生存者(前編)
ノドル子爵家のヴィオレットが、ブラナ男爵家に後妻として嫁いだのは十八歳の時だった。
ノドル子爵家は肥沃な農耕地帯を有する貴族家で、税収は安定している。一つだけ懸念材料があるとすれば、王都までの輸送経路だ。地形の関係で遠回りをしないといけないのだが、その理由の一つに、経路に仲が険悪なブラナ男爵家が差し掛かっているのだ。
険悪と言っても、お互いに今の関係をどうにかしようというていどには良くなっており、契約結婚などで調整していたが、うまく年齢がかみ合わず、話がまとまらなかった。
この度、丁度良いと言っては誠に不謹慎だが、ブラナ男爵家当主のチューザーの妻エルザが亡くなった。そのため二十六歳のチューザーとは少し年が離れている上、後妻という立場ではあるが、話をまとめることになった。
これで二人が結婚すれば、ノドル子爵家は王都までの経路を大幅に短縮できるし、ブラナ男爵家はそれによる収入で恒常的な収入を得られる。いいことずくめだった。一見。
ヴィオレットがブラナ男爵家に輿入れして最初に感じたのが、強い殺意だった。
男爵家の当主チューザーの父親は亡くなっている。母親のグレタは前当主夫人として君臨し、チューザーの妹サブリナは、まるでグレタを小さくしたようだ。チューザーは当主のくせにどっしりと構えているのは性に合わないと、しょっちゅう領地を見回っている。家にまったくいないのだ。
ヴィオレットは、最初に出された食事に、とても嫌なものを感じ口にしなかった。そのことをグレタとサブリナは、躾がなっていないとちくちく嫌みを言った。
だがヴィオレットは、嫁という立場ではあるが、当主夫人なのだから、別にグレタにもサブリナにも頭を下げる必要は、「それほど」無い。
二人が食べないと文句を言い続けるヴィオレットの食事の皿を、力強くつかんで、二人の間に音を立てて置いた。衝撃でソースがテーブルに飛び散る。
「そこまで仰るなら、お手本をどうぞ」
一瞬焦った顔をして動きを止めた二人は、今度は野蛮だの礼儀がなっていないだの言い始めた。ヴィオレットは呆れて、グレタとサブリナの、腰巾着をしている侍女長に命令した。
「食べなさい」
侍女長は女王然とした、余裕のある微笑みを浮かべていた。なぜならこのブラナ男爵家という王国で、本物の女王であるグレタに守られ、王女サブリナに気に入られている。自分が嫌だと言えば、なんでも叶うに決まっている。だから二人を見た所、なぜか目をそらされたのだ。
いつまでも食べようとしない侍女長を見て、ヴィオレットは侍従に命じた。
「食べさせてあげなさい」
護衛も兼ねている侍従はすたすたと歩いて行くと、侍女長の二の腕と頭をつかむと、顔を皿に押しつけようとした。侍女長は華奢だったが、命の危機にさらされた生き者特有の怪力を発揮し、死に物狂いで暴れ、自由になるもう片方の腕を振り回した。
腕にあたった皿は弾丸のように跳ね飛ばされ、グレタの胸元に鐘のような音を立ててあたった。グレタの胸に料理がべったりとはりつき、重力で皿は転がり落ち、小気味の良い音を立てる。
グレタは金切り声を上げると、着替えのために飛び出していった。おそらくヒ素だろう。あれは皮膚からも吸収されるから。
食堂の使用人たちは、習い性で女王グレタについていったが、先見の明があるものは、新しい女王になるかもしれない、ヴィオレットを観察するために残った。ヴィオレットは、まだ残っているサブリナに微笑んだ。
「この家のルールをご教授下さったのですね。食事になにをいれてもいいと。明日から楽しみですわ」
しかし王女として育てられたサブリナは、ぽかんとしていた。かたよった家庭環境のせいで、嫌みがわからなかったのだ。
馬鹿馬鹿しく感じたヴィオレットは、部下たちを引き連れて食堂を後にした。突然この事態に遭遇したら、ヴィオレットだって驚いたことだろう。
だがブラナ男爵家には噂があった。前妻のエルザの突然の死。不審死だという噂だ。なんでもグレタとサブリナの嫁いびりは相当にひどいもので、いくら世間体を慮って隠していても、鈍感な人でも気がつくほどだったらしい。
そしてヴィオレットがその目でみた家の中。これはどうにもならなさそうだ。
あれに手をつけろと? 面倒くさい。
確かにヴィオレットは当主夫人だ。だからグレタとサブリナを粛正して、実権を握るのは可能だろう。だが腐っても前当主夫人。君臨してきた人間を、追い出すのは骨が折れるものだ。それも初対面の食事に、毒を混ぜるような主人とその部下たち。命を賭けてまでする見返りも特にない。
この結婚の目的は、ノドル子爵家の輸送経路の運用と、ブラナ男爵家の通関として機能が維持できればそれでいいのだ。
ヴィオレットは部下たちを連れて、街のホテルを借り上げ、しばらくそこで生活をすることにした。実家を始め各方面に連絡をして、跡継ぎのビクトールの件を調整する。結婚したばかりの嫁が、即日ホテル暮らしとは、ブラナ男爵家と前当主夫人のグレタの、面目丸つぶれだが仕方がない。これはさすがにグレタが悪いだろう。
「嫁を追い出してやったと使用人に自慢している……?」
部下からグレタに関する報告を聞かされ、ヴィオレットは理解できない生き物の生態を垣間見た気分だった。なんとグレタは世間体を気にするどころか、得意になっているらしい。
ヴィオレットははっきりと物を言う方だが、無駄な戦いはしない。面倒くさがりなのだ。そうは言っても、必要なら戦も辞さない。
そんなヴィオレットが、絶対に敵に回さない相手がいる。
「頭のよくない人」。
つまりはお馬鹿さんだ。
こういうとまるでヴィオレットが、自分の頭の良さを自慢しているように聞こえるが、そうではない。良くも悪くも、厄介な相手と認識しているのだ。だからもうこの時点で、ヴィオレットは実家に撤退することを、決めたも同然だった。そもそも夫のチューザーが不在なのだから、いる意味もない。
ブラナ男爵家には、前妻エルザと当主チューザーとの間に、跡継ぎのビクトールがいる。このビクトールの養育も、ヴィオレットの担当だった。そして輿入れした時に見せられたのだ。
七歳のビクトールは、祖母グレタのことを「お母さん」、叔母サブリナのことを「ママ」と呼ぶのを。グレタとサブリナの二人は得意満面の笑みで、ヴィオレットを見た。こりゃ駄目だわと思ったヴィオレットは、確かにまだ七歳のビクトールは、気の毒な存在かも知れないが、この場で唯一血のつながっていない自分が、どうこう口を出せる問題でもないと思った。
ホテルで夫のチューザーからの連絡を待ったが、遠方に出かけていることが確かなのに、即日返事が来た。つまりは本物の封蝋をした、偽物の手紙だ。中には「実家に帰れ」と書いてある。
ここで、チューザーに対する評価が地の底まで落ちた。自分の目で領地を見て回りたいというのは、悪いことではない。だがそのために自分の地位を証明するものを、すべて母親に預けるなど。それこそ職務放棄ではないか。
この手紙と、チューザーの移動の記録、その他諸々をしっかりと保管して、ヴィオレットは実家に戻った。
◇◇◇◇◇◇
「そういえば母上、私の友だちで、ビクトール君という子がいるのですが、その子がいじめられているのです」
「どうしてぇ?」
ラヴィニアは息子のジュリウスの相談を、そらまめのサヤで遊びながら聞いていた。そらまめのサヤは中がふかふかで、いつもさわって遊んでしまうのだ。一度この中で眠りたいと思う。ものすごくたくさん集めれば、ベッドが作れるかも……。隣に座っているジュリウスはリズミカルに、サヤから豆を出していく。
「十三歳になったので、王立学院の中等科に入ったのです。それで三ヶ月寮生活をしました。その時にビクトール君が、お母上のことを「ママ」と呼んだり、「お母さん」と呼んだのです。それをみんなが、普通は母上と呼ぶものだ。ママなんて恥ずかしいって」
「へえ、そうなの」
「母上はどう思われますか? 私も昔は『お母さん』と呼んでいましたし」
ジュリウスはサヤから出したそら豆の、今度は皮をむきだした。これまたリズミカルにはがしていく。ラヴィニアは皮の感触を確かめ匂いを嗅いだ。
「興味ないわぁ。なんて素敵な草の匂い」
「そうでしょうね。……それでよく話を聞くと、ビクトール君のお母様は、亡くなっているそうなんです。それでママというのは、叔母様のことで、お母さんというのは、お祖母様のことらしいんです。私が不思議に思ったのは、ブラナ男爵家は、ノドル子爵家と婚姻してますから、ビクトール君には義理のお母上がいらっしゃるはずなんですが。そんな人はいないと」
「ああ、多分、わかったわ」
「本当ですか?」
「そのお祖母様が、最初のお嫁さんをいびり殺したのよ。家と孫を手に入れた祖母が、支配しようとして、自分を「母」と呼ばせているのね。当然二番目のお嫁さんもいらないから、追い出しちゃったんじゃない?」
祖母が孫に「母」と呼ばせる歪みを嗅ぎ当てたラヴィニアは、自分の偏見を披露した。
「すごいです。母上。クラスメイトの何人かが、同じことを言っていました。後妻のヴィオレット様はご実家にいらっしゃるそうです」
普通のことを聞いても、見当外れなことしか言わない母親が、なぜかこういう質問だけ、まるで見てきたようにずばりと答えるのだ。
「そのビクトール君て、どんな子なの?」
「すごく頭が良い子です。それに、みんなで川遊びに行ったら、ケントンが具合が悪いのに、すぐに気がついて。優しいし、頼りになります」
「仲が良いのね」
「はい」
◇◇◇◇◇◇
ブラナ男爵家当主チューザーは、激怒して家に戻ってきた。
「どういうことですか。母上。ビクトールに、お母さんと呼ばせているそうですね。おまけにサブリナはママと。教区の司祭に呼び出されましたよ。母親や妹と、ふしだらな関係ではないかと」
チューザーの説教はしばらく続いた。あまりの辱めに、頭が沸騰しているようだ。
グレタとサブリナは、徹底的にビクトールを支配して育ててきた。それを受けてグレタに、絶対的な忠誠を誓っている。そもそも母親を早くに亡くしたビクトールにとって、グレタとサブリナは親代わりどころか、親という存在そのものなのだ。だから素直に「お母さん」、「ママ」と呼ぶ。
そして当然それを人前でもやった。これが普通の家庭なら、簡単に誤魔化せただろう。
だが男爵家は嫁いびりで有名で、一人目は不審死、二人目は結婚初日に逃亡している。下卑た……というよりは、恐怖した噂がまわるのはあっという間だった。
今年二十一歳になる、サブリナのお見合いの席でも同じことが起った。ビクトールは普段は甘やかされ、なんでも望みは叶う。だからお見合いの席にも、なにも考えずに乗り込み同席した。そしてサブリナをママと呼んだのだ。
サブリナはなんとか誤魔化そうとしたが、結婚によってサブリナがいなくなると説明されたビクトールは、「ママがいなくなる」と半狂乱になった。そして説得しようとするまわりに、お見合い相手の前で、ものを投げたり、暴力をふるったりした。もちろんまだ十三歳なのだが、会話でコミュニケーションを取る貴族社会において、致命的なできごとだ。
ビクトールは、グレタとサブリナにずっと「支配」されてきた。「お祖母様」と呼んだら、無視という罰を与えられ、「お母さん」と呼んだら褒めるという褒美を与えられてきた。
そのためビクトールは、自分が本当はなにをしたいのかを考えたことがない。ずっと相手のご機嫌に左右されて、相手の望む行動をとってきた。その結果、自分の頭で考え、言語でコミュニケーションをとる訓練をしてこなかった。サブリナを「ママ」と呼んで、半狂乱になって求めるように、今まで訓練されてきたのだ。だからその通りに暴れただけだった。
子どもに対して「ママ」と名乗ることが、どれだけの責任を背負うか、サブリナはまったく想像していなかった。
当然見合い話は流れ、本人の望み通り、これから一生ママとして過ごす。結婚もできず、当然子どもも持てない。
遅れて部屋にやってきたビクトールに、チューザーは言った。
「今後は母上のことをお母さん、サブリナのことをママと呼んではいけない」
そう言われたビクトールはきょとんとしたあと、グレタを見た。
「この人なにを言っているの?」
「な、私はお前の父親だ」
「そうなんだ。なんて呼べば良いの?」
そう言って、ビクトールはまたグレタを見た。グレタが絶対で、他の人物の言うことを聞く必要性を感じないのだ。
「チューザーのことはお父様って呼びなさい」
「それじゃあ、二人は夫婦なの?」
不思議そうな顔で、ビクトールはグレタを見た。
そう言われたグレタは、最初は嬉しそうに頬を染めた。しかしこの話し合いの元になった、教区での評判を思い出し、挙動不審になった。グレタは息子や孫と、たいへん親密な関係であると思われたいのであって、異常者と思われたいわけではない。
「違います。夫婦ではありません。親子です。チューザーは私の息子です」
グレタは焦って説明を始めた。まるで分からないという顔を、ビクトールはしていたが、チューザーがグレタの息子だと聞いたとき、強い衝撃を受けたような表情をした。まるで自分の存在を脅かされたような。
チューザーは少し哀れになり、ビクトールに丁寧に説明を始めた。だがビクトールはすぐにグレタのほうをむいてしまい、他人のように振る舞っている。チューザーの話に重きを置いていないのだ。
「とにかく、今後は私のことを父上。母上のことはお祖母様。サブリナのことは叔母様と呼びなさい」
ビクトールはグレタを向いている。チューザーはたまりかねて大声で怒鳴った。
「母上。一体どういう教育をしたのですか。まったく父親の言うことを聞きません。おまけに礼儀作法もなっていない。人前での振る舞いも噂になるほどおかしいなど。こんな育て方をして、貴族夫人として恥ずかしくないのですか」
チューザーは口を極めて罵った。
チューザー本人が母親グレタに育てられる上で、この王国の王様として甘やかされて育った。好きなように振る舞うことになんの抵抗もなかった。おまけに教区の噂で面目丸つぶれにされている。鬱憤がたまっていた。さすがのグレタも恥じ入って下を向いている。
その時、チューザーに向かってコップが飛んできた。コップは当たらずチューザーを超えて、床に敷いてある絨毯を、大きな音を立ててすべるように転がっていく。
「お母さんをいじめるな!」
ビクトールは顔を真っ赤にして、怒鳴った。
「お母さんをいじめる奴は出ていけ」
そう言ってビクトールは、ミルクピッチャーをつかむと、チューザーに投げつけた。その場にいた全員がおろおろして、ただ立ち尽くした。騒ぎを聞いて部屋をのぞいた、入り口の護衛たちが、中に入ってこようとする。
「ここは僕と、お母さんと、ママの家だ。お母さんをいじめるお前なんていらない。出て行け。お母さんは僕だけのものだ。お母さんの息子は僕だけだ」
そう言うとビクトールは近くにあった花瓶を、両手でつかみチューザーに投げつけた。あわてて走ってきた護衛が、ビクトールをつかまえるが間に合わない。
重い花瓶はチューザーに届かず、その足元近くに落ちて、自重でつぶれるように粉々になり、破片が辺り一面に飛び散った。反射的に身を縮めて、かがんでいたチューザーに破片が勢いよくあたり、頬と耳が切り裂かれ、血がつたい落ちる。
長い沈黙が落ち、誰も口を聞かなかった。
グレタはビクトールに、自分を「お母さん」と呼ぶようにしつけた。
それはグレタにとっては、孫を「母親」として支配することの意思表明だ。だが孫にとっては、自分の母親はグレタであると認識することだ。おそらくグレタは、「そんなつもりではなかった」と、自己弁護するかも知れない。
ビクトールにとって、新しい息子チューザーの登場は脅威だった。自分に取って代わる息子という存在として、なんの説明も、心の準備もなく登場したのだ。おまけにビクトールの家の中で、えらそうに振る舞って、ビクトールの母親に命令する。
ビクトールはチューザーによって脅かされ、その存在の危機を感じた。
自分の巣において、命の危険を感じた動物の反応は一つだ。攻撃のただ一言だった。




