過ぎたるは及ばざるがごとし
暗い話です。ジュリウスは出ません
バビント男爵家のサイラスは、幸せな家庭で育った。
たくましい父親に大事にされ、優しい母親に愛され、幸せな子ども時代だった。
バビント男爵家は、王都の中に邸宅がある古い家柄で、小さいが堅牢な館に住んでいる。家計は潤い、家を構成する使用人達の数は多く、男爵家という規模ながら、当主を支える執事長を始めとする使用人や、親族達で巨大な組織になっていた。
それが変わってきたのは、サイラスが十歳を過ぎた頃だろうか。父親エルドリーが、体調を崩すようになったのだ。エルドリーは大柄な男で、風邪など引いたこともない。それなのに休むことが多くなり、徐々に寝込むようになったと思ったら、そのうち寝たきりになってしまった。
もちろん使用人たちが医者を呼んだ。だが原因は不明だという。家の中は人の出入りが激しくなり、当主不在をしのごうと、様々な人が代わりに仕事をするようになった。次期当主のサイラスが頑張ろうにも、まだ小さい。
そのためサイラスの後見人は、父方の叔父ミューラーが務め、直接の養育は母親のアーシュラが、そして教育は執事長が務めた。
この時期のサイラスは、精神的に不安定だった。だが執事長の孫、ライラがずっと側にいてくれた。サイラスとライラは、小さい頃からとても仲が良く、どんな時も支え合って、事態を乗り越えてきた。
だがまわりの尽力も空しく、当主エルドリーは、サイラスが十二歳の時に亡くなったのだ。
その当時、誰が後を継ぐかでもめにもめた。
サイラスも出席した親族会議では、跡継ぎのサイラスがいるのだから、サイラスに継がせるべきだという意見が大半で、反対意見はほとんどなかった。
だが後見人の叔父ミューラーが猛反対をした。
サイラスはまだ十二歳で重圧が過ぎると。当主になれば当然、権力争いに巻き込まれるし、重要な決断を迫られる。せめて十六歳になるまで待って欲しい。それまで皆で支えてやって欲しいと。
これには強硬な反対意見が出た。当主の権力を誰が握るかという話をしているのだ。正当な跡継ぎを差し置いて、二番手の叔父が口を挟むなど。執事長を始めとした家内の勢力は、声を大きくはしなかったが、断固としてサイラスに継がせるべきだと主張した。
だが最終的にはミューラーの意見が通った。ミューラーは当主エルドリーの実弟で、権力に最も近い地位にいる。だからこそ主張が通ったのだが、それ以上に人柄が信頼されていたからだ。
ミューラーは自分の兄弟が生んだ、初めての甥であるサイラスを可愛がっていた。当主だった兄のエルドリーを尊敬しており、遺された遺児を誰より心配していた。だからこそ、サイラスに王冠をかぶせるのは、数年待って欲しいと。その間、自分が家を支える。決して二心は抱かないと。ミューラーが離反すれば、家が乗っ取られてしまう危険な状態だったが、親族会議で承認されたのだ。
それからは忙しかった。サイラスは四年後の継承に向けて、勉強漬けの日々。だがその四年は叔父から贈られた、最後の子ども時代でもあった。叔父に感謝して味わい、あっという間に日々は過ぎていった。十三歳になると王立学院の中等科に入学し、世界も広まる。同世代と過ごす毎日は刺激的で、それにここならライラと毎日会える。
やがて十六歳になったが、ライラとの婚約話は難航していた。ライラの父親も、祖父の執事長も賛成しているのに、叔父のミューラーは首を縦に振ろうとしない。かといって、別に反対しているわけでもない。ただ、話を進めるのはまだ早いと言う。サイラスの気持ちは決まっていた。人生を共に歩むのはライラしかいない。ライラはずっとサイラスを支えてくれたのだ。
そんな中、叔父のミューラーに執務室に呼ばれた。
「サイラス。見合い話が来ているので、念のため目を通してくれ」
「そんなものを見る気はありません。なぜライラとの婚約を、許して下さらないのですか」
「ううむ。そうだなあ。ではライラとの婚約の利点を言ってみろ」
「執事長の孫で身元は確かです。結婚すればコルフン家との繋がりが、強固になります」
「そうだな。だがコルフン家は執事長の家柄なのだから、繋がりを強固にする意味は別にない」
「その通りではあります。でもライラは……、ずっと支えてくれて、私には必要なのです。駄目でしょうか」
「別に駄目ではない。支えてくれる人というのは、とても貴重だ。大事にしないといけない」
「だったら……」
「だがお前はこの家の当主になるのだ。支えてくれない人物でも、家の利益になるなら、その人を妻にするくらいの気持ちで、いないといけない。皆、自分の気持ちを押し殺して仕えているのだよ」
「……はい」
「ところでお前の母親、アーシュラ義姉様に一つ伝言を頼む。いいか、必ず直接伝えてくれ」
サイラスは荷が重かった。
父親が亡くなった時から、母親とは距離ができてしまった。それに伝言は、どうでもいい内容としか思えない。こんなもののために、わざわざ母親と会って、気まずくなりたくなかった。
最初におかしいと思ったのは、父親が亡くなって喪中にもかかわらず、アーシュラの身なりが派手になったことだ。商売女とまではいかないが、まるで夜会に出席するのかと勘違いするほど、外見にお金をかけるようになった。
既婚で子持ちの癖に、しょっちゅう入浴し、髪や肌の手入れに何時間もかけ、肌を露出した服装をする。当時は驚いて、いろいろ尋ねたものだ。だが母親に、元々こういった服装が好きだった。夫のエルドリーのために、大人しくしていただけだと言われた。
話してみると、中身は元の母親だ。だが外見を見ると、落ち着かなくなってしまうようになった。それに母親も、妙にサイラスと、距離を取るようになった。うまくいえないが、別の人になってしまったような……。
サイラスは確かにライラと仲が良かったが、婚約を急ぐほどになってしまったのは、母親と距離ができてしまい、さびしいということもあった。
サイラスがアーシュラの部屋を訪れると、侍女に「入浴中だから」と断られた。
「ああ、またですか」
仕方なくサイラスは自室に戻った。母親は、毎日入浴するようになり、三時間ほど出てこない。だから時間をおいてまた行った。すると部屋から吐く声が聞こえた。陶器の洗面鉢を抱えて、アーシュラが戻している。今度は、まともな服装をしている。
「大丈夫ですか? 母上」
少しへろへろになった母親が、穏やかに微笑んでいった。
「大したことないから大丈夫よ」
そして口をゆすぐと、ソファに座った。
「今日、お医者様の薬を、飲むのを忘れてしまって」
サイラスはほっとした。父親を亡くしたことだけでもつらいのに、母親まで……。
ここのところアーシュラは吐き気を覚えることが多く、サイラスは心配で医者に相談した。医者は心労で胃が弱っているのが原因だと言って、薬を飲ませている。サイラスは伝言を話すと、すぐに部屋から立ち去った。サイラスがいると心配をかけまいと、アーシュラが無理をするだろうと考えたのだ。
ある日、サイラスが学院から帰ってきて、家の表階段にいると、がやがやと音がした。母親のアーシュラが戻ってきたのだ。
馬車から降りてきたアーシュラは、まるで商売女のように派手な格好をし、おまけにそれが少し乱れて、とてもだらしなかった。足早に歩いてくるのを、侍女達がひどい顔色で追いかけてくる。
なにより目を引いたのが、アーシュラは泣いていて、両目から真っ黒な涙をぼとぼとと落としていたことだ。真っ白く塗られた広く開いた胸元を涙がつたい、高価なドレスを汚していくのを、アーシュラはそのままにしている。
まるで戦いに赴くかのように、表階段を登ると、亡くなったエルドリーの書斎に、足音荒く入っていった。驚いたサイラスが、心配してついていくと、中は父エルドリーが亡くなった時のままになっていた。なにもかもが生前そのままに、保存されている。
アーシュラはエルドリーの机の横に置いてある、大きな地球儀型のバーキャビネットの蓋をあけた。蓋を開けるとそこにはエルドリーが集めていた、小さなお酒の瓶がたくさん入っていたはずだった。子どもの頃、それで何度も遊ばせてもらった。宝物のような想い出。
だがそこにはなにもなかった。何一つ。お酒どころか、グラスも、氷入れも、マドラー一本すら。きれいに持ち去られ、掃除されていた。それを見たアーシュラは、へなへなと崩れ落ちると号泣し始めた。アーシュラの侍女達が遅れて部屋に入ってくる。
「証拠が残っていない」
「消されたんだわ」
侍女達はアーシュラに寄り添うと慰め始めた。
「おいたわしい」
そしてその一人が叔父のミューラーを呼びに行った。
アーシュラを落ち着かせた後、ミューラーはサイラスと三人で、庭を散歩していた。バビント男爵家には大きな庭があり、ミューラーと、アーシュラは、それぞれそこで過ごす習慣があった。
「兄上の死に、どうしても納得がいかなくてね。もちろんアーシュラ義姉様も同じで、二人でばらばらに調べていたんだ。その内、同じことをしていることがわかって……」
「どうして教えて下さらなかったのですか」
「誰が犯人かわからない。そして犯人は身近な人間だ。お前にもね」
「それで誰が犯人なのですか。父上を殺した憎き敵。私が殺してやります」
「ライラの父親グールドだ」
「……まさか」
ミューラーはそこでアーシュラに水を向けた。
「グールドの父親の執事長はぐるなのか?」
「いいえ。執事長も知らないそうよ。ライラも知らない。ライラとサイラスを結婚させて、ライラを幸せにしてやりたかったんですって。ライラの願いは叶うし、これで男爵夫人の父親になれるって喜んでいたわ。あの人のお酒に毒を……」
「どうやって調べたんですか……まさか」
「その通りよ。グールドと寝たの」
アーシュラは隠しても仕方がないと、率直に言った。サイラスは衝撃で頭の中を、様々な感情が駆け巡った。父親の死に対する怒りも強かったが、母親にそんなことをさせたグールドへの怒りで、瞬間的に頭が爆発したように感じ、衝動的にその場を後にして、グールドの元に向かった。盗み聞きされないようにと、外を選んだのが仇になった。
「待ちなさい」
ミューラーの叫ぶ声が聞こえたが、気にならなかった。馬を飛ばし、ライラの家、コルフン家に向かう。裏口から忍び込むと、台所にあった大きなナイフをつかんだ。そしてそっと部屋に忍び込んだ。
中には、ライラとグールドがいた。怒りで頭が真っ赤になっていても、さすがにライラの前で父親を殺す気にはなれず、息を殺した。少し乱暴なグールドは、娘の前で別人のように優しかった。サイラスはグールドに、こんな面があったとは信じられず、だんだん冷静になってきた。
「お父様。どうしてだか、私とサイラスの婚約が進まないの。ミューラー叔父様は、結婚に反対なのかしら。どうしたら……」
「心配しなくていい。ライラ、お父さんが必ずなんとかしてやるから」
「でも」
「お前のように美しくて優しい子は、幸せになる運命なんだ」
「でも」
「明日、また私が頼みに行ってみるよ。何度でも行くさ。お父さんはお前のためならなんでもできる。お母さんの墓に誓ったんだ。絶対にお前を幸せにするって」
「お父様……」
サイラスは構えていたナイフを、のろのろと下ろすと、裏口に向かった。真っ青な顔をしたミューラーが入ってきて、サイラスをきつく抱きしめた。
「帰ろう」
◇◇◇◇◇◇
「サイラスはどうしたい」
「ライラのお母様が亡くなった時のことを、覚えています。あの時のライラは……。例え敵といえど、ライラから父親を奪えません」
サイラスの心はちぎれそうだった。部屋の中にいる、ミューラーもアーシュラも、心は千々に乱れているようだ。だがお互いの気持ちはわかった。ライラは二人にとっても、親族の可愛い子どもで、グールドが憎いからという理由で、浅慮な判断ができなかった。
「グールドはなぜ、父上を殺したのですか」
「グールドは執事長の息子で、将来の執事長候補だ。だが考え方が粗暴で、自分勝手なところがある。だから兄上は、あまりよく思っていなかったんだ。だがお前とライラは小さい頃から、とても仲が良かった。そのため兄上も迷っていた。その内、グールドがこのバビント男爵家を、ライラのために手に入れようと画策を始めてな。限界だと思った兄上は、ライラとサイラスを結婚させる気はないと、はっきりと言ったんだ。それでグールドは兄上を殺した。そして残されたお前は、思惑通りライラと結婚したいと言い始めたわけだ。どんな結末になるにせよ、真相が分かってからにしようと、婚約を保留にしたんだ」
「……」
「サイラスは……」
無理だと思った。サイラスはライラを愛している。それでも敵の娘と結婚することはできない。
「ライラとは結婚できません。別れます」
「それでいいの? ライラとグールドは違う人間よ」
アーシュラは自分の気持ちをこらえて、サイラスに言った。
「理屈で言えば、確かにそうです。でも妻もグールドの血を引き、いずれできる子どももグールドの……。家庭を築けません。仮に結婚しても、母上だって受け入れられないですよね」
「ええ、ごめんなさい。そうなったら私は、この家を離れるでしょう」
「多くの者がそうするでしょう。味方のいない貴族夫人。無理です。やっていけません」
三人は話し合い、方針を決めた。
結婚できなくても、サイラスにとって、ライラが大事な人であることは間違いない。だからグールドの罪は、暴かないことにした。だが当主殺害は、最低限の関係者で共有され、バビント男爵家から、有力者の家だった、グールドのコルフン家は完全に排除されることになった。執事長も、その息子グールドも、その孫ライラにいたるまで、数十名が職を失ったのだ。
お互いに大きな打撃だったが、バビント男爵家は粛々と歩き出した。サイラスは、ミューラーと、アーシュラが選んだ婚約者と、二年後に結婚する予定だ。
ライラはサイラスと、何時間も話した。
ライラは自分の父親がしたことを聞かされ、どうしても信じられなかった。だが最終的には父親本人から打ち明けられ、理解したようだった。ライラには優しい父親の面しか見せていなかったグールドが、粗暴で人を殺すような人物だと言われても、すべてが終わった今ですら信じられなかった。だが現実を受け入れるしかない。
ライラは捨てられた立場だが、サイラスの選択は当然だと思っている。
なぜならサイラスが、バビント男爵家を選んでライラを捨てたように、ライラもサイラスを選ぶことができたとしても、きっと父親の元に残ることを選んだからだ。ライラはたくさん悩んだが、優しい父親よりサイラスを選ぶことが、どうしてもできなかった。母親を亡くしてから、ずっとライラを慈しんでくれた父親。自分のために殺人までしてくれた。
だが最近、どうしたらいいかわからなくなった。
がっくり老けたグールドに、こう言われたのだ。
「お父さんがもっと、素敵な人を見つけてやるから」
その時、ライラは思った。
「また誰かを殺すの?」と。
ライラの結婚のために、義父になる人物を殺したグールド。邪魔になればライラの夫も、子どもも……。そう思った時、思ってしまった時、ライラは結婚を諦めることにした。
だから家で毎日、父親の娘として過ごしている。平和な毎日だ。だが最近なぜだか、あまり食べられない。服の紐もあまるようになった。
ライラは父親のことを愛している。だから一生側にいるつもりだ……。
グールドは娘のライラ以外は、どうでもよかった。
そしてそれは、ライラにも伝わった。
ライラはこれから結婚するにあたって、縁をつなぐ人々がどうでもいいと思えなかった。ましてや夫になる人、生まれる子ども。そういった人を、どうでもいいと思う父親に、近づけたくないと恐怖を感じた。だから孤独を選んだのだ。
グールドは娘だけが大事で、娘のためになんでもしてきた。だがどうしてだろう。その娘を失いつつあった。




