王女殿下と侍従長の七十三日戦争
対立は、ある月曜日の朝に始まった。
王女エリザベータ・ルイーゼが、朝食の席で宣言した。
「来週から、毎朝の予定確認会議を廃止します」
侍従長フリードリヒ・フォン・アルトハイムは、紅茶を喉に詰まらせそうになった。
「……廃止、ですか」
「はい。無駄だと思うので」
フリードリヒは、六十三歳。王室に四十年仕えてきたベテランである。
彼は、冷静に答えた。
「殿下、予定確認会議は王族の日課として、百年以上続いている伝統です」
「伝統であることと、有用であることは、別問題です」
「ですが、一日の予定を確認することは重要です」
「予定表を読めば、分かります」
エリザベータは、手元の予定表を示した。
「毎朝三十分かけて、これを読み上げる必要はありません」
フリードリヒは、表情を変えなかった。
「予定表の読み上げだけが、目的ではありません。殿下の体調確認、重要事項の再確認、急な変更への対応。それらを含めた総合的な準備時間です」
「では、体調確認だけ五分で済ませればいいでしょう」
「……殿下は、王族としての品格を保つ責任があります」
「品格と、三十分の会議に、どんな関係が?」
フリードリヒは、深く息を吐いた。
「殿下、申し訳ございませんが、予定確認会議の廃止は認められません」
エリザベータは、にっこり笑った。
「では、宮内局に申請書を出します」
フリードリヒの表情が、わずかに硬くなった。
「……ご自由に」
その日の午後、エリザベータは宮内局を訪れた。
『王族日課変更申請書(様式第百九十三号)』を提出した。
変更内容:朝の予定確認会議(三十分)を、簡易確認(五分)に変更
変更理由:時間の効率的使用のため
期待される効果:一日あたり二十五分の時間創出
宮内局の担当官、カスパーは書類を受け取った。
「殿下、この変更には、侍従長の承認が必要です」
「侍従長は反対しています」
「では……申請は通りません」
エリザベータは、規定集を開いた。
「『王族日課変更申請規則』第五条によれば、侍従長の承認が得られない場合、宮内局長の判断を仰ぐことができます」
カスパーは、規定を確認した。
「……その通りです」
「では、局長に審査をお願いします」
「承知しました。ただし、局長の判断には一週間ほどかかります」
「問題ありません」
エリザベータは、笑顔で退室した。
カスパーは、溜息をついた。
「……王女殿下と侍従長の対立か。厄介なことになった」
翌日、フリードリヒは宮内局を訪れた。
「王女殿下の申請について、意見書を提出したい」
カスパーは、書類を受け取った。
『王族日課変更申請に対する反対意見書』
内容は、以下の通りだった。
予定確認会議は、王族の健康と安全を守るための重要な手続きである
三十分という時間は、必要最小限である
過去百年間、この制度により王族の日常が安定してきた
ゆえに、変更は不適切である
カスパーは、書類を読んで頷いた。
「侍従長らしい、堅実な意見ですね」
「王女殿下は、若さゆえに効率を重視されるが、王室の伝統には理由がある」
「分かりました。局長に提出します」
フリードリヒは、退室した。
その三時間後、エリザベータが再び宮内局を訪れた。
「侍従長の意見書に対する反論書を提出します」
カスパーは、頭を抱えた。
『反対意見書に対する反論(様式第百九十三号-補)』
健康と安全の確認は、五分で十分可能である
残りの二十五分は、予定表の朗読であり、書面で代替可能
百年続いていることは、正しいことの証明にはならない
時代に応じた制度の見直しは、合理的である
カスパーは、書類を受け取った。
「……殿下、これは終わりがないのでは」
「侍従長が折れるまでです」
エリザベータは、にっこり笑った。
「私、時間はたっぷりありますから」
一週間後、宮内局長ハインリヒ・グスタフが判断を下した。
結論:保留。
両者の主張には、それぞれ理由がある。
ゆえに、試験期間として一ヶ月間、王女殿下の提案する五分方式を実施する。
一ヶ月後、効果を検証し、最終判断を下す。
エリザベータは、通知を受け取って喜んだ。
「試験期間ですが、実質的には私の勝ちですね」
侍女のマリアンネが、心配そうに言った。
「殿下、侍従長は納得されないのでは」
「納得しなくても、局長の判断には従うはずです」
一方、フリードリヒは通知を受け取って、静かに頷いた。
「試験期間か……ならば、五分では不十分であることを証明すればいい」
侍従のヴェルナーが、尋ねた。
「侍従長、どうされるおつもりですか」
「五分の確認で、殿下が困る状況を作る」
「それは……」
「心配するな。殿下の安全を損なうことはしない。ただ、不便を感じていただくだけだ」
フリードリヒは、計画を練り始めた。
試験期間の初日、朝の確認は五分で終わった。
「本日の予定は、午前:慈善事業局との打ち合わせ、午後:書類作業。以上です」
「了解しました」
エリザベータは、満足そうに退室した。
午前十時、慈善事業局との打ち合わせが始まった。
三十分後、エリザベータは気づいた。
「あれ、資料がない」
マリアンネが、慌てた。
「どの資料ですか」
「慈善事業局が事前に送ってきた、孤児院の年次報告書です」
「……確認していませんでした」
エリザベータは、侍従を呼んだ。
「資料を持ってきてください」
「かしこまりました」
十分後、資料が届いた。
打ち合わせは、十分遅れて再開した。
慈善事業局の担当官は、不満そうな顔をしていた。
打ち合わせが終わった後、エリザベータは気づいた。
「……侍従長の仕業ですね」
マリアンネが、頷いた。
「おそらく。従来の予定確認会議では、必要な資料の確認も行っていました」
「つまり、五分では資料確認が漏れる、と」
「そういうことです」
エリザベータは、メモを取った。
「ならば、対策を立てましょう」
翌日から、エリザベータは新しいシステムを導入した。
『王女殿下予定・資料チェックリスト』
予定表の各項目に、必要な資料をリスト化した。
「これで、資料の漏れはなくなります」
マリアンネが、感心した。
「完璧ですね」
三日後、別の問題が起きた。
エリザベータが外出から戻ると、侍従が言った。
「殿下、お着替えの準備ができておりません」
「なぜですか。午後の式典に出席するはずですが」
「式典用の衣装が、洗濯中です」
「……予定を確認していれば、洗濯に出さないはずですよね」
侍従は、申し訳なさそうに答えた。
「侍従長の指示で、定期洗濯スケジュール通りに処理しました」
エリザベータは、理解した。
「なるほど。従来の会議では、衣装の確認もしていた、と」
「はい」
エリザベータは、別の衣装で式典に出席した。
適切な衣装ではあったが、格式がわずかに不足していた。
式典局の担当官は、記録にそのことを記載した。
一週間後、エリザベータは対策を強化した。
『王女殿下週間スケジュール統合管理表』を作成した。
予定、必要資料、必要衣装、必要移動手段、全てを一覧にした。
「これで、漏れはありません」
フリードリヒは、その表を見て、静かに笑った。
「殿下は、私の仕事を自分でやり始めたな」
ヴェルナーが、尋ねた。
「侍従長、これでは殿下の勝ちでは」
「いや、まだだ」
フリードリヒは、次の手を考えた。
「殿下が管理表を作れば作るほど、作業時間が増える。それが負担になれば、従来の方式の価値が分かるはずだ」
しかし、エリザベータは諦めなかった。
管理表の作成を効率化し、毎日十分で更新できるようにした。
「従来の三十分会議より、十分の自己管理の方が効率的です」
マリアンネは、呆れた。
「殿下、もはや意地ですね」
「はい。でも、侍従長も意地でしょう」
二週間後、フリードリヒは新しい手段に出た。
エリザベータの予定に、「緊急の変更」を入れ始めたのである。
「殿下、午後の予定が変更になりました」
「何ですか」
「王立学院からの講演依頼が、来週から今日に前倒しされました」
「今日ですか。急ですね」
「先方の都合です」
エリザベータは、予定表を確認した。
午後は書類作業の予定だったので、変更可能だった。
「分かりました。講演資料を準備します」
フリードリヒは、内心驚いた。
(対応が早い……)
翌日も、緊急変更が入った。
「殿下、孤児院から、本日の訪問を希望されています」
「今日ですか」
「緊急の事情があるとのことです」
エリザベータは、即座に判断した。
「承諾します。午前の予定を調整してください」
「……かしこまりました」
フリードリヒは、作戦を変えた。
緊急変更では、エリザベータは動じない。
三週間後、フリードリヒは最終手段に出た。
「殿下の健康管理記録に、不備があります」
宮内局の定期監査で、彼は指摘した。
「どんな不備ですか」
監査官のレオポルトが、記録を見た。
「過去三週間、王女殿下の体調記録が簡略化されています」
「簡略化、ですか」
「はい。従来は『体調良好、睡眠時間七時間、食欲正常、特記事項なし』と詳細に記録されていました。しかし、最近は『問題なし』の一言のみです」
レオポルトは、フリードリヒを見た。
「侍従長、これは適切な記録と言えますか」
「言えません。王族の健康管理は、詳細な記録が義務付けられています」
「では、改善が必要ですね」
レオポルトは、エリザベータに通知を出した。
『健康管理記録の改善要請』
エリザベータは、通知を受け取った。
「……侍従長、やりますね」
マリアンネが、心配した。
「殿下、これは正当な指摘です」
「分かっています」
エリザベータは、規定を調べた。
『王族健康管理規則』を読み込んだ。
そして、抜け道を見つけた。
「宮内局長、提案があります」
エリザベータは、ハインリヒを訪ねた。
「何でしょうか」
「健康管理記録を、定型化したいのです」
「定型化、ですか」
「はい。毎日の体調を、定型フォームに記入する方式にします。記入は私自身が行います。時間は二分で済みます」
ハインリヒは、提案書を見た。
『王族健康管理記録定型化提案書』
詳細な設計図と、記入フォームの見本が添付されていた。
「これは……よく考えられていますね」
「規定を満たしつつ、効率化できます」
ハインリヒは、承認した。
フリードリヒは、この決定を知って、初めて焦りを感じた。
(殿下は、私の攻撃を全て制度改善に変えている……)
一ヶ月の試験期間が終わった。
宮内局長ハインリヒが、最終判断を下すための会議を開いた。
出席者:ハインリヒ、エリザベータ、フリードリヒ、監査官レオポルト。
「では、検証結果を報告します」
レオポルトが、資料を読み上げた。
「試験期間中、王女殿下の予定は全て問題なく実施されました」
「健康管理記録も、定型化により改善されました」
「資料の準備、衣装の手配、緊急対応、全て適切に処理されました」
「加えて、殿下が自己管理に要した時間は、一日平均十五分。従来の三十分会議より、効率的です」
ハインリヒは、フリードリヒを見た。
「侍従長、反論はありますか」
フリードリヒは、長い沈黙の後、答えた。
「……ありません」
「では、王女殿下の提案を、正式に承認します」
エリザベータは、静かに微笑んだ。
フリードリヒは、深く頭を下げた。
「殿下、私の負けです」
会議の後、フリードリヒがエリザベータに声をかけた。
「殿下、一つお聞きしたい」
「何でしょうか」
「なぜ、ここまで戦われたのですか。三十分の会議、そこまで重要でしたか」
エリザベータは、答えた。
「重要だったのは、三十分ではありません」
「では、何が」
「自分で考え、自分で管理する権利です」
フリードリヒは、黙って聞いた。
「侍従長、あなたは私のために全てを用意してくれます。それはありがたい。でも、私は自分のことを自分で管理したいんです」
「……それは、王族らしくない考えです」
「王族らしくなくても、私らしい考えです」
フリードリヒは、長い沈黙の後、微笑んだ。
「……負けて、清々しました」
「え?」
「私は四十年、王族に仕えてきました。しかし、ここまで主体的に動かれる王族は、初めてです」
フリードリヒは、深く頭を下げた。
「今後も、殿下に仕えさせてください。ただし、殿下のやり方で」
エリザベータは、手を差し出した。
「これからも、よろしくお願いします、侍従長」
フリードリヒは、その手を握った。
翌日から、新しい日常が始まった。
朝の確認は五分。
エリザベータが自分で管理表を確認し、フリードリヒが必要な補足をする。
効率的で、対等な関係だった。
ある朝、フリードリヒが尋ねた。
「殿下、次は何を改革されるおつもりですか」
エリザベータは、にっこり笑った。
「式典の予行演習です。三回もやる必要はないと思うんです」
フリードリヒは、溜息をついた。
「……式典局との戦いですね」
「はい。手伝ってくれますか」
「もちろんです。今度は、殿下の味方として」
二人は、笑い合った。
侍女のマリアンネは、その様子を見て呟いた。
「侍従長、完全に懐柔されましたね」
そして、付け加えた。
「でも、悪くない関係ですね」




