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貧乏男爵家の調査官日誌  作者: 林はるる


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伯爵家の蛇


 オリスト伯爵家の令嬢エレナレインは、婚約者のヒスコック侯爵家の長男ロビンと、お茶会をしているときに、同席していた彼の母親キャスリーンから、強烈な一撃をお見舞いされたことがある。


 もちろん一撃と言っても、物理的なものではない。キャスリーンはもっと陰湿だ。

 ロビンが少し席を離れた間に、エレナレインがお茶を一口飲もうと、茶器に手を伸ばした。するとキャスリーンは艶然たる微笑みを浮かべて言ったのだ。


「そんなに油断していていいの? 毒が入っているかもしれないのに」と。


 エレナレインは、心の中でこうつぶやいた。『これがネグル子爵家の毒蛇か』と。


 ネグル子爵家は新興貴族で、事業で成り上がったことで有名だ。巨万の富を築き、今では政治にまで口を出せるほどの力を持っている。金と権力を手に入れた成金が、次に求めるのは名声だ。そうやって子爵家は、娘のキャスリーンをヒスコック侯爵家に嫁がせ、生まれたのがロビンと、弟のハーヴェイだ。


 当然、ネグル子爵家の指示を受けたキャスリーンは、長男のロビンの結婚相手に、侯爵家よりもっと身分の高い相手を求めた。


 それは王族、つまり公爵家だ。


 だがさすがにそれは、いくら根回しをしても無理だった。そしてその調整に手間取っている間に、国内の約三十ある侯爵家の縁談が、まるで全員が協力でもしたかのように、きれいにまとまってしまったのだ。最善の策、次善の策が決まらなかったキャスリーンは、残された条件の中で、良い縁談相手を探そうとした。


 だがこのままでは長男ロビンに、条件の悪い相手しか見つからなかったり、最悪、相手が見つからなかったりする場合も考えて、ヒスコック侯爵と親族会が、エレナレインという婚約者を見つけてきてしまった。


 キャスリーンは猛反対をした。そこまで良い家柄ではないエレナレインでは、条件が悪すぎると感じたのだ。


 別に高嶺の花を狙っているわけでも、無理押ししているわけでもない。ただ商売柄、獲物を手に入れられるのなら、よりよいものを手中に収めたいだけだ。だが確かに貴族という集団の中で、勝ちすぎないように調整するという感覚が、夫のヒスコック侯爵よりも薄いかも知れない。決まったものは仕方がないので、キャスリーンはエレナレインを表面上は受け入れた。


 ネグル子爵家が主導したヒスコック侯爵家ロビンの縁談が、うまくまとまらなかった背景には、子爵家の黒い噂が関係していると、エレナレインは見ている。


 ネグル子爵領は遙か遠くの国境沿いに位置していて、そのあたりは伝統的に紛争が勃発しやすい。つねになにかかしらの争いが起きている。だが同時に戦争がいつものことと見られていて、その状態で安定しているとも言える地域だ。そのため多くの領主が、派兵、武器や補給物資の提供でぼろ儲けをしている。


 そしてそんな非常下だからこそ行える商売に、子爵家が手を染めているという噂が絶えなかった。その噂が本当か嘘かを確かめる術はない。ただ一つ言えるのは、ネグル子爵家にとって都合の悪い人物が、急死することが多いということだけだ。


 社交界で密かに「ネグル子爵家の毒蛇」と囁かれるキャスリーンに、気に入られていないエレナレインは用心して行動するしかない。


 子爵家の暗殺対象にならない手っ取り早い方法は、婚約を解消するか、ヒスコック侯爵家における自分の価値を高めるかだ。積極的に侯爵家に顔を出し仕事し、ロビンを始めとした家人と親しくなっていった。


 キャスリーンにそのことを嫌がられるかと用心したが、案外平気だ。やはり元商家出身だなと思わせられるのは、キャスリーンの合理性だ。彼女の仕事のやり方は効率的で、感心させられることも多かった。そんな風に根を張り上手くこなしていたつもりが、思わぬ所で足をすくわれた。



◇◇◇◇◇◇



 エレナレインには一つ年下の義妹キャンディと、三歳年下の弟セルトルがいる。父親のオリスト伯爵が愛人に入れ込み、生まれたのがキャンディだ。両親に溺愛されていて、我が儘で自分勝手な性格に育っている。


 男ということで、父親に大事にされ、鷹揚に育ったセルトルと違って、キャンディはいつもなにかに飢えていて、隙あらばエレナレインのものを奪おうとする。政略結婚だったオリスト伯爵夫妻は仲が冷え切っていて、ろくに口も聞かないほどだ。母親似のエレナレインも父親から嫌われている。


 そのためロビンと婚約した時に、絶対に問題が起きるだろうと思い、彼と会うのはヒスコック侯爵家だけにするなど気をつけてきた。だがキャンディが十六歳になり、同じ学院に入学してくると、調整が難しくなった。


 ロビンには正直に事情を話し、キャンディは問題がある人物だと説明した。その時は「わかった」と頷いたが、結局の所わかっていなかったのだろう。キャンディにたらし込まれ、こっそり密会するようになった。


 エレナレインは一応、両親に報告したり、ヒスコック侯爵家に連絡したりもした。父親の方は「キャンディに嫉妬しているんだろう」という頭のおかしな人の発言を繰り出してきた。ヒスコック侯爵家はロビンを諫めたようだが、キャンディが野放しなのでまた同じ結果になってしまう。その繰り返しだった。


 ただ粛々と自分にできることをしていたエレナレインは、学院の廊下でキャンディとぴったりと腕を組んだロビンに話しかけられた。


「がんばって両親に取り入っているようだけど、そういうの無駄だから。結婚するのは僕なんだから、僕の機嫌を取らないとね」


 機嫌を取るつもりはないが、ロビンの仕事をかなり手伝っている。そのことを理解していないのだろうか。


「そうよ。エレナレイン。あなたは無駄なことばかりしているわ。結婚相手はロビン様なのよ。ロビン様を敬わないと」


 エレナレインは、キャンディの意見に賛同できなかった。だから曖昧に頷いてその場を去った。


 エレナレインの予想では、その内、キャンディのおねだりで、婚約者をすげ替えようという提案を父親がするだろう。だがヒスコック侯爵家は、それを受け入れないだろう。エレナレインですら条件が悪いと思われているのに、愛人の娘キャンディを、キャスリーンが許すはずもない。


 ロビンがキャンディにどっぷりとはまり、遊び回っている間、エレナレインはヒスコック侯爵家に真面目に通い、せっせと自分の居場所を作っていった。




 ある日、廊下に人だかりができているのを見つけた。キャスリーンが侍女たちを連れて、一枚の肖像画を見上げている。肖像画に描かれているのはヒスコック侯爵一家で、いまから十年ほど前だろうか。ロビンが侯爵の横に立ち、弟のハーヴェイが膝に乗せられている。幸せそうな一家の一場面を切り取っていて、画面からその時の笑い声が聞こえてきそうだ。エレナレインと一緒にいたハーヴェイが声をかけた。


「お母様。どうなさったのですか」


 ハーヴェイの声に振り向いた、キャスリーンの顔色は悪かった。


「キャスリーン……顔色が」

「お母様」


 エレナレインとハーヴェイが声をかけると、乾いた笑い声を上げたキャスリーンはこう言った。


「ちょっと横になるわ」


 いつも風を切って歩くキャスリーンが、とぼとぼと力なく歩く姿を見て、エレナレインは一番最後を歩いていた侍女を引き止めた。


「キャスリーンはどうしたの?」


「それが……キャンディ嬢に入れ込むロビン様との、話し合いが上手く行かず、最近よく眠れないと仰っていて。お食事もあまり……」


 毒蛇と呼ばれていても、やはり母親なのだなとエレナレインは思った。むしろ非道で冷酷な判断が下せるからこそ、かけがえのない息子と意見を違えたとき、迷いも大きいのかも知れないと感じた。


 翌週エレナレインは、真夏にイチゴを持って訪問した。ハーヴェイと待ち合わせて、キャスリーンの部屋を訪れる。


「こんな季節にイチゴなんて、どうやって手に入れたの」


「私がエレナレインにお願いしました。お母様」


「我が領で温室栽培をしているんです。本当は全部王室に納めないといけないものですが、試食用を少し……、ですのでどうぞ『試食』してください」


 キャスリーンはこめかみをもみながら、つらそうな顔をしていたが、好物のイチゴに少し食欲が出たようだ。その口から軽口がもれた。


「毒でも入っていないといいけど」


 エレナレインも、ハーヴェイも、うんざりした顔になった。


「毒なんていれていません。キャスリーン。あなたではあるまいし」


 キャスリーンがどんな人物かわかっているので、別に腹は立たないが、手を尽くして入手した贈り物に毒の混入を疑われて良い気分はしなかった。キャスリーンも明らかな失言に、しまったという顔をしている。


「ごめんなさい。自分がそういう人間だから、ついつい口をついて出てしまったわ。そうよね。エレナレイン。あなたはそんなことをする子じゃない。よくわかっているのに。ごめんなさいね」


 キャスリーンは遠慮なく食べ始めると、本心からおいしいと思ったようだ。目が輝いている。


 エレナレインはなんだかほっとした。毒蛇が弱っているのは、落ち着かないものだ。


 エレナレインは家庭で、自己主張の強い愛人や、強盗と変わりない義妹、その日の気分で言うことを変える父親、その父親を育てた、強烈な祖父母に囲まれて育った。

 エレナレインの母親や弟は、どうかというと、そういった人間たちを柳に風とばかりに受け流す、良くも悪くも鋼のメンタルの持ち主だ。


 だから相対する人間が、あくどい個性を持っていてもあまり気にならない。むしろ元気がないより、あったほうがいいと考える性格だった。



◇◇◇◇◇◇



 エレナレインとロビンの学院卒業が近づき、ある日重大発表があると、ヒスコック侯爵家に集まることになった。ロビンの両親に、弟のハーヴェイ。エレナレインの両親となぜか愛人。義妹キャンディと弟のセルトルだ。


 エレナレインはもう予想が付いていた。ロビンがキャンディと結婚したいと言うのだろう。しかしそれは無理ではないか。その場合、エレナレインと結婚して、キャンディを愛人にするのだろうか、などと考えていた。


「僕とキャンディは愛し合っています。だから僕たちは二人で、侯爵家を継ぐつもりです。エレナレインはキャンディに嫌がらせを行う、品性下劣な人間で、そんな人間に侯爵夫人はふさわしくありません」


 ロビンの宣言に喜んでいるのは、エレナレインの父親と愛人だった。早く婚姻であそこから逃げ出したいと思う。ヒスコック侯爵が無表情に言った。


「お前の婚約者はエレナレイン嬢だ。それ以外は認めない」


 なぜかロビンは不敵に笑った。


「僕たちの子どもが、キャンディのお腹にいるのです。ですから僕たちが結婚するのは、もう決まっています」


「もう一度言う。お前の婚約者はエレナレイン嬢だ。それ以外は認めない」


 侯爵は無表情に続ける。


「別に婚姻前に愛人と子どもを作っても構わない。好きにしろ。ただし結婚相手はエレナレイン嬢だ」


「ですからエレナレインは、侯爵夫人に相応しくありません」


「それを決めるのは当主と親族会だ。お前ではない」


 鼻白んだロビンは、引き返せない宣言をした。


「僕はなにがあっても、絶対にエレナレインとは結婚しません。絶対です。結婚相手はキャンディです」


 そう言ったロビンの頬が、力任せに叩かれた。驚いて目をやった先には、母親のキャスリーンが立っていた。


「あの子がこの家に馴染むために、どれだけ努力をしたと思っているの」


 ロビンは驚きすぎて、言葉がうまく出てこなかった。


「で、でも、エレナレインは、キャンディをいじめて……」


「見たの? それをその目で見たの?」


「見てはいませんが、ですがキャンディがそう言って……」


「言っているだけなら、本当かどうかわからないでしょう。でもエレナレインは、婚約が決まって何年もこの家で努力してきた。それをあなたは実際に、その目で見てきたでしょう。そのことをどう思っているの」


 ロビンは父親に助けを求めるように視線を送り、広間にいる人々にも助けを求めた。だがキャスリーンの迫力に押され、誰も口を開けなかった。


「で、ですが……この家に馴染む努力なんて、自分のためにしているのですから、わざわざ言うほどのことはないではありませんか。それに、それにエレナレインとの婚約を、一番反対していたのは母上ではないですか」


 ロビンがそう言った瞬間、キャスリーンの心が張り裂けそうになったのが、「二人」にはわかった。


 ……ロビンは家の嫡男で、そこからでることを考えたこともない。だから嫁入り、婿入りするものたちの苦労がわからなかった。


 婚家に馴染むべく、エレナレインが努力したように、エレナレインの母親も努力した。だからロビンの発言が、どれだけ残酷にキャスリーンの心を切り裂いたのか、「二人」には見えてしまった。


 婚家に馴染むよう努力する嫁の辛苦は、比べられるものではない。それでも多くの者が大変だったろうと、名前を上げるとしたらキャスリーンの名が上がるだろう。この場で一番過酷だったのは確かだ。成り上がりの子爵家から、侯爵家への嫁入り。筆舌に尽くしがたい苦労があったろう。


「…………婚約を反対した理由は、もっといい縁談を探したかったからよ。それがどうして本妻の娘から、愛人の娘に格落ちを許すなんていうことになるの?」


「……」


「子爵家出身の母親ということで、あなた方には肩身の狭い思いをさせたくなかった。でもそんな心遣い意味がなかったようね。目の前の母親の苦労なんて見えていなかったのだから」


 ロビンはいまだに、自分の置かれている状況がわからなかった。それでも母親の目を見て、急に不安になった。


「キャスリーン」


 ヒスコック侯爵が、キャスリーンに合図するように声をかけた。


「私は心を決めた」


 キャスリーンも力なく頷いた。


「オリスト伯爵。エレナレイン嬢との婚約を、長男のロビンから、次男のハーヴェイに変更したい。ロビンのほうは、お宅のキャンディ嬢と好きにしたらいい」


 一部の人間はその決定に盛り上がった。エレナレインの所にハーヴェイが来る。


「よろしくお願いします」


「ハーヴェイはそれでいいの?」


「はい。僕たちうまくやっていけると思います。息が合いますし」


 ヒスコック侯爵が声をかけてくる。


「ハーヴェイとエレナレインは、六ヶ月後にロビンと予定していた結婚式で、婚姻する。早く準備に取りかからないとな」


 それを聞いたロビンとキャンディが、抗議の声をあげた。


「あれは僕たちの結婚式です」


「お前のではない。侯爵家のものだ」


「ですから僕たちの式でしょう?」


「侯爵家はハーヴェイに継がせる。ロビンは自由にしろ」


 初めて事態を理解したロビンは、真っ青になった。


「どうしてですか?」


「……家を継ぐものには義務がある。それを果たすから権利が与えられる。これがお前にはわからないからだ」


「そんなことはとっくの昔に知っています」


「そうか。ならばどうして親から与えられた婚約者を拒否した」


「それは……。すいません。だったらやはりエレナレインと結婚します」


「その話はもう終わった。済んだことだ。もうエレナレインはハーヴェイの嫁だ」


「お願いです。反省しますから戻してください」


「いい加減にしろ。そうやって当主の決めたことに延々と逆らうのか」


「……そんなつもりは」



◇◇◇◇◇◇



 話し合いの翌日、エレナレインは、ヒスコック侯爵家に移ることになった。


 ロビンと結婚しても侯爵夫人になれないと知ったキャンディと家族が、どんな騒ぎを起こすかわからなかったからだ。まずは最低限の荷物だけ持って、馬車回しで母親と話していた。そこへキャンディが来てしまった。


「ねえ。なんでロビン様は跡継ぎを下ろされたの? ハーヴェイが跡を継ぐってどうして?」


 この質問に答える気には、なかなかなれなかった。キャンディもその母親も、人の話を聞く気がないのだ。だが今日はめずらしく、しおらしくしている。


「ヒスコック侯爵家ほどの大きな家なら、婚約相手が誰かというのはたくさんの人の意見を調整して、力関係も考慮して決められているわ。跡継ぎのロビンの好き嫌いで、決められるものではない。そんな簡単なこともわかっていなかったから、後継者の座を下ろされたのよ」


「それじゃあ、私はどうなるの? 次の後継者のハーヴェイを狙えばいいの?」


「今言ったように、相手を決めるのは、当主なの」


「それじゃあ。当主を狙えばいいってこと?」


「あら、悪くないわね」


 エレナレインは、初めてキャンディには、教育の余地があったらしいことに気がついた。後継者の妻の座を狙うには、それを決める当主を狙えば良い。その通りではある。


「じゃあ、じゃあ、……エレナレインも当主を狙ったの?」


 素朴な疑問を口にしたキャンディと、今日で離れられると思うと、少し可愛く見えてくるから不思議だ。


「いいえ。私は最初から、婚約者に決まっていたから。でも、そうね。私は当主夫人を狙ったわ。婚約生活を有意義にするために。婚姻後の生活を上手く回すために。キャスリーンは難しい人だったから、懐柔を諦めて、自分を売り込むことにしたの」


 キャスリーンは本当に大変だった。おそらくは生い立ちのせいで、誰も信用できない身の上だからだ。人を見下し、つねに陰謀を巡らせている。


 だからエレナレインは、ヒスコック侯爵家では、つねに誠実に振る舞った。例え自分が損をしようと、馬鹿にされることがあったとしても、自分の方針を貫いた。


 キャスリーンが疑心暗鬼な性格なら、売り込むのは難しかったかもしれない。


 だが彼女は戦時下に育ち、人間の表裏を知り尽くしている。だからこそ人を信用できないが、信頼できる人間を見つける目は鋭かった。


「どうして、侯爵夫人なの?」


「そんなの……家の実権を握っているのは、大抵の場合、姑に決まっているからじゃない」


 きょとんとしているキャンディを置いて、エレナレインは馬車に乗り込んだ。


 ヒスコック侯爵家に、今日から若い蛇が、新たに加わるのだ。


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