軍の忠誠
午前10時。
エリザベータ・ルイーゼは、珍しい招待状を受け取った。
これまで軍事にはほとんど関わってこなかった王女。
「軍事演習の視察、ですか」
マリアンネが説明した。
「はい。国防軍が、王族に年に一度の演習を公開しています」
「なぜ、私に?」
「第一王子殿下から第三王子殿下まで、すでに参加されています」
エリザベータは招待状を見た。
国防軍秋季演習 王族視察のご案内
日時:二週間後
場所:北部演習場
目的:国防軍の現状を王族にご理解いただくため
「……行くべきでしょうか」
「王族の義務です」
エリザベータは考えた。
「軍事は、私の専門ではありません」
「でも、国防軍は国家の重要な組織です」
「わかりました。参加します」
しかし、エリザベータは一つの疑問を持った。
「軍は、誰に忠誠を誓っているのでしょうか」
エリザベータは、いつものように規定を調べた。
『国防法』
『軍組織規則』
『軍人服務規程』
すべてを読んだ。
そして、重要な条文を見つけた。
国防法第3条:国防軍は、国家に対して忠誠を誓う
軍人服務規程第1条:軍人は、国家への奉仕を第一とする
「国家への忠誠……」
エリザベータは、手帳にメモした。
しかし、別の条文もあった。
軍組織規則第7条:国防軍の最高指揮権は、国王が有する
「国王が最高指揮権……」
つまり、軍は国家に忠誠を誓いつつ、国王の指揮下にある。
「これは……どういう関係なんでしょう」
エリザベータは、もっと調べた。
歴史的経緯。
本家国の軍は、200年前に整備された。
当時の国王が、「軍は国王の私兵ではなく、国家の軍である」と宣言した。
それ以来、軍は「国家への忠誠」を第一としている。
「本家国らしいですね」
個人ではなく、制度への忠誠。
二週間後。
エリザベータは、北部演習場に到着した。
広大な土地に、兵士たちが整列している。
「王女殿下、ようこそ」
国防軍総司令官、ヴォルフガング・フォン・シュタインが出迎えた。
60歳。厳格な軍人。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「こちらへどうぞ」
エリザベータは、視察台に案内された。
既に、ヴィルヘルム、カール、アルブレヒトがいた。
「姉上、来たんですね」
カールが驚いた。
「はい」
「姉上が軍事演習に来るなんて、珍しいですね」
「学ぶべきことがあると思いました」
演習が始まった。
歩兵部隊の機動演習。
砲兵部隊の射撃訓練。
騎兵部隊の突撃訓練。
すべて、規律正しく行われた。
エリザベータは、じっと観察していた。
演習の休憩時間。
エリザベータは、ヴォルフガング総司令官に質問した。
「総司令官、質問があります」
「どうぞ」
「国防軍は、誰に忠誠を誓っているのですか」
ヴォルフガングは、少し驚いた顔をした。
「国家に対してです」
「国王ではなく?」
「はい。国防法第3条により、我々は国家に忠誠を誓います」
「しかし、最高指揮権は国王が持っています」
「その通りです」
ヴォルフガングは説明した。
「我々は国家に忠誠を誓い、国王の指揮に従います」
「それは……矛盾しませんか」
「いいえ」
ヴォルフガングは続けた。
「国王は、国家を代表されます。国王の指揮に従うことは、国家への忠誠と矛盾しません」
エリザベータは考えた。
「では、もし国王の命令が、国家の利益に反する場合は?」
ヴォルフガングは真剣な顔をした。
「それは……難しい質問です」
その夜、宿営地で。
ヴォルフガング総司令官は、エリザベータを食堂に招いた。
「王女殿下、昼間の質問について、もう少しお話ししたいことがあります」
「はい」
「150年前、本家国には軍事クーデターの危機がありました」
「クーデター、ですか」
「はい。当時の国王が、隣国への侵略を命じました」
ヴォルフガングは続けた。
「しかし、軍の将軍たちは、それが国家の利益に反すると判断しました」
「それで?」
「将軍たちは、命令を拒否しました」
エリザベータは驚いた。
「国王の命令を?」
「はい。そして、国王に退位を求めました」
「それは……反乱では」
「いいえ。将軍たちは、『我々は国家に忠誠を誓っている。国王個人ではない』と主張しました」
ヴォルフガングは言った。
「結果として、国王は退位し、現在の王家が即位しました」
「……そうだったんですか」
「はい。それ以来、本家国の軍は『国家への忠誠』を最優先としています」
エリザベータは、その歴史を知らなかった。
「つまり、軍は国王よりも国家を優先するんですね」
「極端な場合には、そうです」
翌日の演習。
エリザベータは、兵士たちを観察していた。
規律正しい動き。
命令への即座の服従。
しかし、彼らは何に従っているのか。
演習後、エリザベータは一人の若い士官に話しかけた。
「あなたは、誰に忠誠を誓っていますか」
士官は驚いた。
「王女殿下が、私に?」
「はい。率直に答えてください」
士官は考えた。
「国家に忠誠を誓っています」
「国王や王族には?」
「国王陛下は、国家を代表されます。ですから、国王陛下への忠誠は、国家への忠誠です」
「では、王族は?」
士官は少し困った。
「王族の方々は……尊敬しています。しかし、忠誠は国家に対してです」
エリザベータは頷いた。
「ありがとうございます」
その夜、四人の王族は議論した。
「姉上、軍のことを色々聞いていたそうですね」
ヴィルヘルムが言った。
「はい」
「何を知りたかったのですか」
「軍と王族の関係です」
エリザベータは説明した。
「軍は、国家に忠誠を誓っています。王族個人ではありません」
「その通りです」
ヴィルヘルムが確認した。
「でも、それは良いことだと思います」
「なぜですか」
「軍が王族個人に忠誠を誓えば、私兵化します」
カールが続けた。
「本家国の軍が、国家に忠誠を誓うことは、正しいと思います」
アルブレヒトも頷いた。
「僕たち王族は、国家の一部です。しかし、国家そのものではありません」
エリザベータは、兄弟たちの言葉を聞いて理解した。
「つまり、王族は国家に奉仕する存在であって、国家を所有する存在ではない」
「その通りです」
一週間後、エリザベータは軍政国の資料を読んだ。
軍政国では、軍が国家を支配している。
軍のトップが、事実上の国家元首。
「これは……本家国とは真逆ですね」
本家国では、軍は国家に従う。
軍政国では、国家が軍に従う。
エリザベータは、ヴォルフガング総司令官に質問した。
「総司令官、軍政国のような体制について、どう思われますか」
「危険です」
ヴォルフガングは即座に答えた。
「軍が国家を支配すれば、文民統制が失われます」
「文民統制?」
「はい。軍は、文民(非軍人)の政府に従うべきです」
ヴォルフガングは続けた。
「本家国では、国王が最高指揮権を持ちますが、国王は軍人ではありません」
「はい」
「これが、文民統制です」
エリザベータは理解した。
「軍は強力ですが、政治に関与してはいけない」
「その通りです」
しかし、エリザベータは疑問を持った。
「総司令官、もし軍がクーデターを起こしたら?」
ヴォルフガングは真剣な顔をした。
「それは、あってはならないことです」
「しかし、可能性としては」
「理論上は、可能です」
ヴォルフガングは認めた。
「軍は武力を持っています。その気になれば、政府を転覆できます」
「では、なぜしないのですか」
「我々は、国家に忠誠を誓っているからです」
ヴォルフガングは続けた。
「クーデターは、国家を不安定にします。それは、我々の忠誠に反します」
「忠誠だけで、抑止できますか」
「いいえ」
ヴォルフガングは正直に答えた。
「制度も必要です」
「制度、ですか」
「はい。例えば、軍の昇進は文民政府が決定します。予算も、議会が承認します」
「つまり、軍は独立していない」
「その通りです。我々は、国家の一部です」
エリザベータは、さらに考えた。
「では、王族は軍にとって何なのでしょう」
ある日、彼女は兵営を訪れた。
兵士たちと話をした。
「王族の方々がいると、士気が上がります」
ある兵士が言った。
「なぜですか」
「王族の方々は、国家の象徴です」
「象徴……」
「はい。王族の方々を守ることは、国家を守ることです」
別の兵士が続けた。
「でも、王族の方々の命令に従うわけではありません」
「では、何のために王族を尊重するのですか」
「国家への忠誠の象徴だからです」
エリザベータは理解した。
王族は、命令する存在ではない。
象徴する存在。
国家を、体現する存在。
ある日、ヴォルフガング総司令官がエリザベータに尋ねた。
「王女殿下、もし国王陛下が不在で、緊急事態が発生したらどうしますか」
「それは……」
エリザベータは考えた。
「規定を確認します」
「はい、その通りです」
ヴォルフガングは資料を見せた。
「国防法第45条。国王不在時、第一王子が暫定的に最高指揮権を代行します」
「ヴィルヘルムですね」
「はい。しかし、もし第一王子も不在なら?」
「第二王子、そして第三王子」
「その通りです。そして、もし三人の王子全員が不在なら?」
エリザベータは規定を確認した。
「……第一王女、つまり私、ですか」
「はい」
エリザベータは驚いた。
「私には、軍事の知識がありません」
「しかし、規定ではそうなっています」
ヴォルフガングは続けた。
「ですから、王女殿下にも軍事を学んでいただきたいのです」
それから、エリザベータは月に一度、軍事演習に参加するようになった。
しかし、彼女のアプローチは独特だった。
「総司令官、『軍事作戦規程』を見せてください」
「規程、ですか」
「はい。規定を理解することが、第一歩です」
エリザベータは、軍事規定を読み始めた。
『軍事作戦規程』
『部隊運用基準』
『指揮命令系統規則』
すべて、几帳長に読んだ。
そして、質問した。
「第23条と第35条、矛盾していませんか」
ヴォルフガングは確認した。
「……確かに。これは気づきませんでした」
エリザベータの規定への理解は、軍事分野でも役立った。
最初、兵士たちは戸惑った。
「規定を読む王女様?」
「軍事演習で、条文の矛盾を指摘する?」
しかし、やがて理解した。
「王女殿下は、本気で学ばれている」
「規定を通じて、軍を理解しようとされている」
兵士たちは、エリザベータを尊敬し始めた。
「あの方は、本家国らしい」
「制度を重んじ、規定に従う」
「我々と同じだ」
エリザベータと軍の関係は、独特なものになった。
命令ではなく、規定を通じた理解。
半年後の演習で、事件が起きた。
演習中、想定外の事態が発生した。
一部の部隊が、命令を受け取れなかった。
現場の士官が、独自の判断で行動した。
演習後、その士官は叱責されるかと思った。
しかし、ヴォルフガングは言った。
「お前の判断は正しかった」
「しかし、命令違反では」
「いや、お前は規定に従った」
ヴォルフガングは規定を示した。
「『指揮命令系統規則』第18条。命令が届かない場合、現場の指揮官は状況に応じて適切に判断する」
「はい」
「お前は、規定通りに行動した」
エリザベータは、それを見ていた。
「素晴らしいですね」
「何がですか、王女殿下」
「軍も、規定に基づいて判断するんですね」
「当然です」
ヴォルフガングは言った。
「我々は、個人の意思ではなく、規定に従います」
一年後。
エリザベータは、軍から信頼されるようになった。
「王女殿下は、規定を理解されている」
「我々と同じ言語で話される」
「あの方なら、緊急時に指揮を委ねられる」
これは、高い評価だった。
軍にとって、「指揮を委ねられる」とは、最大の信頼の証。
しかし、エリザベータは謙虚だった。
「私は、軍事の専門家ではありません」
ヴォルフガングに言った。
「しかし、規定は理解しています」
「それで十分です」
ヴォルフガングは答えた。
「指揮官に必要なのは、戦術の知識だけではありません」
「では?」
「規定への理解、公正な判断、そして国家への忠誠」
「私に、それがありますか」
「はい」
ヴォルフガングは断言した。
「王女殿下は、我々と同じ価値観を持っておられます」
ある日、国王がエリザベータに言った。
「お前が、軍と良い関係を築いていると聞いた」
「はい」
「どうやったんだ」
エリザベータは考えた。
「規定を学びました」
「規定、か」
「はい。軍は規定に従います。ですから、規定を理解すれば、軍も理解できます」
国王は微笑んだ。
「お前らしいな」
「ありがとうございます」
「しかし、エリザベータ」
「はい」
「軍との関係で、最も大切なことは何だと思う」
エリザベータは答えた。
「距離です」
「距離?」
「はい。軍に近づきすぎてはいけません。しかし、遠すぎてもいけません」
「なぜだ」
「近づきすぎれば、軍が政治化します。遠すぎれば、文民統制が失われます」
国王は深く頷いた。
「良い答えだ」
ある時、模倣国から軍事視察団が来た。
エリザベータも、案内役として参加した。
模倣国の将軍が尋ねた。
「本家国では、軍は王族に忠誠を誓わないのですか」
「はい。国家に忠誠を誓います」
「それでは、クーデターの危険は?」
「規定と制度で防いでいます」
エリザベータは説明した。
「軍は独立していません。予算、人事、すべて文民政府が管理します」
「しかし、それでは軍が弱くなりませんか」
「いいえ」
ヴォルフガングが答えた。
「我々は国家に忠誠を誓うからこそ、強い」
「どういう意味ですか」
「個人への忠誠は、その個人が死ねば終わります。しかし、国家への忠誠は、永続します」
模倣国の将軍は、深く考え込んだ。
エリザベータは、軍事規定の改訂に関与していた。
「この条文、矛盾していますね」
「ご指摘の通りです」
ヴォルフガングは認めた。
「王女殿下のおかげで、多くの不備が見つかりました」
エリザベータは微笑んだ。
「規定の矛盾は、混乱を生みます」
「はい。特に軍事では、命に関わります」
「ですから、完璧にしないといけません」
こうして、『軍事作戦規程』は全面改訂された。
エリザベータの貢献により、矛盾のない、明確な規定になった。
エピローグ:
彼女は、軍からの信頼を完全に得ていた。
しかし、それは命令による支配ではなかった。
規定への共通理解による、相互尊重。
ある軍事史家が書いた。
「本家国の軍と王族の関係は、独特である。軍は国家に忠誠を誓い、王族個人には忠誠を誓わない。しかし、エリザベータ王女は、規定への理解を通じて軍の信頼を得た。これは、個人の魅力ではなく、制度への献身による信頼である。」
エリザベータは、その論文を読んで頷いた。
「軍との関係は、個人ではなく、規定を通じて築くべきです」
「それが、本家国らしい関係です」
マリアンネが尋ねた。
「殿下は、軍を指揮したいと思ったことはありますか」
「いいえ」
エリザベータは即座に答えた。
「軍は、国家のものです。私個人のものではありません」
「では、なぜ軍事を学ばれたのですか」
「緊急時に備えて、です」
エリザベータは窓の外を見た。
演習場の方向。
「もし、国王と三人の王子が不在で、緊急事態が起きたら」
「はい」
「私が、暫定的に指揮を執らなければなりません」
「その時のために?」
「はい。規定を理解し、軍を理解し、国家のために正しい判断ができるように」
マリアンネは微笑んだ。
「殿下らしいですね」
「ありがとうございます」
そして、今日もエリザベータは、『軍事作戦規程』を読んでいる。
万が一に備えて。
しかし、その万が一が来ないことを、願いながら。




