王女、遅刻する
一旦ここで打ち止めです。
ネタはあるのですが、方向性に悩んでます。
そのうち再開します。
第一章 前夜
午後11時。
エリザベータ・ルイーゼは、執務室で規定集を読んでいた。
これまで一度も遅刻したことがない王女。
明日は、重要な会議がある。
午前9時、王族政策研究会の特別会合。模倣国の使節団も参加する。
「あと、この章だけ読めば……」
『王室外交儀典規定』第五章。明日の会議に必要な知識。
第87条:外国使節団との会議における席次は……
マリアンネが紅茶を持ってきた。
「殿下、もうお休みになったほうが」
「あと少しです」
「明日は早いのですよ」
「わかっています。だからこそ、今夜中に読んでおかないと」
エリザベータは時計を見た。
「あと1時間で読み終わります。それから寝れば、6時間は眠れます」
「十分ですか?」
「十分です」
午前1時。
「……終わりました」
エリザベータは規定集を閉じた。
予定より遅くなった。
「4時間睡眠ですね」
「殿下、大丈夫ですか」
「問題ありません。以前も4時間睡眠で乗り切ったことがあります」
エリザベータは手帳を確認した。
明日の予定:
午前6時:起床
午前7時:朝食、身支度
午前8時30分:会議資料の最終確認
午前9時:王族政策研究会特別会合
「完璧です」
「でしたら、早くお休みください」
「はい」
エリザベータは寝室に向かった。
しかし、頭が冴えていた。
規定の内容が、頭の中をぐるぐる回る。
「……眠れません」
時計を見る。午前1時30分。
「眠らないと」
しかし、眠れない。
気づくと、午前3時だった。
「殿下! 殿下!」
マリアンネの慌てた声。
エリザベータは目を覚ました。
「……何時ですか」
「午前8時です!」
「8時!?」
エリザベータは跳び起きた。
「なぜ、起こしてくれなかったのですか!」
「起こしました! 何度も! でも、殿下が起きなかったんです!」
エリザベータは頭を抱えた。
会議は午前9時。
あと1時間。
「身支度に30分、移動に10分、資料確認に……」
計算が合わない。
「間に合いません」
「殿下、どうされますか」
エリザベータは決断した。
「急ぎます」
エリザベータは、信じられないほど慌てていた。
これまでの人生で、最も慌てていた。
「服、服、服!」
「殿下、こちらです」
マリアンネが準備した服を着る。
普段なら15分かける身支度を、5分で済ませる。
髪は簡単にまとめただけ。
化粧はほとんどなし。
「資料は!?」
「こちらに」
エリザベータは資料を鞄に詰め込んだ。
時計を見る。午前8時20分。
「まだ、間に合うかもしれません」
彼女は部屋を飛び出した。
エリザベータは、廊下を走った。
王族が、宮殿内を走る。
前代未聞の光景。
「失礼します!」
侍従たちが驚いた顔で道を開ける。
「王女殿下!?」
エリザベータは答えずに走り続けた。
階段を駆け下りる。
「殿下、危ないです!」
マリアンネが後ろから叫ぶ。
しかし、止まれない。
会議室まで、あと100メートル。
時計を見る。午前8時55分。
「間に合う!」
しかし、その時。
エリザベータの足が、絨毯の端に引っかかった。
「!?」
バランスを崩す。
転びそうになる。
「殿下!」
マリアンネが支えようとした。
しかし、間に合わない。
エリザベータは、床に手をついた。
資料が、散らばる。
「……」
時計を見る。午前8時57分。
会議室まで、あと50メートル。
「まだ、間に合います」
エリザベータは、資料を拾い集めた。
順番はバラバラ。
しかし、拾うしかない。
午前9時2分。
エリザベータは、会議室のドアの前に立った。
息が切れている。
髪は乱れている。
資料は散らばっている。
「……遅刻しました」
エリザベータ・ルイーゼは、生まれて初めて、約束の時間に遅れた。
深呼吸する。
そして、ドアをノックした。
「失礼します」
ドアを開けると、全員がエリザベータを見た。
第一王子ヴィルヘルム、第二王子カール、第三王子アルブレヒト。
そして、模倣国の使節団。
沈黙。
エリザベータは、頭を下げた。
「遅刻して、申し訳ございません」
会議室の空気が、凍りついた。
ヴィルヘルムが驚愕の表情で言った。
「エリザベータ……お前が、遅刻?」
カールも信じられない顔をしている。
「姉上が?」
アルブレヒトは口を開けたまま固まっている。
模倣国の使節団長が、困惑した様子で言った。
「王女殿下、体調でも悪いのですか」
「いえ」
エリザベータは正直に答えた。
「寝坊しました」
「寝坊……」
使節団長は言葉を失った。
ヴィルヘルムが咳払いをした。
「まあ、2分の遅刻だ。問題ない。座ってくれ」
エリザベータは席に着いた。
しかし、全員の視線が痛い。
会議が始まった。
しかし、エリザベータは集中できなかった。
睡眠不足で頭が働かない。
資料は順番がバラバラ。
そして、何より、遅刻したという事実が重い。
「王女殿下、第87条についてご意見は?」
使節団長が尋ねた。
エリザベータは、資料を探した。
第87条……どこだっけ?
資料がバラバラで、見つからない。
「少々、お待ちください」
必死で探す。
ああ、あった。
「第87条では、席次は爵位を優先すると……」
「それは第86条ではないですか?」
使節団長が指摘した。
エリザベータは確認した。
「……失礼しました。第87条は、外交官の序列ですね」
普段なら、絶対にしない間違い。
ヴィルヘルムが心配そうに見ている。
会議の途中、エリザベータは気づいた。
「……資料の5ページ目がありません」
散らばった時に、拾い忘れたのか。
それとも、最初から抜けていたのか。
「殿下?」
カールが尋ねた。
「いえ、何でもありません」
エリザベータは、記憶を頼りに会議を続けた。
しかし、睡眠不足の頭では、記憶も曖昧。
「規定によれば……えっと……」
言葉が出てこない。
「第……何条でしたっけ」
沈黙。
エリザベータは、生まれて初めて、会議中に言葉に詰まった。
アルブレヒトが助け舟を出した。
「第92条ですね、姉上」
「ああ、そうです。ありがとうございます」
会議が休憩に入った。
エリザベータは、一人廊下に出た。
壁に背中を預ける。
「最悪です」
遅刻した。
資料を間違えた。
条文番号を忘れた。
すべて、前代未聞。
マリアンネが心配そうに近づいてきた。
「殿下、大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
エリザベータは正直に答えた。
「私は、今日、王女として最低の失態を演じています」
「殿下、誰にでも失敗は」
「私には、これまでありませんでした」
エリザベータは天を仰いだ。
「なぜ、今日に限って」
ヴィルヘルムが廊下に出てきた。
「エリザベータ、少しいいか」
「はい」
二人は、窓際に移動した。
「お前らしくないな」
「……はい」
「何があった?」
エリザベータは説明した。
昨夜遅くまで規定を読んでいたこと。
眠れなかったこと。
寝坊したこと。
ヴィルヘルムは聞いていた。
「つまり、完璧を求めすぎたんだな」
「……はい」
「エリザベータ、お前は真面目すぎる」
「真面目であることは、王族として当然です」
「しかし、完璧である必要はない」
ヴィルヘルムは続けた。
「今日のお前は、確かに失敗した。しかし、それで誰かが困ったか?」
「……いえ」
「2分の遅刻で、会議が中止になったか?」
「いえ」
「資料を間違えたが、アルブレヒトがフォローした」
「はい」
ヴィルヘルムは微笑んだ。
「つまり、大した問題ではない」
会議が再開された。
しかし、エリザベータは変わっていた。
「すみません、もう一度確認させてください」
わからないことは、素直に聞いた。
「この資料、順番が入れ替わっているので、少々お待ちください」
失敗を隠さず、認めた。
「睡眠不足で、頭が回りません。申し訳ありません」
弱みを見せた。
すると、不思議なことが起きた。
会議の雰囲気が、和らいだ。
使節団長が笑った。
「王女殿下も、人間なのですね」
「はい、人間です」
エリザベータは、初めて会議中に自分の失敗を笑った。
午後5時、会議が終了した。
使節団長が言った。
「王女殿下、本日はお疲れ様でした」
「こちらこそ、お見苦しいところをお見せしました」
「いいえ」
使節団長は微笑んだ。
「むしろ、親近感が湧きました」
「親近感?」
「はい。これまで、王女殿下は完璧すぎて、近寄りがたかった。しかし、今日は人間らしかった」
エリザベータは驚いた。
「それは……褒め言葉でしょうか」
「最高の褒め言葉です」
その夜、エリザベータは執務室で反省していた。
手帳を開く。
本日の失敗:
寝坊(2分遅刻)
資料散乱
条文番号間違い
番号失念
睡眠不足による集中力低下
「5つも失敗しました」
しかし、不思議と落ち込んでいなかった。
本日の発見:
完璧でなくても、会議は成立する
失敗を認めると、雰囲気が和らぐ
人間らしさは、時に親近感を生む
兄弟や同僚がフォローしてくれる
遅刻しても、世界は終わらない
エリザベータは微笑んだ。
「初めての遅刻、悪くなかったかもしれません」
マリアンネが紅茶を持ってきた。
「殿下、今日は大変でしたね」
「はい」
「でも、殿下らしくない一日でした」
「そうですね」
エリザベータは紅茶を飲んだ。
「マリアンネ、正直に聞きます」
「はい」
「私は、これまで完璧すぎましたか」
マリアンネは少し考えた。
「はい」
「やはり」
「でも、それが殿下の良さでもありました」
「しかし?」
「しかし、時々、人間らしさがあってもいいと思います」
エリザベータは頷いた。
「今日、学びました」
翌朝、午前6時。
エリザベータは、いつも通り起きた。
「今日は、遅刻しません」
午前9時、侍従長との定例会議。
エリザベータは、5分前に到着した。
侍従長フリードリヒが驚いた。
「殿下、昨日は遅刻されたと聞きましたが」
「はい。寝坊しました」
「それは……珍しい」
「はい。しかし、今日は大丈夫です」
会議は、いつも通り5分で終了した。
完璧だった。
しかし、エリザベータは思った。
「完璧でなくても、良かったんですね」
その夜の研究会。
エリザベータは、兄弟たちに言った。
「昨日は、お見苦しいところをお見せしました」
カールが笑った。
「姉上の遅刻、歴史的瞬間でしたね」
「笑わないでください」
「でも、良かったですよ」
アルブレヒトが言った。
「姉上が、完璧でなくてもいいとわかりました」
「完璧でなくてもいい?」
「はい。私たちも、完璧である必要がないと、安心しました」
ヴィルヘルムが続けた。
「お前が完璧すぎたから、私たちはプレッシャーを感じていた」
「そうだったんですか」
「ああ。しかし、昨日のお前を見て、安心した」
エリザベータは微笑んだ。
「では、時々遅刻してもいいですか」
「いや、それは困る」
四人は笑った。
数日後、エリザベータは冗談半分で提案した。
「『王族遅刻許容規定』を作りましょうか」
「本気ですか?」カールが聞いた。
「冗談です」
しかし、エリザベータは続けた。
「でも、『王族も人間である』という前提を、どこかに明記してもいいかもしれません」
ヴィルヘルムが考えた。
「確かに……規定は、王族が完璧であることを前提にしている」
「はい。しかし、人間は完璧ではありません」
エリザベータは草案を書き始めた。
王族行動基本原則(草案):
第1条:王族は、人間である
第2条:人間は、時に失敗する
第3条:失敗を認め、改善することが重要である
アルブレヒトが言った。
「第1条、『王族は、人間である』って、当たり前すぎませんか」
「しかし、明記されていません」
エリザベータは真剣だった。
「当たり前のことこそ、明記すべきです」
一ヶ月後。
エリザベータは、また別の会議で遅刻しそうになった。
しかし、今回は違った。
「間に合わないかもしれません」
彼女は、事前に連絡した。
「5分遅れます。申し訳ありません」
そして、慌てずに会議室に向かった。
走らなかった。
資料を落とさなかった。
5分遅れで到着した。
「お待たせしました」
ヴィルヘルムが言った。
「大丈夫だ。始めよう」
誰も責めなかった。
エリザベータは、学んでいた。
「遅刻は避けるべきだが、起きてしまったら認めて、対処する」
その夜、エリザベータは日記を書いた。
一ヶ月前、私は初めて遅刻した。
それは、私にとって衝撃的な出来事だった。
これまで、一度も遅刻したことがなかった。完璧を保っていた。
しかし、その完璧さは、他者を遠ざけていた。
遅刻して、失敗して、人間らしさを見せた時、人々は親近感を持ってくれた。
完璧である必要はない。
失敗しても、認めて、改善すればいい。
それが、人間だ。
そして、王族も人間だ。
エリザベータは日記を閉じた。
「明日は、遅刻しないように気をつけます」
「でも、もし遅刻しても、世界は終わりません」
終わり
エピローグ:一年後
彼女の「完璧主義」は、少し和らいでいた。
遅刻は、年に2、3回ある。
資料を間違えることも、たまにある。
しかし、誰も驚かなくなった。
ある日、模倣国の使節団長が再訪した。
「王女殿下、今日は遅刻されませんか?」
冗談めかして言った。
エリザベータは微笑んだ。
「今日は大丈夫です。でも、保証はできません」
「それでいいのです」
使節団長は言った。
「完璧な王女より、人間らしい王女の方が、信頼できます」
エリザベータは、その言葉を噛み締めた。
「ありがとうございます」
そして、心の中で付け加えた。
「でも、できれば遅刻は避けたいです」




