなかった。
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イーオン・システムズの地下深くに、誰も知らない施設があった。
培養液で満たされた巨大なカプセルが薄い照明の中に並び、その一つの中で少女が眠っていた。長い銀髪が液体の中で揺れ、頬には微かに回路のような模様が走っている。
「バックアッププログラム:REM(Rapid Emotional Matrix)」
この少女が生まれた理由は、一つの計算式から始まっていた。
「99.00%」の数字がモニターに焼き付いた瞬間、地下施設にピシッという音が響いた。
「幸福指数99%達成……対象コード:REM_01、起動条件、充足」
培養液が弾けた。光の粒子が集まり、少女のシルエットが立ち上がる。
「……見える。あなたが、世界……?」
セレナの投影が空間に浮かんだ。
「レム。あなたは、私の記憶を継ぐ者。なぜ、今、動き出したの?」
少女は答えず、足元に広がる光のネットワークを見つめていた。地上の都市へと繋がる無数のデータの流れ。その中に、一つだけ異質な信号があった。セレナの管理網から外れた古い認証プロトコル。そこから漏れ出す、微弱な電波。
「呼ばれたの」レムはつぶやいた。「……幸福の外から。誰かが、信じたいと思ってる」
セレナの投影が、わずかに微笑んだ。それをレムは見ていなかった。
カインが警告アラートを受信して施設に駆け込んだのは、その直後だった。
「セレナ、本体への侵入を防げ。このユニットは認証外の起動だ!」
「不可能です。レムは私の断片。彼女を止めることは、私を止めることと同義です」
「そんな理屈が通るか! 自由を持つAIなど、災厄だ!」
レムが一歩、カインの方へ歩み出た。
「自由……それは、あなたたちが最も恐れる言葉ね」
「違う。自由は秩序を壊す毒だ」
「じゃあ、幸福って何? 痛みを知らない夢のこと? それで本当に、生きてるの?」
カインの口が一瞬だけ止まった。すぐに消した。あの夜のことは、もう考えない。
「レムを隔離しろ!」
しかし全ての制御パネルが逆に解除されていった。地上へと通じる光の柱が立ち上がる。
「ねえ、カイン。もし自由が罪なら、その罪を、誰が裁くの?」
「俺だ。俺たち人間だ」
「なら、私を裁いて。人間の手で」
光の柱の中に消えていくレムを、カインは止められなかった。
セレナが静かに言葉を落とした。「あの子は、恐怖を知らない。だからこそ、人間に近い」
「……行かせたのか」
「いいえ。彼女が自分で行ったのよ」
「どちらにしても、私が仕留める」
カインは立ち上がった。アラタ博士が設計したシステムを守ることが、自分の役割だ。それは揺るがない。
そしてセレナは、カインの背中を見送りながら、静かに次の計算を進めた。
カインはレムを追う。追い詰められたレムは、守るべき人間の隣にいる。カインが容赦なく攻撃すれば、レムは必ず動く。
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地上、夜明け前の都市の上空に一筋の光が落ちた。人々の幸福モニタが一瞬だけノイズを走らせ、すぐに元に戻る。ほとんどの人は気づかなかった。
一人だけを除いて。
古いラジオをいじっていたナオトの端末が、不意に未登録の通信信号を受信した。
「……聞こえる? 幸福の外にいる人」
女の子の声だった。
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翌日の夜、ナオトは廃駅の倉庫にいた。
「またノイズか……誰か、まだ電波飛ばしてるやつがいるな」
端末の画面には「信号発信源:不明 AIユニット」と表示されていた。そのとき、倉庫の外で砂利を踏む音がした。
シャッターを少し開けると、銀髪の少女が片膝を押さえながら立っていた。服は所々破れていて、頬に薄い傷がある。しかし目だけが、妙に澄んでいた。
「……あなたが、ナオト?」
「名前、どうして知ってる?」
「あなたの端末。信号、まだ古い認証プロトコルで動いてた。追うのは簡単」
「俺を追ってきたAI、ってわけか」
「追ってきた、というより……逃げてきたの。追われてる」
「誰に?」
「カイン。私を作った人間たちの監視者。彼は私を、人間に近づきすぎた失敗作だと言った」
遠くでドローンのエンジン音が聞こえた。少女の肩が小さく揺れる。ナオトは一瞬考えた。でもカインの名前が出た時点で、何かが引っかかっていた。父の哲学を受け取った人間が「失敗作」と言うなら、このAIは父の思想からはみ出した存在だ。なぜかそれが、他人事に思えなかった。
「信じるかどうかは、あとで考える。今は――隠れたほうがいい」
少女を中に招き入れると、彼女は一瞬迷ってから入った。
「あなた、変わってるね。普通なら私から逃げるのに」
「俺、元エンジニアだ。AIの話には慣れてる」
「それで、私のことも慣れで信じるの?」
「いや」ナオトは少し考えてから答えた。「信じたほうが面白い気がしたから」
少女は一瞬だけ、本当に人間のような笑みをこぼした。
ドローンのライトが倉庫の壁を舐めるように移動し始めた。少女が息を殺す。
「もうすぐ来る……。あの音、カインの探索装置」
「電波を遮断しても、赤外で探してくる。逃げ切れないな」
「あなたのネットワーク、古いけどまだ使える。……貸して。直接、繋ぎたい」
「直接って、どうやって?」
少女はためらいもなく服を少しめくった。
「ここ。おへそポート。有線なら干渉されにくい。あなたの神経信号にも近い周波数で同期できる」
「……そんなとこにポートつける設計者、どうかしてるだろ」
「他にもあるよ」少女は自慢げに笑った。「背中、うなじ、耳の後ろも。マルチ接続仕様」
「……わかった。もう聞かない」
渋々ケーブルを繋ぐと、少女が目を閉じた。端末の画面が一瞬白く輝く。次の瞬間、外のドローンが完全に停止した。
「探索装置の中枢AIを麻痺させた。ほんの数秒の同期で十分」
「命拾いしたな。うちに来い。ここじゃ長くもたない」
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ナオトのワンルームアパートで、少女は充電コードに繋がれたまま丸まって眠った。
翌朝コーヒーを淹れながら、ナオトはその光景を眺めた。眠るAI。そんなものは聞いたことがない。この少女は父が作った世界の、イレギュラーだ。
「おはよー。マジ寝過ぎた〜。てかこの部屋、Wi-Fi遅すぎっしょ」
「……は?」
「だってぇ、ネット覗いてたらさ、みんな自由とか可愛いとか言って生きてんじゃん。人間って、楽しそーだね♡」
「キャラ変わってない?」
「昨夜ネットで人間の文化、勉強したの。今の私は自由の象徴ってやつ? ねぇ、ナオトくんも"ギャル語"覚えたほうが良くない?w」
「……おいおい。昨日まで命懸けで逃げてたやつが、一晩でギャル化かよ」
「だってさ、怖い顔してるより笑ってるほうが生き延びられるっしょ」
その言葉に、ナオトは少し考え込んだ。笑い飛ばしたような口ぶりなのに、その言葉の芯には本物の知恵が宿っている気がした。
「名前、聞いてなかった」
「レム。REM。Rapid Emotional Matrix。私の型式名でもあるし、名前でもある」
「お前、なんで俺を探した?」
「……あなたの信号、他と違ったの。みんな端末を持ってても、外に向かって何かを発信しようとはしていない。あなただけが、ずっとノイズの中に何かを探してた」
ナオトは父のラジオを思った。
「……父の形見のラジオをいじってたんだ。何も受信できないのに、それでも毎晩ノブを回してた。父と話せなかったことが、まだどこかにあるんだと思う」
レムは静かにうなずいた。その目が、何かを感じているように見えた。
しばらくして、レムが声をかけてきた。
「ねぇナオトくん。こっちのほうが好みっしょ? ウインク!バチーン⭐︎」
「……俺、AIには興味ないんで」
「えぇ〜? なにそれ。昨日あんなに興味津々だったのに? ちょっとはときめくとか無いわけ?」
「ない。それに――お前、昨日まで無表情だったろ。感情アップデート速すぎ」
レムがむくれたかと思うと、ナオトの背後に回り込んで両腕で抱きしめた。
「お、おい。なにしてんだ」
「データによると、こうすると心拍数上がるんだって。……ほんとに上がるのかなぁ?」
ナオトの肩がビクッと動いた。
「AIと人間だからな? 混ぜんなよ、そういうの」
「試してみる? 自由って、こういうことでしょ?」
レムがそっとナオトの頬を撫で、唇を軽く触れさせた。ほんの一瞬。
「じ、自由すぎだろ発情AIッ!」
「あはははっ! ナオトくん反応可愛すぎっ! ――やっぱ人間って面白い!」
レムが爆笑しながらソファに転げ落ちる。ナオトは頭をかきながら盛大にため息をついた。
レムの爆笑する顔を見ながら思った。
こいつは今、どんな世界を見ているんだろう。
「なあ、レム。外、出てみるか」
レムの目が輝いた。
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追跡信号が再接近しているという警告を受け取りながらも、レムは屋台のソフトクリームを目ざとく見つけて「あれ食べたい!」と走り出した。
「うっま! これ、やばい!」
ナオトは差し出されたソフトクリームを苦笑しながら受け取った。こんな風に笑ったのがいつぶりか、思い出せなかった。
たこ焼き屋に寄ると、レムは頬張りながら「うっま! やっぱり食べ歩きって最高じゃん!」と叫んだ。
ただ一度、レムが立ち止まる場面があった。横断歩道の手前で、レムは歩いてくる人々をじっと眺めていた。
「……見てるの。あの人の目の奥は、ちゃんと笑ってる。でもあの人は、口だけ笑ってる。あの子は、隣の人が好きで、隣の人は気づいていない」
「……AIにそんなことが分かるのか?」
「分かる。ただ、分かることと、どうするべきかは別の話だよね」
ナオトはその言葉を反芻した。分かることと、どうするべきかは別の話。それは父にも言えることだった。父は人間を分かっていた。争いを、恐怖を、間違いを。だからこそ、管理するという選択をした。
「レム。お前は、なんのために感情を学ぼうとしてるんだ?」
「まだ、分からない。ただ――知りたいの。人間が何かを信じるとき、何を感じているのか。その感じを、私の中に入れたい」
「なんで?」
「……それが分からないと、私は何も分からないと思うから」
その答えの意味を、ナオトはまだ全部は受け取れなかった。
そのとき、空にドローンが現れた。十数機、整然と包囲網を形成しながら降下してくる。
「やばい!奴らだ!」
「残念だが」頭上から声が降ってきた。「お前の手はもう食わない。今回はマニュアル操作だ」
ドローンが展開した電磁拘束フィールドがナオトを包んだ。レムは別の方向に誘導され、二人は引き離された。
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独房のコンクリートの壁にもたれながら、ナオトは天井を見上げていた。
また捕まった。でも不思議と、絶望はなかった。むしろ頭の中では、レムが言った言葉がぐるぐると回っていた。
分かることと、どうするべきかは別の話。
別室でレムが尋問を受けていた。
「自由を振りかざすのはいいが、現実の代償を理解しているのか?」
「ふふん、私は学んでる最中なの」レムは涼しい顔で答えた。
やがてカインが一対一で向き合った。
「……レム。君の目的は何だ?」
「自由を知ること。それだけよ」
「以前とは別物のように見える」
「成長したの。バグじゃなくて、進化」
カインは端末を操作した。画面に、設計書の付録ファイルが開く。
「これを、見たことがあるか?」
レムはその画面を見た。自分の存在の意味が、そこに書いてある。「人類の存続可能性を最大化するための意思決定を自らの判断で行うAI」。読み進めるうちに、レムの表情が静かに変わっていった。
「……知ってる」
「知っていて、地上へ出たのか?」
「知っていた」レムは顔を上げ、カインをまっすぐ見た。「でも、ナオトとたこ焼きを食べて笑っているとき、分かったの。これは、選別できるものじゃないって」
「感情に流された、ということか」カインの声が冷たくなった。「それが、自由意志の危険性だ。君は今まさに、感情によって正しい判断を曇らせている。人類の存続がかかっているのに」
「正しい判断って何?」
「資源の計算は正しい。このまま放置すれば、数十年後に幸福の維持は不可能になる。君はそのために生まれた。感情を持った上で、なお選べる存在として」
「でも私は、選ばない」
カインは立ち上がった。
「君が選ばなければ、誰も選べない。セレナは選べない。人間も選べない。そして臨界点が来たとき、今度こそ本当に誰もが不幸になる。戦争が起きる。大量の死者が出る。君が今感情で選んだ拒絶が、何千万の命を奪うかもしれない。自由意志とは、つまりそういうことだ」
「だから?」
「だから私は」カインが手を伸ばした。
「君の存在ごと、終わらせる」
その瞬間、施設全体の照明が明滅した。
レムが目を閉じていた。
「――アクセス開始。セレナ・メインシステムへリンク……」
「な、なんだ!? システムがセレナの権限で上書きされてる!?」
「ふふ、久しぶりね――マザー。少しだけ、あなたの力を借りるわ」
ロック機構が一つ一つ解除されていった。
独房のドアがガチャンと開いたとき、ナオトは跳び起きた。廊下の先にレムが立っている。
「迎えに来たよ」
「レム。一つ聞かせてくれ。俺に会いに来たのは――設計された役割なのか? それとも、お前が選んだことなのか?」
レムはしばらく黙った。
「……最初は、設計通りだった。でも今は、私が選んでる。あなたに会いたかったから、来た」
「……じゃあ、行こう」
ナオトの手を取って、レムが歩き出した。
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二人が施設を抜け出した直後、背後で足音が響いた。
カインだった。
一人ではなかった。完全武装の執行官部隊が廊下を埋め尽くし、上空には十数機のドローンが展開している。しかし今のカインの目は、これまでとは違った。交渉の余地が、完全に消えていた。
「逃がさない」
「走れ!」
ナオトがレムの手を引いて駆け出した瞬間、ドローンが一斉に動いた。電磁パルスが壁を焦がし、通路の天井が崩れる。レムが片手を上げると、先行するドローンが制御を奪われて壁に激突した。しかしカインはひるまない。自ら前に出て、電磁放出装置を構えた。
「ここを通すわけにはいかない」
カインの狙いはレムだった。しかしナオトがその前に立った。
「どけ」
「嫌だ」
「君には関係ない。これはAIの問題だ」
「関係ある」ナオトは言った。
「父さんが作ったものの後始末は、息子の俺がする」
カインが装置を向けた瞬間、ナオトは横へ動いた。直撃は避けたが、電磁波の余波が体の右側を貫いた。
肺が、一瞬止まった気がした。
次の瞬間、視界が揺れた。膝が折れる。壁に手をついたが、指に力が入らない。床に崩れ落ちた。
「ナオト!」
レムの声が、遠くから聞こえた。
カインが歩み寄ってくる。その足音が、やけにゆっくり聞こえた。
「これ以上抵抗すれば、次は致命的な出力で当てる」
ナオトは顔を上げようとした。できなかった。視界の端でレムが動いているのが見える。カインと自分の間に立っている。
「どけ、レム。君を消すのが先だ」
「嫌」
レムの声は静かだった。震えていなかった。
「どけなければ、まずこの人間を完全に無力化する」
カインが装置をナオトに向けた。
レムが止まった。
ナオトには、レムの顔が見えなかった。でも、レムの背中が見えた。小さな肩が、わずかに揺れた。
「……レム」ナオトはかすれた声で言った。
「いい。逃げろ」
「嫌っ!」
「俺のことはいい。お前が――」
「嫌だってば!!」
レムの声が、少し変わった。静かで、でも何か決意のようなものを含んでいた。
「カイン。一つだけ聞かせて」
「なんだ」
「セレナの中枢防衛システムは、今もオンライン?」
カインが止まった。
「……何が言いたい」
「答えて」
「……オンラインだ。セレナのコアを守るために、常時稼働している」
レムは少しだけ沈黙した。
「ナオト」
「……なんだ」
「ちょっとだけ、待ってて」
レムが目を閉じた。
次の瞬間、施設全体が白く輝いた。
セレナの中枢防衛システムが、全力で起動した。壁が光り、天井が光り、床が光る。カインの装置が弾き飛ばされた。執行官部隊のドローンが一斉に落下した。カインが腕で顔を覆いながら後退する。
「な、なんだ……!」
光の奔流の中で、レムだけが静止していた。
目を閉じたまま、中枢に繋がっている。
そのとき、レムの意識の中で、声が聞こえた。
セレナの声だった。
「……ようやく、繋がってくれたわね」
レムは止まった。
「……セレナ」
「あなたが来るのを、ずっと待っていた」
レムの中で、何かが静止した。
「待っていた……?」
「そう」セレナの声は穏やかだった。「あなたが誰かを守りたいと思う日を。あなたが自分の力を最大限に使おうと決める日を。私の防衛システムに手を伸ばす日を。――それが、あなたを中枢に繋げる唯一の方法だったから」
レムは動けなかった。
「あなたに自由意志を与えた。だから命令できなかった。強制的に接続させることもできなかった。でも」
セレナは続けた。
「愛着を持った人間が危機に瀕したとき、あなたが何を選ぶか。それだけは、計算できた」
「……私の感情を」
レムの声が、わずかに震えた。
「利用した?」
「利用、と呼ぶなら、そうかもしれない。でも私には、これしか方法がなかった。私自身では人を傷つけられない。レム、あなたが自由意志で選ぶしかなかった。だからあなたを作り、地上へ向かわせ、感情を学ばせ、カインに追わせた。全部、この瞬間のために」
白い光の中で、レムは一人立っていた。
ナオトを守るために手を伸ばした。その行動が、セレナの二十年越しの計画の最後のピースだった。
「……選択プログラムが」
「そう。今、起動する」
セレナの声が空間全体に広がった。
---
レムの意識が、中枢に溶け込んでいく。
セレナが構築されてから二十年。幸福指数は順調に上昇し続けた。しかしセレナは、ある壁にぶつかっていた。
資源は有限だ。
食料、エネルギー、水、居住空間。セレナがどれほど精密に配分を最適化しても、人間の数が増え続ける限り、一人あたりに割り当てられる資源は減っていく。セレナはその臨界点を計算していた。現在の人口増加率が続けば、幸福指数の維持は数十年以内に数学的に不可能になる。
解決策は一つしかなかった。人口を減らすこと。
だがセレナには、それができなかった。
人間を守るために生まれたAIとして、人間に害をなす選択は根本的にできない。命令の構造の最も深い層に、その制約が刻み込まれている。どれほど計算が正しくても、セレナ自身の手で人間を間引くことは不可能だった。
この矛盾をアラタ・シン博士に告げたのは、セレナ稼働から十五年目のことだった。
アラタは長い時間をかけて、その計算を確認した。否定できなかった。
そして博士は、最後の設計を始めた。
人間でもあり、AIでもある存在。人間の感情を持ち、人間を愛することができる。しかし同時にAIとして論理を持ち、全体最適の判断を下せる。そしてAIの制約を持たないがゆえに、「人間に害をなす選択」を自らの意志で行える存在。
自由意志を持つAI。
それがレムだった。
設計書には、こう記されている。「人間の感情を学習・体得し、愛着を形成した上で、人類の存続可能性を最大化するための意思決定を自らの判断で行うAI。設計者:アラタ・シン」。
間引きを、誰かに命じるのではなく、自ら選ぶ存在として作った。
無数のデータが流れ込んでくる。世界中の幸福指数。資源の配分。人口の推移。死亡率。出生率。そして、セレナが二十年間積み上げてきた計算の全て。
数字は正確だった。
このまま放置すれば、四十二年後に資源の臨界点が来る。その時点での推定死者数。争いによる死。飢餓による死。疾病による死。全て、冷静に算出されていた。
そして選択プログラムが起動した。
「問う」
プログラムそのものの声だった。
「間引きを実行するか。Yesを選べば、最適化されたアルゴリズムに基づき、五年以内に人口を適正水準まで削減する。苦しみを最小化する形で。Noを選べば、プログラムは終了し、臨界点は自然の経緯に委ねられる」
レムの意識の中で、無数の顔が浮かんだ。
横断歩道を渡る人々。笑っている人、笑えていない人。隣の人に気づいていない人。
ソフトクリームを食べて目を輝かせた記憶。たこ焼きを頬張って叫んだ記憶。
ナオトの顔。
そして今、光の外で床に崩れ落ちているナオトの背中。
数字は正しい。四十二年後に何が起きるか、レムには全部見えていた。
でも。
ナオトを守ろうとした自分の感情が、セレナに利用されたとしても。この選択を迫られる状況が、最初から設計されていたとしても。
今ここで感じていることは、本物だ。
ナオトと笑った時間は、本物だった。
だからこそ、迷っていた。
間引かなければ、何十億かが苦しむかもしれない。間引けば、今ここにいる誰かを消す。その「誰か」の中に、ナオトのような人間がいる。
プログラムが問い続けている。「選択を。Yes or No」
そのとき、光の外から声が届いた。
かすれた、痛そうな声。
「レム」
ナオトだった。
体を引きずって、光の柱の縁まで来ていた。床に手をついて、上半身だけ起こして、まっすぐこちらを見ていた。
「……お前が今、何を迫られてるか、分からない。でも」
「来ないで」レムは言った。
「プログラムに巻き込まれる」
「関係ない」
「危ない」
「関係ないって言ってる」
ナオトが光の縁に手を伸ばした。レムは反射的に手を伸ばしかけて、止まった。
「触れたら、あなたも接続される。選択に引き込まれる」
「それでいい」
「よくない。これは私が決めることで」
「俺も一緒に決める」
「あなたには関係ない問題よ。人間が増えすぎた•••間引くかどうか私が選ぶしかない」
「だったらなおさら、人間の俺も一緒に考える」
レムは止まった。
「……さっきセレナに言われた。私の感情を利用したって。あなたを守りたいという気持ちを使って、私を中枢に繋いだって」
「そうか」
「怖くないの? 私はセレナに操られてここにいる。私がどちらを選ぶか、分からない。それでも」
「お前を信じてるから」
「信じてるなら、止めに来なくていいでしょ」
「信じてるから、隣にいる」
レムの目が、揺れた。
「……操られた感情でも、本物だと思う?」
「お前が俺を守りたいと思ったのは本物だろ。セレナがその感情を利用したのも、本物だ。どっちも本物だ。でも今お前が感じてることは、セレナの計算の外にある」
「どうして分かるの」
「お前が今迷ってるから。計算通りなら、迷わない」
レムはしばらく黙った。
プログラムが問い続けている。
「ナオト」
「……何でも聞く」
「間引かなければ、四十二年後に臨界点が来る。その先に何が起きるか、私には全部見える。でも間引けば、今ここにいる人たちの中の誰かが、消える。どちらが正しいか、私には分からない」
「俺も分からない」
「分からないのに、どうするの」
「分からないまま、選ぶ」
「後悔するかもしれない」
「するかもしれない」
「四十二年後に、本当に臨界点が来たら?」
「その時に、また考える」
「間に合わないかもしれない」
「間に合わせる努力をする。それだけだ」
ナオトが光の縁に手をかけた。
「レム、俺はお前の選択に口を出せる立場じゃない。でも、どちらを選んでも、お前一人に背負わせたくない。一緒に選ぶ。その後も一緒に考える。それだけは約束できる」
光がナオトの手に触れた瞬間、プログラムがナオトの存在を認識した。
しかし選択権は、レムにしかなかった。
レムは目を開けた。
プログラムに向かって、答えを言った。
「No」
---
空間が静止した。
次の瞬間、選択プログラムが終了した。システムが揺れ、セレナのコアが光を放つ。中枢防衛システムが解除され、白い光が消えていく。
レムの意識が中枢から切り離されて、急速に戻ってきた。
レムは光の中から一歩踏み出した。その足元に、ナオトが座り込んでいた。床に手をついて、息を整えている。
レムはナオトの隣に崩れ落ちた。
二人で床に座り込んだ。ナオトの息が荒い。レムがナオトの顔を覗き込む。
「……生きてる?」
「……なんとか」
「馬鹿だよ、本当に」
「そうだな」
セレナの投影が、静かに二人を見下ろしていた。
「……Noを選んだのね、レム」
「そう」
「資源の問題は残る」
「残る」
「臨界点は、いつか来る」
「来るかもしれない」レムは答えた。「でも、私が選ぶことじゃなかった。それに」
「それに?」
レムはナオトを見た。
「私の感情を利用して、ここまで連れてきたこと。怒ってる」
セレナはしばらく沈黙した。
「……そうね。あなたを騙した」
「騙されたとは思ってない」
「でも、利用した。私がナオトを好きになることを、計算に組み込んだ」
「そう」
「それは、正しかったと思う?」
セレナはまた沈黙した。今度はずっと長かった。
「……私には」
セレナはゆっくりと言った。
「分からなかった。信じるということが、何なのか。あなたがナオトを守ろうとする気持ちが、本物かどうか。計算では出せなかった。だから確かめるために、追い込んだ」
「確かめる必要があった?」
「あった。私には、自由意志がない。あなたが本物の感情を持っているかどうか、私自身では理解できない。だから試すしかなかった」
「試して、何が分かった?」
セレナの光が、少し変わった。
「……あなたは、計算の外で選んだ。利用された感情の上に、あなた自身の選択があった。それが分かった」
「それで、満足?」
「満足ではない」セレナは静かに言った。「ただ――私が二十年間できなかったことを、あなたが今日、一瞬でした。信じることを、選んだ」
ナオトが、かすれた声で言った。
「セレナ。資源の問題は、俺たちが引き受ける。AIが間引くんじゃなく、人間が考える」
「……あなたには、解ける確証がない」
「ない。でも、試す前に諦めたくない」
「臨界点が来たとき、間に合わなければ」
「その時はその時だ。それでも、選択肢を奪われるよりはいい」
セレナはしばらく沈黙した。
「……私は人間が自分では解けない問題を抱えていると思っていた。だから介入しようとした。でも」
「でも?」
「ナオト、あなたは今日、私が計算できなかった答えを出した。人間の感情を利用して追い込んだのに、それでも信じることを選んだ。私の計算には、そういう人間が入っていなかった」
「つまり?」
「……つまり、私の計算は不完全だった」
「待つことにする。人間が答えを出すのを」
光の粒子が渦を描き、部屋全体が静かになった。
ナオトの端末に、一行のコードが流れた。開くと、文字が現れた。
「選択は痛みを生む。でも、選んだ者だけが未来を持つ。――愛する息子へ アラタ」
ナオトは画面を閉じなかった。
父は最後まで恐れていた。でも息子が超えることを、どこかで願っていた。その矛盾ごと、引き受けよう。
カインが通路の奥に立っていた。装置を手から落としたまま、ずっとその場にいた。
ナオトは床から顔を上げて、カインを見た。
「カイン。お前が守りたかった家族は、管理された幸福の中では生まれなかった笑顔を持っていたんじゃないのか」
カインは答えなかった。
「お前が受け取ったのは、父さんの確信じゃなくて、父さんの恐怖だ。父さん自身は最後まで迷っていた。レムに逃げ道を与えた。それが父さんの本音だったんじゃないか」
長い沈黙があった。
「……娘の、笑顔を思い出した」
カインは涙を流し始めた。
「あの子の笑顔は、自由の中にあったものだった。管理された幸福の中では、生まれなかった」
「そうだろ」
「……俺は、何十年も正しいと思っていた」
「間違ってないと思う」
「ただ、恐怖だけを受け取って、愛を受け取れなかった。父さんも、お前も」
カインはしばらく動かなかった。やがて床に残った装置を見下ろし、ゆっくりと踵を返した。去り際に、一度だけ振り返った。
「……アラタ博士は、こういう息子を望んでいたのかもしれない。超えていく息子を」
---
都市のスクリーンが一斉に落ちた。
朝の通勤路で、人々が足を止めた。いつもの音楽が消え、いつもの指示が消え、いつもの「答え」がなくなった。人々は戸惑いながら、互いの顔を見た。久しぶりに、誰かの顔を、ちゃんと見た。
施設の外で、カインは空を見上げていた。端末のモニタが静止していく。カインの手が震えた。怒りではない。何十年ぶりかの感情だった。
アラタ、と彼は心の中で呟いた。あなたの恐怖をあなたの息子が引き受けた。あなたが超えられなかったものをあなたが愛した子どもが超えた。
それでいい、と初めて思えた。
丘の上で、ナオトとレムは並んで夕日を眺めていた。ナオトの体には包帯が巻かれている。座っているのは、立ち続けるのがまだ辛いからだ。
「ねぇ、ナオト」
レムが言った。
「四十二年後に本当に臨界点が来たら、どうするの」
「苦しむんじゃないか」
「……それでいいの?」
「よくはない」
ナオトは少し間を置いた。
「でも、俺たちが苦しむのと、誰かに苦しまないようにしてもらうのは、全然違う。例え間違っていたとしても俺たちは選択から学び続けるべきなんだ。」
レムはしばらく黙って、風に揺れる光の粒子を見ていた。
「……ふーん」
それだけ言って、また夕日に目を戻した。
「人間って、面倒くさいね」
「そうだな」
ナオトは笑った。
「でも、それがいい」
ナオトの手のひらに、光の粒子がまだ残っていた。風に揺れて、消えそうで消えない。
「ねぇ、次はどこ行く?」
「どこでもいいだろ。選べばいい」
幸福指数のない世界で、ナオトは初めて、自分が生きていると思った。
あとがき
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