エリザベータとドラゴン襲来
再開しますが、すぐにまた止まる予定です
第一章:十二鐘
エリザベータ・ルイーゼ王女は、自室の窓辺で草案を書いていた。
「王族行動基本原則」。先日、兄弟たちとの研究会で話題になった規定だ。
王族行動基本原則(草案)
第1条:王族は、人間である
第2条:人間は、時に失敗する
第3条:失敗を認め、改善することが、王族の義務である
「第1条が難しいですね」
侍女マリアンネ・シュミットが、茶を淹れながら言う。
「当たり前のことを書くと、かえって不自然になります」
「でも、明記されていないんです」
エリザベータはペンを止めた。
「当たり前のことを当たり前に書く。それが一番難しい」
「殿下らしい悩みですね」
その時。
鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ——
マリアンネの手が止まる。
四つ、五つ、六つ——
茶器が、かすかに震えた。
七つ、八つ、九つ——
エリザベータは立ち上がる。
十、十一、十二。
十二鐘。
緊急事態宣言。
「殿下」
マリアンネの声に、もう日常の色はない。
エリザベータは窓の外を見た。北の空に、小さな黒い影がある。
扉が開いた。近衛騎士団長フランツ・フォン・エッケンハルトが立っている。四十八歳、軍人の顔だ。
「王女殿下。様式第911号、王族緊急避難規定を発令します」
「ドラゴンですか」
「首都北方十五キロメートル。進路は首都方向です」
エリザベータは机を見た。たった今まで書いていた草案がある。
第1条:王族は、人間である
「殿下」フランツが促す。「様式第911号第3条。携行品は最小限。直ちに」
エリザベータは草案を置いた。
「分かりました」
何も持たず、立ち上がる。
第二章:騎手
王宮中庭。
軍馬が一頭、待機していた。装甲なしの伝令用。速度に特化した黒い馬。
騎手は——マリアンネだった。
すでに騎乗用の服装に着替えている。いつの間に。
「様式第911号第5条」マリアンネが言う。「王族の護衛騎手は、平時より王族に最も近侍する者」
エリザベータは目を丸くした。
「あなた、馬に乗れたんですか」
「子供の頃、実家で少し」
「少し、で軍馬に乗るんですか」
マリアンネは手綱を握ったまま答えない。
近衛騎士が踏み台を持ってきた。エリザベータは生まれて初めて軍馬にまたがる。マリアンネの背中に掴まる形になる。
「行き先は辺境教会保管施設。護衛騎士八名が前後につきます」
フランツが最後の指示を出した。
「では——出発」
マリアンネが手綱を鳴らした。
馬が跳ねるように走り出す。
エリザベータは必死だった。
風が顔を打つ。マリアンネの背中にしがみつく。振り落とされないように。
首都の門を抜け、王道第一街道に出る。全速力。景色が流れる。
「殿下、大丈夫ですか」
マリアンネが叫ぶ。風で声が千切れる。
「なんとか」
嘘だ。尻が痛い。腕が痛い。目が開けていられない。
だが文句は言わない。これも規定だ。
王道を外れ、未舗装の細道に入った。石ころ。窪み。馬の脚が跳ねるたびに、体が宙に浮く。
「あと十キロです」
マリアンネの声だけが聞こえる。
エリザベータは後ろを振り返った。首都の方角に、煙が上がっている。
「見ないでください、殿下」
「……はい」
前を向く。マリアンネの背中に顔を埋める。
侍女の背中は、思ったより広かった。
第三章:文書庫
午後一時過ぎ。
馬が止まった。
エリザベータは、マリアンネに支えられて降りる。足が震えている。二時間以上、全速力だった。
目の前にあるのは、古い石造りの建物。小さな尖塔。教会の形をしている。だが窓は少なく、壁が厚い。
護衛騎士が扉を開けた。
「王女殿下、どうぞ」
中に入って、エリザベータは足を止めた。
教会ではなかった。
天井まで届く本棚。ぎっしりと詰まった文書。規定集、様式集、記録簿——
「辺境教会保管施設」マリアンネが説明する。「名目上は教会ですが、実際は王室文庫の分館です」
「知りませんでした」
「様式第911号第10条により、平時は秘匿されています」
護衛騎士の一人が進み出た。
「王女殿下。ご確認ください。様式第911号第12条により、緊急避難時、宮殿文庫は『正式文書』の指定を外されます。この施設が『王国正式規程文書保管庫』に指定されます」
エリザベータは本棚を見回した。
全ての規定が、ここにある。
王室財産管理規定。災害対応規定。国防法。軍組織規則。
「つまり、ここが今、本家国の中心ということですね」
「その通りです」
建物は古く、狭い。首都の宮殿とは比べものにならない。
だが規定がある。
規定がある場所が、国の中心だ。
エリザベータは、初めてそのことを理解した。
第四章:王歴二四三年の記録
午後三時。
エリザベータは本棚の前に立っていた。
避難先で読むべき書類はない。持ってきていない。校正も、改訂案も、ここにはない。
だから本棚を見ている。
宮殿にはない文書がある。ここだけに保管されている記録がある。
一冊の古い冊子が目に留まった。
『第一次ドラゴン襲来記録——建国四三年』
手に取る。革表紙は硬く、黄ばんでいる。
建国四三年、春。首都北方にドラゴン出現。
国王ハインリヒ一世は、様式第911号により王族を避難させた。
国王自らは宮殿に留まり、国防軍を指揮。
三日後、ドラゴンは撃退された。
国王は負傷したが、王位継承手続きは執行されず。
エリザベータは読み返した。
建国四三年。百五十年以上前。
同じ状況だ。
ドラゴンが来る。王族が避難する。国王は残る。
同じ規定。同じ手順。同じ場所。
「……父上も、今、宮殿に残っている」
マリアンネが横に来た。
「陛下は大丈夫です。国防軍がいます」
「分かっています」
エリザベータは冊子を閉じた。
分かっている。大丈夫だ。規定通りだ。
だが、この記録の国王は負傷した。
本棚に手を伸ばす。別の背表紙が見えた。
『王位継承規定』。
「……読んでもいいですか」
護衛騎士が頷く。
「どうぞ、殿下」
エリザベータは『王位継承規定』を開いた。
第1条:王位は、国王の直系子孫に継承される
第2条:継承順位は、年齢順による
第3条:緊急時、避難先にて王位継承手続きを執行可能
第3条を、三度読んだ。
「避難先にて」。
つまり、ここで。
もし父に何かあれば。
この建物で。この本棚の前で。
自分が王になる。
エリザベータは『王位継承規定』を膝に置いた。
手が少し震えていた。
第五章:夜
午後五時。護衛騎士が伝令を持ってきた。
「ドラゴンは首都北部で国防軍と交戦中。宮殿は無事。国王陛下もご無事です」
エリザベータは小さく息を吐いた。
午後九時半。続報。
「ドラゴン撃退。首都への被害は軽微。国王陛下は無事」
「避難解除は」
「様式第911号第18条により、撃退後二十四時間経過後、かつ国王の命令による、です」
「明日の午後九時半以降、ですね」
「その通りです」
騎士が退出した。
夜。
施設は静かだった。辺境で、街道からも離れている。人の気配がない。蝋燭の灯りだけ。
エリザベータとマリアンネは、小さな部屋にいた。
「殿下、お休みになりますか」
「もう少しだけ」
エリザベータは窓辺に座っていた。窓の外は真っ暗だ。星だけが見える。
「マリアンネ」
「はい」
「馬、上手でしたね」
「……ありがとうございます」
「『少し』ではなかったですね」
マリアンネは少し黙った。
「実家は、馬を飼っていました」
「侍女になる前に」
「はい。田舎の家です。子供の頃は毎日乗っていました」
「なぜ侍女に」
「……規定を読む仕事がしたかったからです」
エリザベータは笑った。
「規定を読む侍女」
「殿下のお側で、規定に触れられる。それが志望動機でした」
「面接でそう言ったんですか」
「はい」
「採用した人の判断は正しかったですね」
「……ありがとうございます」
マリアンネは茶を淹れた。施設に備蓄されていた茶葉。古いが、飲める。
二人で茶を飲む。
しばらく無言だった。
「マリアンネ」
「はい」
「今日、『王位継承規定』を読みました」
「存じております」
「第3条」
「はい」
「もし父上に何かあったら、私はここで王になる」
「……はい」
「規定にそう書いてありました。規定通りです」
マリアンネは茶碗を置いた。
「殿下」
「はい」
「怖いですか」
エリザベータは少し考えた。
「怖いかどうかは分かりません」
「では、何を感じましたか」
「……重い、と思いました」
マリアンネは何も言わなかった。
「今朝まで、『王族は人間である』と書こうとしていました。当たり前のことを、明記しようとしていました」
「はい」
「でも、ここに来て、逆のことを感じました」
「逆」
「王族は人間ですが、人間ではいられない瞬間がある」
マリアンネは静かにエリザベータを見た。
「父に何かあったら、泣いている暇はない。規定を開いて、手続きを始めなければならない。ここで。今夜にでも」
「……」
「それが規定です。そして、私はそれを正しいと思っています。感情で判断してはいけない。規定に従うべきです。でも——」
エリザベータは窓の外を見た。星が見える。
「——それでも、重い」
マリアンネは立ち上がり、エリザベータの隣に座った。
「殿下」
「はい」
「重くていいのだと思います」
「……」
「重くないのなら、それは人間ではありません」
エリザベータは振り向いた。マリアンネの顔は、蝋燭の灯りに照らされて、いつもと同じだった。
「第1条」マリアンネが言った。「『王族は、人間である』。正しいと思います」
エリザベータは小さく笑った。
「ありがとう、マリアンネ」
「お休みなさい、殿下」
「おやすみなさい」
第六章:帰還
翌日午後十時。
エリザベータとマリアンネは、再び馬で首都に戻った。
尻は、行きよりもっと痛かった。
宮殿の中庭に、国王リオナルド三世が立っていた。
「父上」
エリザベータは馬から降り、礼をする。
「無事で何よりだ」
国王は娘を見た。
「辺境の施設は、どうだった」
「規定が全てありました」
「そうか」
「……王位継承規定も」
国王は少し黙った。
「読んだか」
「はい」
「重かったか」
エリザベータは父を見た。
「はい」
国王は頷いた。
「それでいい」
それだけ言って、国王は踵を返した。
エリザベータはその背中を見送った。
父もかつて、どこかで同じものを読んだのだろう。同じ重さを感じたのだろう。
そして、王になった。
中庭に風が吹いた。
北の空は、今日は晴れていた。
付録:様式第911号「王族緊急避難規定」(抜粋)
第1条:首都に対する重大な脅威が発生した場合、国王は緊急避難を発令できる
第2条:緊急避難の対象は、国王を除く全王族とする
第3条:携行品は最小限とし、直ちに避難する
第5条:護衛騎手は、平時より王族に最も近侍する者とする
第8条:避難先は「辺境教会保管施設」とする
第10条:辺境教会保管施設の所在は、平時は秘匿する
第12条:緊急避難時、宮殿文庫の「正式文書」指定を解除し、避難先施設を「王国正式規程文書保管庫」に指定する
第18条:避難解除は、脅威排除後二十四時間経過後、かつ国王の命令による




