閑話 侍女の記録
侍女マリアンネ・シュミットには、十年来の習慣があった。
月に一度、自室の引き出しから小さなノートを取り出し、短い記録をつける。日誌とも言えないような、断片的な覚書だ。殿下の言葉、自分の所感、そのときの天気。様式はない。誰かに見せるためでもない。
第七年十月。
インクが乾くのを待ちながら、マリアンネは窓の外を見た。ラインハルト神権国との交渉が終わって、ひと月が経つ。
殿下は今日も執務室で書類を読んでいる。事例集の編纂が、新しい楽しみになったらしい。
「もはや意地ですね」
声に出してみると、思いのほか優しい響きだった。
最初にその言葉を使ったのは、いつだったか。
マリアンネが王女付き侍女に任命されたのは、見習い課程を修了した翌日のことだった。辞令は様式第八十四号。感想を書く欄はなかった。
扉の前に立ったとき、想像より緊張した。噂は聞いていた。規定書を持ち歩く王女、書類の矛盾を見つけると止まらない王女。変わった方だと思っていた。
ノックを三回。
「どうぞ」
窓際の机に人影があった。十六歳のエリザベータ・ルイーゼ王女は、顔も上げなかった。書類を読んでいた。
自己紹介をして、部屋の隅に控えた。何をすべきか分からなかった。五分が過ぎた。
「マリアンネ、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「この書類、第三条と第七条が矛盾しているんですが、こういう場合、どちらが優先されるんでしたっけ」
お茶でも案内でもなかった。
「条文の性質によります。より具体的な規定が優先されるのが原則です」
「なるほど。では第七条ですね」
殿下は何かメモを書き込み、次の書類に移った。
これが、この方なのか、とマリアンネは思った。
その後しばらくして、殿下が顔を上げた。
「マリアンネ、お茶をいただけますか。……それと、いきなり書類の話をしてしまって、申し訳なかったです」
謝られるとは思っていなかった。
「いえ、お役に立てれば」
「面白そうですね」
「……何がでしょうか」
「あなたが、です。条文の話に、すぐ答えてくれた」
褒められているのか分析されているのか判断がつかなかった。
お茶を淹れながら、マリアンネは思った。長くなりそうだ、この仕事。
十年経って、その予感は正しかったと分かる。
長くなった。それどころか、終わりが見えない。
殿下は止まらない。朝食の規定を直し、防災計画を作り直し、諸侯との調整を重ね、ラインハルトの外交官を様式で封じた。傍から見れば華々しい。けれどその隣にはいつも書類の山があり、マリアンネが紅茶を淹れていた。
「もはや意地ですね」と最初に言ったのは——確か、殿下が深夜に規定集を読んでいた夜だ。
「規定を読むのは私の趣味です」と殿下は答えた。
あの頃から、何も変わっていない。
変わったのは、マリアンネ自身だ。呆れていたのが、いつの間にか誇らしくなっていた。それに気づいたのは、毒殺未遂の夜のことがあってからだったかもしれない。
ノートに書く。
殿下は今日も規定集を読んでいた。ラインハルトの件が片づいて、次の仕事を探している。止まる気配がない。もはや意地だと思う。でも、それがこの方だ。
私は明日も紅茶を淹れる。
マリアンネはノートを閉じた。
引き出しにしまって、執務室に向かった。そろそろ夕刻の茶の時間だった。
煮詰まったのでしばらく更新止まります。




