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王女エリザベータ、神権国ハイリッヒラントを往く

第一章:五ミリ上の封蝋


神権国ハイリッヒラント。

首都聖堂都市ヘリゲンシュタットに降り立ったエリザベータを、白い法衣を着た若い神官が出迎えた。

「ようこそ、エリザベータ王女殿下。私は外務神官、ルーカス・アルブレヒトと申します」

「よろしくお願いします」

エリザベータが周囲を見回すと、街全体が白い石造りの建物で統一されていた。そして、至る所に祈祷文が刻まれている。

「美しい街ですね」

「ありがとうございます」ルーカスは誇らしげに言った。「我が国では、建築様式も聖典の規定に従っています」

「聖典、ですか」エリザベータの目が輝いた。「つまり、建築にも『様式』がある」

「はい。『聖建築規範』という……」ルーカスは言葉を切った。「あ、いえ、その話は後ほど」

エリザベータは微笑んだ。「つまり、その『聖建築規範』に問題があるんですね」

ルーカスは驚いた顔をした。「……なぜ、そう思われるのですか」

「封蝋が五ミリ上にずれていました。神権国なら、儀礼の正確さは絶対のはず。意図的にずらしたということは、『公式だが、公式儀礼は最小限でよい』というメッセージ」エリザベータはノートを取り出した。「つまり、相談したいことがある」

ルーカスは観念したように頷いた。「……大司教猊下が、お待ちです」



第二章:聖なる矛盾


大聖堂の奥、大司教の執務室。

七十歳を超える威厳ある老人が、エリザベータを迎えた。

「ようこそ、エリザベータ王女。私が大司教、ヨハネス・フォン・リヒテンシュタインです」

「お招きいただき、ありがとうございます」

大司教は単刀直入に言った。「王女よ、貴女は様式の専門家だと聞いている」

「専門家というほどでは」

「謙遜は不要です」大司教は古い巻物を広げた。「我が国には、二つの聖典があります。『古聖典』と『新聖典』です」

エリザベータは身を乗り出した。

「古聖典は三百年前に編纂されました。新聖典は百年前です。どちらも神の言葉として尊重されています」

「つまり、両方が有効」

「その通りです。しかし……」大司教は溜息をついた。「二つの聖典が、同じ事柄について、異なる規定をしている箇所があるのです」

「何箇所ですか」

「現在確認されているだけで、四十七箇所」

エリザベータは目を輝かせた。「面白そうですね」

大司教は苦笑した。「本家国の『制度フェチ王女』の噂は本当だったようだ」


ルーカスが具体例を説明した。

「例えば、『聖建築規範』です。古聖典では『祈祷所の入口は東向き』、新聖典では『祈祷所の入口は太陽が昇る方向』と規定されています」

「東と、太陽が昇る方向……」エリザベータは考えた。「ほぼ同じですが、完全には同じではない」

「その通りです。季節によって太陽の昇る位置は変わります。春分と冬至では、二十度以上ずれる」

「それで、建築家が困っている」

「はい。古聖典派は『真東に向けるべきだ』と主張し、新聖典派は『季節ごとに向きを変えるべきだ』と主張する」

エリザベータは首を傾げた。「季節ごとに建物の向きを変える……?」

「いえ、新聖典派の解釈では『建設する日の太陽の方向に合わせる』となっています」

「つまり、夏至の日に建てれば北東寄り、冬至の日に建てれば南東寄りになる」

「そうです。結果、同じ『祈祷所』なのに、建設時期によって向きがバラバラになっています」

エリザベータはノートに書き込んだ。「他には?」



第三章:祈祷の時刻


「祈祷の時刻も問題です」別の神官、エーリヒが説明した。

「古聖典では『日の出とともに朝の祈り』、新聖典では『鐘が鳴ったら朝の祈り』と規定されています」

「鐘は、いつ鳴るんですか」

「日の出の三十分後です」

「つまり、三十分のずれがある」

「はい。古聖典派の神官は日の出とともに祈り、新聖典派の神官は鐘が鳴ってから祈ります。同じ大聖堂の中で、二回朝の祈りが行われることになります」

「非効率ですね」

「その通りです。しかし、どちらも『聖典に書いてある』ので、廃止できません」

エリザベータは考え込んだ。「古聖典と新聖典、どちらが優先されるという規定はないんですか」

「ありません」大司教が答えた。「どちらも神の言葉として等しく尊重されています」

「では、解釈の優先順位を定める『上位規範』のようなものは」

「ありません。それを作ることは、『神の言葉に順位をつける』ことになり、冒涜とされています」

「……なるほど」エリザベータは微笑んだ。「つまり、神学的に解決不可能な問題を、様式で解決してほしい、と」

大司教は驚いた。「……その通りです。よく理解されましたね」

「本家国でも、似たような問題がありました」エリザベータは説明した。「王室様式と政府様式、どちらが優先かを決められない場合、『統合様式』を作ります」

「統合、ですか」

「はい。両方の規定を同時に満たす、第三の様式です」



第四章:聖典統合様式


三日後、エリザベータは大聖堂の文書館に篭っていた。

「殿下、お食事を」侍女マリアンネが差し入れを持ってきた。

「ありがとうございます」エリザベータは古聖典と新聖典を並べて読んでいた。「面白い発見がありました」

「……また始まりましたね」

「古聖典と新聖典、矛盾しているように見えて、実は補完関係にあります」

「補完?」

「例えば、祈祷所の向き。古聖典は『東向き』、新聖典は『太陽が昇る方向』。一見矛盾していますが、よく読むと……」エリザベータは該当箇所を指差した。「古聖典は『恒久的建造物』について、新聖典は『仮設祈祷所』について規定しています」

「仮設、ですか」

「はい。新聖典が書かれた時代、ハイリッヒラントは他国との戦争中でした。野営地に仮設の祈祷所を作る必要があった。その時、『建設する日の太陽の方向』なら、測量器具がなくても向きを決められます」

マリアンネは目を見開いた。「つまり、恒久的な建物は東向き、仮設の建物はその日の太陽向き、と使い分ければよい」

「その通りです。矛盾ではなく、使用場面の違いです」


一週間後、エリザベータは大司教と神官たちの前で発表した。

「聖典統合規範、第一条をご覧ください」

配布された資料には、古聖典と新聖典の該当箇所が並べて書かれ、その下に新しい条文があった。

聖典統合規範 第一条(祈祷所の向き)

恒久的祈祷所:真東向きとする(古聖典第三章第十二節に基づく)

仮設祈祷所:建設日の日の出方向とする(新聖典第五章第七節に基づく)

判断基準:建設後一年以上使用する場合は恒久的、一年未満は仮設とする

「一年、という基準は?」神官の一人が質問した。

「新聖典第五章第八節に『仮設祈祷所は一年を超えて使用してはならない』とあります」エリザベータは該当箇所を示した。「つまり、新聖典自身が『一年』を境界としています」

大司教が頷いた。「見事だ。両方の聖典を尊重しながら、明確な基準を作った」

「次に、祈祷の時刻です」エリザベータは次のページを開いた。

聖典統合規範 第二条(朝の祈り)

第一の祈り:日の出とともに(古聖典第一章第五節)

対象:神官、修道士など聖職者

第二の祈り:鐘が鳴った後(新聖典第二章第三節)

対象:一般信徒

「これは……」ルーカスが驚いた。「二つの祈りを、対象者で分けるのですか」

「はい。古聖典の時代、祈りは聖職者の義務でした。新聖典の時代、一般信徒も祈るようになった。だから、新聖典は『鐘が鳴ってから』という、一般の人にも分かりやすい基準を設けたのです」

「つまり、聖職者は日の出とともに祈り、一般信徒は鐘が鳴ってから祈る」

「そうすれば、祈りは二回行われますが、どちらも意味があります」エリザベータは微笑んだ。「矛盾ではなく、段階的な祈りの構造です」

会議室が静まり返った。



第五章:原理主義者の反発


しかし、全員が賛成したわけではなかった。

古聖典派の長老、マティアス神父が立ち上がった。

「大司教猊下、異議があります。この『統合規範』は、聖典の解釈を勝手に変えるものです」

「どの部分が問題ですか」エリザベータは尋ねた。

「古聖典には『恒久的』などという言葉はありません。ただ『祈祷所は東向き』とあるだけです」

「では、マティアス神父」エリザベータは古聖典を開いた。「古聖典第三章第十三節をご覧ください。『石を積み、東に向けよ』とあります」

「その通りです」

「『石を積み』という表現は、恒久的な建造物を指すのではないですか」エリザベータは新聖典も開いた。「一方、新聖典第五章第七節は『布を張り、陽に向けよ』とあります。『布を張る』は仮設の構造を指します」

マティアス神父が言葉に詰まった。

「つまり、古聖典と新聖典は、最初から異なる建造物について語っていたのです」エリザベータは静かに言った。「統合規範は、聖典を変えていません。聖典が元々持っていた意味を、明確にしただけです」

大司教が頷いた。「エリザベータ王女の解釈は、神学的にも正しい」



第六章:試験運用


「しかし、理論だけでは不十分です」新聖典派の若い神官、テオドールが言った。「実際に試してみるべきでは」

「同意します」エリザベータは頷いた。「では、一つの地区で試験運用しましょう」

「どの地区が適切か」大司教が問うた。

ルーカスが手を挙げた。「南部のアルトドルフ地区はいかがでしょう。古聖典派と新聖典派の信徒が半々で、よく対立しています」

「対立、ですか」

「はい。祈祷所の建て替えを巡って、五年間決着がついていません」

エリザベータの目が輝いた。「完璧な試験場所ですね」


二週間後、アルトドルフ。

エリザベータは、ルーカスと共に、対立する二つのグループの間に立っていた。

「古聖典には東向きと書いてある!」古聖典派の代表が叫んだ。

「新聖典には太陽の方向と書いてある!」新聖典派の代表が反論した。

エリザベータは静かに割って入った。

「お二人とも、正しいです」

両者が黙った。

「この祈祷所は、何年使う予定ですか」

「……五十年は使いたい」古聖典派の代表が答えた。

「では、恒久的建造物です」エリザベータは統合規範を示した。「恒久的祈祷所は、真東向きに建てます。古聖典第三章第十二節の通りです」

古聖典派の人々が頷いた。

「しかし」エリザベータは続けた。「建設中、作業員のための仮設祈祷所が必要ですね」

「……まあ、そうですが」

「仮設祈祷所は、建設開始日の日の出方向に向けます。新聖典第五章第七節の通りです」

新聖典派の人々も頷いた。

「つまり、本体は東向き、仮設は太陽向き。両方の聖典が守られます」

両グループが顔を見合わせた。

「……それなら、納得できる」古聖典派の代表が言った。

「我々も異存はない」新聖典派の代表が頷いた。



第七章:波及効果


三ヶ月後、統合規範は全国に展開されていた。

エリザベータは帰国の準備をしていた。

「殿下」ルーカスが訪ねてきた。「信じられないことが起きています」

「何ですか」

「古聖典派と新聖典派の神学者たちが、協力して統合規範の研究を始めました」ルーカスは興奮した様子だった。「三百年間対立していた二つの派閥が、初めて一緒に仕事をしています」

「当然です」エリザベータは微笑んだ。「統合規範は、両方の聖典を読まないと作れませんから」

「そして、彼らは新しい発見をしました」ルーカスは資料を広げた。「残りの四十六箇所の矛盾も、実は矛盾ではなく『適用場面の違い』だったのです」

「良かったですね」

「殿下のおかげです」ルーカスは深々と頭を下げた。「殿下は、我が国の三百年の対立を終わらせてくださった」

「私は何もしていません」エリザベータは首を振った。「ただ、両方の聖典をちゃんと読んだだけです」



第八章:別れ


大司教が見送りに来ていた。

「エリザベータ王女、神の祝福がありますように」

「ありがとうございます」エリザベータは微笑んだ。「統合規範が定着したら、報告書を送ってください。本家国でも参考にしたいと思います」

「本家国にも、似たような問題が?」

「はい。『古い規定』と『新しい規定』の不整合が、少なくとも十七箇所あります」

大司教は笑った。「では、お互い学び合いましょう」

「ええ。様式は、国境を越えますから」


馬車の中で、マリアンネが呟いた。

「殿下、また改革のネタを仕入れてきましたね」

「当然です」エリザベータはノートを開いた。「ハイリッヒラントの『統合規範』の概念は、本家国の古い規定の整理に使えます」

「休まれないのですか」

「休んでいる暇はありません」エリザベータは次の封筒を取り出した。「それに、次の招待状がもう来ています」

「……どちらからですか」

「模倣国ノイラントです」エリザベータは封筒を開いた。「招待状の文面が、本家国の様式第二十四号を『完全にコピー』しています」

「それの何が問題なのですか」

「本家国の様式第二十四号は、五年前に改訂されました。でも、ノイラントは改訂前の版を使っている」エリザベータは微笑んだ。「つまり、『本家国の最新情報を知りたい』というメッセージです」

「……殿下は、行かれるのですね」

「もちろんです」エリザベータは目を輝かせた。「模倣国が、どうやって本家国を模倣しているのか、見てみたいんです」

マリアンネは諦めたように言った。

「お好きなように」



終章:規定集の余白


その夜、宿舎で。

エリザベータは、ハイリッヒラントで購入した聖典統合規範の写しを読んでいた。

余白に、こう書き込んだ。

メモ:異なる時代の規定は、矛盾ではなく適用場面の違いである可能性が高い。

本家国の古い規定を調査する際、この原則を適用すること。

特に、王室様式第○○号と政府様式第△△号の関係を再検討。

そして、次のページをめくった。

次は、模倣国ノイラント。

「面白そうですね」

エリザベータは微笑んで、規定集を閉じた。

明日も、また新しい矛盾が待っている。

それが、何より楽しみだった。

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