エリザベータと襲撃者
第一章:灯り
深夜二時。
エリザベータ・ルイーゼ王女は、執務室にいた。
規定集ではない。手紙を書いていた。リンデンブルク町の町長カール・ベッカーへの返信だ。町の祭りの招待に対する丁寧な辞退。公務日程との調整がつかない。
窓の外は暗い。宮殿全体が寝静まっている。
灯りがついているのは、この部屋だけだった。
廊下の向こうで、金属音がした。
エリザベータは顔を上げた。
続いて、叫び声。短い。途切れた。
足音。複数。
扉が開いた。
女性近衛騎士カタリーナ・フォン・ブラント。剣を抜いている。
「殿下。侵入者です」
「侵入者」
「宮殿の南棟から侵入。人数不明。殿下の部屋に灯りがあるため、こちらに向かっている可能性があります」
エリザベータは机を見た。手紙が途中だった。
「カタリーナ、規定では——」
「規定はありません」
カタリーナの声は短かった。
「様式第913号の緊急隔離規定は、地下シェルターへの避難を想定しています。しかし地下への経路は南棟を通ります。南棟が侵入経路です。使えません」
「では、どこへ」
「分かりません。今から考えます」
カタリーナはエリザベータの腕を掴んだ。
「殿下、今すぐ立ってください。何も持たなくて結構です」
エリザベータは立ち上がった。
手紙を置いた。ペンを置いた。
カタリーナに引かれて、廊下に出た。
第二章:暗闇
廊下は暗い。蝋燭が消えている。
カタリーナの後ろに、三人の女性近衛騎士が続いた。
イレーネ・シュトラウス。三十二歳。剣を持っている。
ゾフィー・ミュラー。二十六歳。短弓を背負っている。
アンナ・ヴェーバー。二十八歳。盾を持っている。
五人で廊下を進む。
エリザベータは暗闇の中を歩いていた。カタリーナの背中だけが見える。
足音を殺している。全員が。
「カタリーナ」エリザベータは小声で聞いた。「どこへ向かっていますか」
「北棟です。北棟から中庭に出て、近衛詰所に合流します」
「近衛詰所まで——」
「約二百メートルです」
二百メートル。普段なら三分で歩ける距離だ。
しかし今、宮殿は暗い。侵入者がどこにいるか分からない。
角を曲がった。
カタリーナが手を上げた。全員が止まる。
前方の廊下の奥に、灯りが揺れている。
こちらの灯りではない。
カタリーナが振り返った。声を出さず、手で指示した。戻れ。
五人が無言で引き返す。別の経路を探す。
エリザベータの心臓が速くなっていた。
規定がない。
どの書類にも、「宮殿内で侵入者に遭遇した場合の王族の行動規範」は書いていない。避難規定はある。しかし避難先への経路が塞がれた場合の規定はない。
規定にないことが起きている。
どうすればいいか分からない。
カタリーナが分かっている。カタリーナが判断している。
エリザベータは、カタリーナの背中について歩くことしかできなかった。
第三章:階段
東棟の裏階段にたどり着いた。
ここは使用人の通路だ。狭くて急な階段。エリザベータは通ったことがない。
「殿下、ここを降ります」
「この階段、知りませんでした」
「使用人用です。王族が使うことは想定されていません」
カタリーナが先に降りる。エリザベータが続く。後ろをアンナが盾で塞ぐ。
階段は暗く、段差が不揃いだった。
エリザベータは裾を踏んだ。
「っ——」
体が傾ぐ。カタリーナが振り返り、片手でエリザベータの腕を掴んだ。
「大丈夫ですか」
「はい——すみません」
「裾を持ってください。片手で壁を触りながら降りてください」
エリザベータは言われた通りにした。裾を左手で束ね、右手で壁を触りながら、一段ずつ降りる。
普段の自分なら、この階段の設計上の問題点を三つは指摘できる。段差の不統一。手すりの不在。照明の欠如。
しかし今は、降りることだけで精一杯だった。
階段の下に出た。一階の通路。厨房の裏手だ。
冷たい石の床。食材の匂い。
ゾフィーが前方を確認した。
「クリア」
「行きます」
カタリーナが歩き出す。エリザベータが続く。
厨房を抜け、通用口に出た。中庭が見える。
月明かりだけが照らしている。
「あそこが近衛詰所です」カタリーナが指さした。「中庭を横切って、約五十メートル」
「走りますか」
「走ります」
エリザベータは靴を見た。室内履きだ。走れるか。
「殿下」イレーネが言った。「転んだら、私が担ぎます。気にせず走ってください」
「……ありがとうございます」
カタリーナが中庭を見渡した。
「異常なし。行きます」
五人が走った。
月明かりの中庭。石畳。エリザベータは必死で走った。
靴が滑る。足が痛い。息が切れる。
五十メートルが長い。
近衛詰所の扉が見えた。灯りが漏れている。
カタリーナが扉を叩いた。
「カタリーナ・フォン・ブラント。王女殿下を護送中」
扉が開いた。
灯りが溢れた。
第四章:詰所
近衛詰所の中には、十二名の近衛騎士がいた。完全武装。
「王女殿下、ご無事ですか」
近衛騎士団長フランツ・フォン・エッケンハルトが駆け寄った。
「無事です」
エリザベータは椅子に座った。足が震えていた。
「侵入者の状況は」
「南棟から侵入した賊が五名。現在、宮殿警備隊が掃討中です。首都の夜警にも増援を要請しました」
「五名」
「はい。組織的な暗殺ではなく、宮殿を狙った夜盗と見られます。殿下の部屋の灯りに引き寄せられた可能性があります」
エリザベータは自分の手を見た。まだ震えている。
「……私のせいですか」
「殿下のせいではありません」フランツが即答した。「宮殿の警備に不備があったのは、我々の責任です」
カタリーナが報告した。
「南棟の経路が使えなかったため、東棟の使用人階段から一階に降り、厨房を経由して中庭を横断しました。所要約十二分です」
「十二分」フランツが復唱した。「経路の記録を残してくれ」
「はい」
エリザベータは詰所を見回した。
武器が壁にかかっている。甲冑が並んでいる。地図が張ってある。
ここは規定の部屋ではない。剣と盾の部屋だ。
エリザベータが得意なものは一つもない。
マリアンネがいないことに、今さら気づいた。
「マリアンネは」
フランツが答えた。
「侍女は別経路で安全に退避しています。ご安心ください」
「……よかった」
エリザベータは息を吐いた。
規定を開く気にならなかった。
今夜、自分を守ったのは規定ではなかった。
カタリーナが判断し、イレーネが剣を持ち、ゾフィーが弓を背負い、アンナが盾で後ろを塞いだ。
四人の騎士が、体を使って、王女を運んだ。
規定にないことをした。経路が塞がれたから別の道を選んだ。使用人の階段を使った。中庭を走った。
全て、カタリーナの判断だった。
エリザベータはカタリーナを見た。
カタリーナは壁に背を預け、まだ剣を持っていた。汗をかいている。
「カタリーナ」
「はい、殿下」
「ありがとうございます」
「仕事です」
「それでも」
カタリーナは少し黙った。
「殿下。一つ、お願いがあります」
「何ですか」
「深夜の執務は、やめてください」
エリザベータは苦笑した。
「……善処します」
「善処ではなく、お約束してください」
「約束は……難しいです。規定の校正が溜まると——」
「殿下」
カタリーナの目が真剣だった。
「灯りがなければ、賊は殿下の部屋を知りようがありません」
エリザベータは黙った。
「殿下の安全は、規定だけでは守れません。殿下ご自身の行動も含めて、です」
「……分かりました」
エリザベータは窓の外を見た。まだ暗い。
今夜のことは、どの様式番号にも載っていない。
明日、フランツが報告書を書くだろう。カタリーナの経路が記録されるだろう。宮殿警備の見直しが議論されるだろう。
そして、いつか——規定になるかもしれない。
「宮殿内侵入者発生時の王族護送手順」。様式番号がつき、条文が書かれ、避難経路が図面に落とされる。
今夜カタリーナが走った道が、規定になる。
それが、本家国のやり方だ。
しかし今夜は、規定がなかった。
規定がない夜に、自分は何もできなかった。
エリザベータは、その事実を静かに受け止めた。
第五章:朝
午前五時。
宮殿警備隊から報告が来た。侵入者五名を全員拘束。王宮内の安全を確認。
エリザベータは詰所から出て、宮殿に戻った。
東の空が白み始めていた。
執務室の扉を開けた。
机の上に、手紙が置いてある。リンデンブルク町長への返信。途中のまま。
エリザベータは椅子に座った。
ペンを取った。
手紙の続きを書こうとした。
手が震えていた。
ペンを置いた。
少し待った。
深呼吸をした。
もう一度、ペンを取った。
今度は書けた。
祭りへのご招待、ありがとうございます。
残念ながら、公務日程の調整がつかず、今回は辞退させていただきます。
次の機会を楽しみにしております。
手紙を書き終え、封をした。
マリアンネが入ってきた。
「殿下、ご無事でしたか」
「無事です。あなたは」
「私も無事です」
マリアンネはエリザベータの顔を見た。
「殿下、顔色が悪いです」
「そうですか」
「少しお休みになってください」
「……そうします」
エリザベータは立ち上がった。
窓の外を見た。朝日が差し始めている。
昨夜の闇が嘘のように、宮殿は明るかった。




