王女殿下の地方視察と消えた井戸
王女エリザベータ・ルイーゼ(二十二歳)は、春の地方視察に出発した。
訪問先は、東部地方の小さな町、リンデンブルク。
「殿下、今回の視察目的は『地方産業の振興状況確認』です」
侍女のマリアンネが、予定表を読み上げた。
「午前:町長による概況説明」
「午後:織物工房の視察」
「夕刻:町民との懇談会」
エリザベータは、馬車の窓から外を眺めた。
「……いつもと同じですね」
「はい。標準的な視察予定です」
「つまり、退屈ということですね」
マリアンネは、溜息をついた。
「殿下、王族の視察は『退屈であること』が重要なんです。予定通りに進み、問題なく終わる。それが成功です」
「分かってますけど」
エリザベータは、別の書類を取り出した。
『リンデンブルク町・基礎情報資料』
「せめて、事前に町のことを勉強しておきます」
資料を読み進めるうち、エリザベータはある記述に目を留めた。
町の主要インフラ:
公共井戸:七箇所
市場:二箇所
街道:東西幹線との接続良好
「公共井戸、七箇所」
「何か問題でも?」
「いえ……でも、町の地図を見ると、井戸の印は六つしかないんです」
マリアンネは、地図を確認した。
「……本当ですね」
「資料と地図、どちらかが間違ってる」
エリザベータは、メモを取った。
「現地で確認してみましょう」
リンデンブルク町に到着すると、町長のカール・ベッカーが出迎えた。
「王女殿下、ようこそ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
概況説明が始まった。
織物産業の発展、人口の増加、税収の安定。
すべて、順調だという報告だった。
エリザベータは、説明を聞きながら、手を挙げた。
「一つ、質問があります」
「はい、殿下」
「町の公共井戸は、何箇所ありますか」
町長は、少し考えた。
「七箇所です」
「では、その場所を教えていただけますか」
町長は、地図を広げた。
「こことここ、それからここ……」
町長が指し示した場所は、六箇所だった。
エリザベータは、静かに指摘した。
「六箇所ですね」
町長は、地図を見直した。
「……あれ、確かに」
「基礎情報資料には、七箇所と書いてありました」
町長は、汗をかき始めた。
「申し訳ございません。確認いたします」
エリザベータは、にっこり笑った。
「午後の視察の前に、確認していただけますか。気になるので」
「……承知いたしました」
昼食後、町長が戻ってきた。
顔色が悪かった。
「殿下、調査の結果をご報告いたします」
「はい」
「公共井戸は……実際には六箇所でした」
「では、七箇所という記録は?」
町長は、古い台帳を持ってきた。
「二十年前の記録には、確かに七箇所ありました。しかし、その後、一箇所が……」
「が?」
「埋められたようです」
エリザベータは、眉をひそめた。
「埋められた? なぜですか」
「それが、記録がないんです」
町長は、台帳のページをめくった。
「井戸が埋められたという報告も、廃止の承認記録も、ありません」
「つまり、勝手に埋められた?」
「……そのようです」
エリザベータは、立ち上がった。
「その井戸があった場所に、案内してください」
マリアンネが、慌てた。
「殿下、予定では午後は織物工房の視察が」
「変更します。これは、もっと面白い」
町長は、青ざめた顔で頷いた。
かつて井戸があった場所は、町の東端だった。
今は、小さな広場になっていた。
「ここです」
町長が、地面を指し示した。
確かに、広場の中央部分の石畳が、周囲と微妙に色が違った。
「ここに井戸があったんですね」
「はい。記録によれば、『東通り公共井戸』と呼ばれていました」
エリザベータは、周囲を見回した。
井戸の跡地の周りには、住宅が並んでいる。
「この辺りの住民に、話を聞けますか」
「……手配いたします」
十分後、年配の女性が現れた。
「王女様がお呼びとは、驚きました」
「お時間をいただき、ありがとうございます。あなたは、この辺りに長く住んでおられますか」
「はい。生まれてから、ずっとここです」
「では、この井戸のことを覚えていますか」
女性は、頷いた。
「覚えています。二十年ほど前まで、ここに井戸がありました」
「なぜ、埋められたんですか」
女性は、少し考えた。
「確か……水質が悪くなったからだと聞きました」
「水質が?」
「はい。井戸の水が、臭くなったんです」
エリザベータは、メモを取った。
「それで、埋められた?」
「ええ。町の人が来て、埋めてしまいました」
「町の正式な決定だったんですか」
女性は、首を傾げた。
「さあ……そこまでは分かりません」
町役場に戻ると、エリザベータは町長に尋ねた。
「水質が悪くなった井戸を埋めるには、どんな手続きが必要ですか」
町長は、規定集を開いた。
「『公共井戸管理規則』によれば、水質検査、住民への説明、町議会の承認、そして上級機関への報告が必要です」
「その記録は、すべて残っているはずですよね」
「はい……のはずですが」
町長は、古い文書を調べ始めた。
一時間後、彼は頭を抱えて戻ってきた。
「……何もありません」
「何も?」
「水質検査の記録も、議会の議事録も、上級機関への報告も、すべてありません」
エリザベータは、考え込んだ。
「つまり、誰かが勝手に井戸を埋めた?」
「そうとしか考えられません」
「でも、基礎情報資料には『七箇所』と書いてある。誰も、気づかなかったんですか」
町長は、弱々しく答えた。
「基礎情報資料は、二十年前の記録をそのまま使い続けていました。更新を怠っていたんです」
エリザベータは、溜息をついた。
「つまり、誰も実際に井戸の数を数えなかった」
「……申し訳ございません」
「謝る前に、真相を調べましょう」
エリザベータは、さらなる調査を指示した。
町役場の職員が、二十年前の記録を徹底的に調べた。
翌日、意外な事実が判明した。
「殿下、分かりました」
町役場の古参職員、ハンスが報告に来た。
「井戸を埋めたのは、当時の町の土木担当者です」
「理由は?」
「井戸の真上に、新しい街道を通す計画があったんです」
ハンスは、古い地図を広げた。
「この道です。東西幹線への接続を改善するための計画でした」
エリザベータは、地図を見た。
確かに、新しい街道の予定線が、井戸の位置を通っていた。
「でも、この街道、実際には別のルートになってますね」
「はい。計画が変更されたんです」
「変更された時点で、井戸を復活させるべきだったのでは」
ハンスは、頷いた。
「その通りです。しかし、計画変更の混乱の中で、井戸のことは忘れられてしまったようです」
「そして、二十年間、誰も気づかなかった」
「……はい」
エリザベータは、町長を見た。
「つまり、この町には本来七箇所あるべき井戸が、手続きミスで六箇所になってしまった」
町長は、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
「謝るより、解決策を考えましょう」
エリザベータは、提案した。
「井戸を復活させるべきです」
町長は、困った顔をした。
「ですが、殿下。今は上水道が整備されています。井戸がなくても、困る住民はいません」
「本当に?」
エリザベータは、地図を指し示した。
「この東通り地区、上水道の給水塔から最も遠いですね」
「……はい」
「では、災害時に上水道が止まったら、この地区の住民はどこから水を得るんですか」
町長は、言葉に詰まった。
「……他の井戸まで、行っていただくことになります」
「最も近い井戸まで、どれくらいの距離ですか」
ハンスが、計算した。
「約五百メートルです」
「災害時に、水を運ぶのに五百メートルは遠すぎます」
エリザベータは、きっぱりと言った。
「井戸を復活させてください」
町長は、頷いた。
「……承知いたしました」
しかし、問題があった。
「殿下、井戸の復活には、予算が必要です」
町の財務担当者が、試算を持ってきた。
「埋められた井戸を掘り直し、整備するには、銀貨三十枚ほどかかります」
「町の予算では、賄えませんか」
「今年度の予算は、すでに配分済みです。来年度まで待つ必要があります」
エリザベータは、考えた。
「では、緊急予算として申請できませんか」
「緊急予算は、『現在進行形の緊急事態』にのみ適用されます。二十年前に埋められた井戸は、該当しません」
エリザベータは、規定集を借りた。
しばらく読んだ後、彼女は微笑んだ。
「ありました」
「何がですか」
「『地方公共施設復旧支援制度(様式第六百三号)』」
財務担当者は、首を傾げた。
「聞いたことがありません」
「二十五年前に作られた制度です。『過去に何らかの理由で失われた公共施設を、復旧する場合に支援する』とあります」
「……井戸は、該当するんですか」
「『公共井戸』は、明確に公共施設として規定されています。該当します」
町長は、驚いた。
「殿下、そんな制度が」
「おそらく、ほとんど使われていないでしょう。でも、廃止もされていません」
エリザベータは、申請書の様式を確認した。
「申請してみましょう」
一週間後、エリザベータは王都に戻った。
しかし、リンデンブルクのことは忘れなかった。
彼女は、地方行政局を訪れた。
「様式第六百三号について、お聞きしたいのですが」
担当官は、書類を調べた。
「……ありますね。確かに、現行の制度です」
「では、町が申請すれば、審査されますか」
「はい。ただし、過去十年間、使用例がありません」
「審査基準は明確ですか」
担当官は、規定を確認した。
「明確です。『施設が公共の利益に資すること』『復旧の必要性が認められること』この二つです」
「井戸の復旧は、該当しますよね」
「……はい」
エリザベータは、町長に手紙を書いた。
「申請書を、このように作成してください」という助言を添えて。
二ヶ月後、リンデンブルク町から申請書が届いた。
『地方公共施設復旧支援申請書(様式第六百三号)』
地方行政局の審査会議が開かれた。
「井戸の復旧……珍しい申請だ」
「だが、内容は妥当だ。災害時の水源確保は、公共の利益に資する」
「予算は、銀貨三十枚。規模も適正だ」
審査結果:承認。
町長に通知が届いた。
『申請承認通知:銀貨三十枚の支援金を交付する』
町長は、すぐにエリザベータに報告の手紙を送った。
王女殿下
おかげさまで、支援金が承認されました。
井戸の復旧工事を、来月から開始いたします。
殿下のご指導なくしては、この結果はありませんでした。
心より感謝申し上げます。
エリザベータは、手紙を読んで微笑んだ。
三ヶ月後、井戸の復旧工事が完了した。
リンデンブルク町から、再び招待状が届いた。
『東通り公共井戸・復旧式典へのご招待』
エリザベータは、喜んで出席した。
井戸の周りには、町民が集まっていた。
町長が、挨拶した。
「本日、二十年ぶりに、東通り公共井戸が復活いたしました。これは、王女殿下のご尽力の賜物です」
拍手が起こった。
エリザベータは、井戸の前に立った。
「私は、ただ疑問を持っただけです。『なぜ、資料と地図が合わないのか』と」
「小さな疑問でしたが、調べてみると、大きな問題が隠れていました」
「制度は、使われなければ意味がありません。忘れられた制度も、必要な時に思い出すことが大切です」
エリザベータは、井戸の水を汲み上げた。
綺麗な水が、桶に注がれた。
「この井戸が、この町の安全を守る一助となることを願います」
町民から、大きな拍手が起こった。
その夜、町役場で小さな宴が開かれた。
町長が、エリザベータに尋ねた。
「殿下、なぜあそこまで、井戸のことにこだわられたんですか」
エリザベータは、グラスを傾けた。
「町長、あなたは『七箇所』という記録を信じていましたよね」
「……はい」
「でも、実際には六箇所しかなかった。記録と現実が、ずれていたんです」
「それは、我々の怠慢でした」
「いいえ。それは、制度の問題でもあります」
エリザベータは、続けた。
「基礎情報資料は、定期的に更新されるべきです。しかし、更新の義務が明確でなければ、怠られます」
「……その通りです」
「私は、井戸を復活させたかったわけではありません。制度が正しく機能するきっかけを作りたかったんです」
町長は、深く頷いた。
「殿下の視察は、我々にとって大きな学びとなりました」
エリザベータは、微笑んだ。
「それは良かった。でも、一つお願いがあります」
「何でしょうか」
「三年後、また視察に来ます。その時、基礎情報資料が正しく更新されているか、確認させてください」
町長は、笑った。
「承知いたしました。三年後、完璧な資料をお見せします」
王都に戻る馬車の中で、マリアンネが言った。
「殿下、今回の視察、予定とは全く違う内容になりましたね」
「はい。でも、織物工房を見るより、ずっと面白かったです」
「町長は、大変だったと思いますが」
「でも、町は良くなりました」
エリザベータは、窓の外を見た。
「視察って、本来こうあるべきだと思うんです」
「と、言いますと」
「予定通りに進むだけでなく、何か一つでも改善のきっかけを見つける。それが、意味のある視察です」
マリアンネは、溜息をついた。
「殿下が視察に行くたびに、どこかの町が大変なことになりますね」
「大変ですけど、良い方向に変わるんですから、いいじゃないですか」
「……次の視察先は、どこでしたっけ」
「西部の鉱山町です」
「……何を見つけるおつもりですか」
エリザベータは、にっこり笑った。
「分かりません。でも、何か面白いものが見つかる気がします」
マリアンネは、諦めた顔で空を見上げた。




