育てたように子は育つ
「それで婚約者ステイビア嬢との初顔合わせをしたら、そこに私の従姉妹チェイルが入ってきたんだ」
「……」
「出て行くように言ったんだけど、『従姉妹なんだから、親睦を深める必要がある』と言って、出ていかないんだ」
「……」
「それできつく言ったら、母上が『従姉妹には優しくしなさい』って。おまけにチェイルの母親の叔母君も入ってきて」
「……」
「関係ないから出て行って欲しいと言ったら、総スカンをくらって」
「……」
「結局、女たちがステイビア嬢を質問攻めにして、私は一言も話せなかったんだ」
「……」
その場にいた道場生たちは、ぞっとして一言も口をきけなかった。
ウォルトンの話が本当なら、緊張する婚約者との初顔合わせに、関係のない従姉妹と叔母が押しかけ、それを制止しようとしたら、その場の女性たちに責められ、婚約者の前で面子を潰されたということになる。
男として、いや人間として遭遇したくない事態だ。ケントンは不思議に思って聞いた。
「ウォルトンのお父上や、ステイビア嬢のお父上はなにをしていたんだい」
「私の父親がちょっと席を外していた間のできごとなんだ。ステイビア嬢のお父上、ペイス子爵は、ただ眺めていた。……おそらく私を」
道場生たちは声にならない悲鳴をあげた。未来の舅の前での失態。
「それは、君のお父上が席を外す機会を狙っていたのではないか?」
ジュリウスの問いかけに、ウォルトンは急に顔色が悪くなった。
「そんな計算を? 確かに父上の命令はきちんと聞く」
「それで……、婚約はどうなったんだ?」
誰もが気になっていたことを、ケントンはずばりと聞いた。
「特に話は進んでいない」
ウォルトンは、率直な話、あまり想像力がなく危機感が薄い。だから他の道場生が感じる怖さがわかっていないようだ。
「それって……、要するにその時の顔合わせが原因で、婚約話が保留になっているということだろう。なにか実績を積んで挽回しないと、永遠に進まないぞ」
「え、そうなのか?」
ケントンは、まわりが言いあぐねていることを、次々に指摘していく。彼はとにかくはっきりと口にしないと、伝わらないことがあるのを知っているのだ。ジュリウスは途中で、「言い過ぎだ」と止めようとしたが、ウォルトンの反応を見ていると、これぐらい言わないと伝わらなさそうだ。
「まずはどうすればいいと思う? 従姉妹のチェイルと話したほうがいいよね」
ケントンが、ジュリウスの顔を見る。ジュリウスの日々の仕事のことを知っているからだ。ジュリウスから見ると、この問題の本丸は明らかだ。だがウォルトンは気がついていないようだった。どう言おうか考えあぐねる。人様の親御さんの悪口を言うのは、気が重いものだ。
「……その日の話は、お父上はご存じなのか?」
「いいや。ばたばたしていて」
「それならまずはお父上に相談した方がいい。ここで話したような内容を、すべて伝えるんだ」
「でも、父上は重要な点だけにまとめろって、いつも言うぞ」
「私には今日の話はすべて重要に思える。なあ、ウォルトン。自分ではつまらないできごとだと思っていても、私たちが強く反応するときがあるだろう。人によってなにが重要か感じ方が違うんだ。今日の話なんて特にそうだ。だからやってみてくれ」
「……わかった」
ウォルトンは少し不満そうに頷いた。
◇◇◇◇◇◇
ジュリウスが通っている道場には、ウォルトンという門下生がいる。
フォード男爵家の長男で、悪い噂がある。それはマザコンで、女の親族に頭が上がらないというものだった。ジュリウスは直接接した身としては、世の中で言われているマザコンとは、少し違うと思っている。
どうにも彼のまわりの女性たちの、発言力が強すぎるのだ。そして普通ならそう見られないように用心して振る舞う所を、ウォルトンはそうしない。その理由は、自分がどう見られているのかが、よくわかっていないからではと思っている。つまりは想像力や、思慮深さがない。
そして今日の会話でわかったことは、キーパーソンは彼の母親だということだ。ウォルトン本人が、毅然とした態度で親族に対しても、母親が背中から撃って足を引っ張る。これでは状況が改善しようにない。しかもウォルトンにはその自覚がない。あとは、男爵であるウォルトンの父親がどう動くか……、いや動かせるかだった。
◇◇◇◇◇◇
ウォルトンの従姉妹チェイルは、なに不自由なく育った。
街の有力者の娘で、伯母のミーア夫人は、フォード男爵家に嫁いでいる。悩みがあるとすれば結婚相手だ。チェイルは上流階級出身のため、結婚相手はいくらでもいる。だが自分自身の社会的地位が高すぎるため、普通に結婚相手を選ぶと、自分より低い地位の男性しか残っていない。かといってそれ以上、身分が高い相手となると貴族になる。さすがにそれは難しかった。
その中で唯一、社会的地位が高く、手に入れやすいのが従兄弟のウォルトンだ。
強く押せば簡単に従うし、将来のフォード男爵だ。これ以上ない相手だ。チェイルの両親も同じことを考え、ウォルトンをずっと教育してきた。例え社会的地位が高かったとしても、叔父叔母には従わなければならないと。貴族であっても、女性である従姉妹のチェイルを大切にしなければならないと。都合の良い常識を教えてきた。
これにはウォルトンの母親ミーアの、プライドが高い性格が上手く行った。ミーア夫人は、お世辞に弱く、おだてに乗せられ、特別な贈り物に弱いのだ。おまけに長男のウォルトンを溺愛しており、とにかく管理したがり、なんにでも口を出し、すべてを知っていないと気が済まない。
ミーア夫人のそういった行動を助け、ウォルトンが少しでも反抗しようものなら、夫人の前で言うことを聞かせる。それをアピールすれば、夫人の信頼を得るのは簡単だった。ウォルトンが少しでも、神経質で自立心があり、反発心の強いタイプだったら難しかったかも知れない。だが呑気で、物事を深く考えず、迎合するタイプだったから簡単だった。つまりチェイルの家族の中では、ウォルトンと結婚するのは決定事項だった。
だからチェイルは子どもの頃から努力してきた。さすがにチェイルだって物事がなんでも思いどおりになるとは思っていない。特に結婚ともなると、フォード男爵の意向が第一だ。だから嫁ぐにあたり、様々なものを習得してきた。事業を経営している男爵家のために、経理を覚えたり、外国語を習い、楽器だって得意だ。新聞を毎日読むし、父親の仕事を手伝い、関税の知識だって身につけている。それ以外にも男爵夫人として必要なものは、あらかた習っている。
お互いに十七歳で、後はもう嫁ぐだけとなっていたのに、フォード男爵が突然、婚約者を連れてきたのだ。焦って、見に行くとペイス子爵家の長女だとかで、お呼びではない。母と叔母のミーア夫人と力を合わせ、追い出してやった。いい気味だ。
◇◇◇◇◇◇
その日、ウォルトンは、ペイス子爵にお願いし、ステイビア嬢と二人きりで会っていた。場所はホテルの一室で、食事と眺めが最高級なことで有名だ。ステイビア嬢は、自分の侍女に書類を用意させていた。
「このように、今回の婚約はなかったことにしてほしいのです」
ウォルトンが書類を見ると、ペイス子爵家からの、婚約解消の申し入れのため、違約金は子爵家が支払うとのことだ。だが普通に考えれば、金銭を支払ってでも早急に手を切りたい相手と、先方に考えられているということだ。
「顔合わせの時は、叔母と従姉妹がたいへん失礼をいたしました。従姉妹にはよく言って聞かせますので」
「……」
「ステイビア嬢」
「従姉妹さんは問題ではありません。しょせんは余所の家庭の方です」
「では?」
「とにかくこの話は終わらせましょう」
ウォルトンはしばらく考え込んだ。
ウォルトンが話をすると、意図しない所で周囲が驚くことがある。それに先日、ジュリウスから、父親にきちんと報告しろと言われて意味が分からなかった。結局していないが。そういうことではないか。
周囲がいろいろ言ってくれているのを、適当に流してしまった。それが習い性になり、誰もなにも言わず離れていく。ステイビア嬢も。
「ステイビア嬢。私ははっきりと言われないとわからない性格なんです。勘が悪くて。だからあなたの目から見たできごとを教えて下さい。お願いします」
ウォルトンは一度、席から立ち上がると頭を下げた。
「お願いします」
ステイビア嬢は少し驚いたようだった。
「あなたは受ける印象と、行動が少し違う方のようですね。ちぐはぐしているというか」
そしてはっきり言ったことによる不利益と、ウォルトンの願いを秤にかけた。
「いいでしょう。決して怒らないで頂きたいのですが」
「まず、あなたの評判はかなり悪いです。ご存じですか? あなたは、その……母親の言いなりで、叔母や従姉妹などの召使いのようだと。そしてその噂は、あの顔合わせの日に真実だとわかりました」
ウォルトンは愕然として、ステイビア嬢を見た。自分ではそんな風に思ったことがなかった。
「ですが、一点だけ予想と違いました。それはあなたは毅然と、ご親族の乱入を防ごうとした所です。かなりきつく仰ってました。
もう一点予想外だったのは、それにもかかわらず、ご親族が強引に乗り込もうとしたところです。あれはもう暴力で、護衛を呼んでもいいレベルでした。
そして驚いたのが、男爵夫人であるあなたのお母様が、ご親族の味方についたことです。秩序と格式を重んじるはずの貴族夫人が、自分の息子を裏切って、背中から撃った所です。
息子の面子を潰して、客人であるペイス子爵家に無礼を働いた。なにがあったかまでは知りませんが、お母様にあそこまで憎まれているなんて……。そんな方に嫁ぐことはできません」
ウォルトンは話の途中から混乱し始めた。母親には溺愛されている。うっとうしいほどだ。どこから憎んでいるなんて話題が出たのだろう。ステイビア嬢はきつい言葉を使ってしまい、申し訳なさそうな目で見てきた。
「なにかの誤解です。母は私のことを愛していて、憎んでなんていません」
この時ステイビア嬢が、反論したり、冷静に説明したりしたら、ウォルトンはなにも思わなかった。だが思い切り、憐憫の目で見てきたのだ。少し瞳をうるませて、まるで可哀想なものを見る目で見てきた。ステイビア嬢は明確にものを言うのをやめて、ウォルトンのために優しい言い方に切り替えた。
「すみません。そうですわね。お母様はあなたのことを愛していらっしゃいます。母親ですもの。ただ少し方法が違っているだけで。
あなたよりも親族を優先し、あなたの面子を潰し、あなたの客人に泥を塗るのも、なにか理由があるのでしょう。
私が言いたかったのは、フォード男爵家では、ウォルトン様は大事にされていない。まるで召使いのように扱われているということです。そのような男性の元へ嫁いでも未来はありません。だから婚約を解消したいのです」
ウォルトンは、しばらくなにも考えられなかった。だがよく見るとステイビア嬢についている使用人たちは、皆、なにか物思うように下を向いている。感情を露わにしない使用人たちに、同情されているのだ。おそるおそる自分の後ろを見ると、ウォルトンの使用人たちは感動に震えていた。ステイビア嬢を、「よくぞ言ってくれた」という目で見ている。自分がどんな目で見られていたのかを、ようやく知ったのだ。
ステイビア嬢が付け加えるように口にした。
「ああ、それと……。確かにあなたの従姉妹チェイル様は厄介ではあると思います。平民の分際でこの私に向かって、『自分のほうが男爵夫人に相応しい』と、宣戦布告してきました。彼女は男爵夫人になるための様々な教養や、勉学を身につけたそうで一々自慢してきましたわ。ですが貴族にとって最も重要な、身分制度を理解できていないようですが」
「それはどこで言われたのですか」
「お宅から帰る時に。隣にはミーア男爵夫人もいらして、それを聞いてもにやにやしてらしたわ。嫁は徹底的にいびると言われました」
ウォルトンは、敵は従姉妹のチェイルだと思っていた。そして少し話せばわかってくれるだろうと甘く考えていた。だがここへきて、どうにもならない敵が現れたようだった。
机の上には婚約解消の書類がのっている。これに署名すれば、これ以上ペイス子爵家に迷惑をかけないですむ。だがウォルトンにとってはなんの解決にもならない。新しい婚約者を連れてきても同じ問題が繰り返されるのだ。そして正直、それはウォルトンの手には負えない。
ステイビア嬢はそんなウォルトンをじっと観察していた。
「あのう、ウォルトン様。私から一つだけ提案がございますわ。もしかしたらあなたのお役にたつかもしれません」
◇◇◇◇◇◇
ウォルトンは、ペイス子爵家から使わされた侍従と、それに関する書類を持って、父親に面会を申し込んだ。父親のフォード男爵は、気軽に息子を執務室に招いた。
従姉妹一家の干渉により、ペイス子爵家との婚約が解消の危機に陥っていることと、その根本的な原因が母親のミーア夫人であることを説明した。しかし夫に対しては従順で外面のいいミーア夫人の行動を、信じてもらうことができなかった。そもそも先日までウォルトン自身がそれを問題にしていなかったのだ。突然なにをと思われても仕方がない。
だが男爵はウォルトンの話をよく聞き、自分で確かめることにした。ミーア夫人も部屋に呼び、ウォルトンの今後の話をする。
「ウォルトンは、ペイス子爵家のステイビア嬢と結婚する。それは決定事項だ。いいな」
「……」
知らない女なんか嫁にする気はない夫人は、あいまいにうなずいた。後でウォルトンに「嫌だ」と言わせればいいや、というていどに考えていた。
「ウォルトンもそれでいいな」
「はい」
「じゃあ。この書類に署名しろ」
ウォルトンが署名しようとすると、夫人は駆けよりウォルトンの手を握りこんだ。
「待って。ウォルトン。チェイルはどうするの。あなた、チェイルのことが好きなんでしょう。愛し合っている二人を引き離すなんて」
男爵はウォルトンに確認した。
「ウォルトン。チェイルのことが好きなのか」
「いいえ。まったく」
まるで抗議するように夫人は大きな声を出した。
「嘘よ。子どもの頃、結婚の約束をしたって」
「していません」
「あなたは覚えていないだけよ」
「子どもの頃から、一度たりとも好きだったことはありません」
「いつも一緒だったじゃない」
「それなら言わせて頂きますが、母上の親戚だから我慢していただけで、チェイルも叔母様も叔父様も大嫌いです。押しつけがましく、人の話を聞かない。それでもずっと気を遣っていたのです」
「それはあなたの勘違いよ。急にどうしたの喧嘩でもしたの?」
「元からずっと嫌いです」
「そんなのチェイルが可哀想じゃない。あなたのためにずっと努力をしてきたのよ。ひどい」
ウォルトンはなにを言っても無駄だと黙って、父親を見た。男爵は初めて見る夫人の取り乱しように驚いている。
「私にとっては、これが普通の母上です」
「ウォルトンは、ステイビア嬢と結婚したいのだな」
「はい」
男爵はもう一度ウォルトンに確認した。
「駄目よ」
夫人は大声で叫んだ。
「ウォルトンはチェイルと結婚するのよ。そうすればみんなが幸せになるのよ。どうしてわかってくれないの」
「お断りします」
ウォルトンがそういうと、ミーア夫人は心底憎いものを見る目でウォルトンを見た。
「許さない。私を裏切った、お前を絶対に許さないわ」
男爵は護衛に合図し、夫人を部屋の外に連れ出した。次に入ってきたのは、ウォルトンの弟のデイビーだった。いつものとおりにやにやとした、感じの悪い含み笑いを浮かべている。
「デイビー。ウォルトンがペイス子爵家に婿養子に入ることになったんだ。だからお前は次期男爵となる。突然の話だが」
デイビーはめずらしく素で驚いたような顔をした後、用心深く父親を見た。
「なにかの罠でしょうか」
「息子を罠にかけてどうする」
「おもしろいかなと」
「おもしろがるのはお前だけだ」
デイビーは、率直に言って性格が悪い。人を罠にはめたり、ホラ話で騙したりもする。それなのになぜか人を育てるのが上手く、彼の部下は優秀なものが多い。頭の回転の速さは天下一品で、ウォルトンは内心ではずっと、当主に向いていると思っていたのだ。
「兄上は……、それでよろしいのですか」
「ああ、私は当主に向いていないよ」
「それは知っています」
「はっきり言うな。母親にも叔母夫婦にも従姉妹にも支配されてしまう。私なんかが当主になったら最後だ」
「ですが婿養子には向いていますね」
「そう思うか?」
「支配されやすいと言うことは、波風を立てない性格とも言えます。それに私は兄上が支配されやすいとは思いません。兄上は環境に順応しやすいんです。自分の意志を持ち、だが周囲と衝突しない。これはなかなかできることではありません。それに最も有利な面はストレスをためにくい点ですね。ペイス子爵家に行かれてもどうかお元気で」
デイビーは少し……かなりさびしそうに兄を見た。
ウォルトンはちょっと照れたように笑った。
この小憎らしい、でもいざという時頼りになる弟と、離れるのがさびしかった。
デイビーは、前男爵夫人そっくりの容姿で、姑にいびられ倒されたミーア夫人に憎まれている。デイビーが跡継ぎになるとすると、この家の中でのミーア夫人の肩身は狭くなるだろう。溺愛していたウォルトンはもういなくなる。
ウォルトンは自宅の荷物の整理をすると、まずは慣し期間として一年間、ペイス子爵家に住むことになった。そして学院の卒業を迎えたら、結婚する予定だ。
◇◇◇◇◇◇
「ちょっと、ウォルトンはどこに行ったのよ。それにあんたが跡継ぎって本当?」
デイビーが与えられた、跡継ぎ用の執務室にチェイルが勝手に入ってこようとして、護衛に止められている。デイビーは馬鹿を相手にする気にはならず、黙々と仕事を続けた。
「私、嫌だからね。あんたとなんか結婚するの」
貴族家へ嫁ぐのを希望している平民が、自分に選ぶ権利があると思っている思考が謎だ。
「もう、ウォルトンはどこなの」
「ウォルトン様なら、ペイス子爵家へ婿養子に入りましたよ。ステイビア様とご結婚なさいます」
「どういうこと?」
入り口で、デイビーの婚約者エルが、親切にもチェイルに教えてあげている。
「エル。早くこちらへ」
デイビーはエルだけを招き入れると、抱きしめた。
「私の唯一の癒やしよ」
「はいはい。癒やしだったウォルトン様がいなくなってさびしいのね。仕方がないわね」
エルはデイビーの背中をぽんぽんと叩いた。
「うわあ、趣味悪う。男の趣味最悪じゃない」
チェイルはたまらず大きな声を出した。
「そうですか? デイビーはすごく可愛いのに」
「ねえ。ウォルトンはいつ戻ってくるの?」
「ですからペイス子爵家に縁づいたので、もう戻ってきませんよ」
「それじゃあ。フォード男爵家は誰が継ぐの?」
「そんなの弟のデイビー様に決まっているではありませんか」
「ええ、嫌だ。私、そいつ嫌いだもの。性格悪くて」
「そうですか」
チェイルの好き嫌いがなんの関係があるのだろうと、エルは不思議な顔をした。
護衛に止められたまま、しばらく考えていたチェイルは、ようやく言った。
「仕方がないわね。そいつで我慢してあげてもいいわ」
「……なにをですか?」
「だから結婚相手よ。そいつと結婚してあげる」
「えーと。結構です」
「なぜ?」
「だって、デイビーは私と結婚する予定ですから」
「あんた誰よ」
「ケイスリー伯爵家三女のエルです。何度もお目にかかっているはずですが」
「じゃあ、私はどうすればいいの」
「知りません。あのう、先ほどから、どうしてなんの関係もない私たちに話しかけてくるんですか?」
チェイルが無理矢理帰らされた後、エルは困惑していた。
「チェイルさんの仰っていることは意味が分かりません」
デイビーはエルを抱きしめたまま、静かに説明を始める。
「えーと、叔母一家と男爵夫人による、爵位簒奪未遂事件があったんだ」
「まあ、すごいですわ。まるで小説のよう」
「関係者が誰一人気づかない静かな簒奪で、跡継ぎを洗脳して自分のいいように操ろうとしていた。だから傀儡として育てられた跡継ぎは、その通りに、従順で、大人しく、でもちょっと鈍くて世間体が気にならない性格に育ったんだ。それで、そうやって育った自分が当主に向いていないと判断して、婿養子に」
「お兄様のことですわね」
「兄上は跡継ぎとして、大事にされていなかった。そういった人たちに囲まれていたんだ。だから、自分には大した価値はないと感じていた。そしてその通りに、自分の地位をあっさり放棄したのさ」
「当然の摂理ですわ」
「驚くことに、爵位簒奪を仕掛けていた連中は、誰一人として自分たちのやっていることに自覚がなかった」
「そんなことあるんですの?」
「それだけ、跡継ぎは組し易いと思われていたんだな。私から見ると柔軟なだけだったが」
「まあ」
「ついでにいうと、チェイルはどこにも嫁げないと思う」
「あら、どうしてですの?」
「あんな幼い頃から、フォード男爵家に嫁ぐって触れ回っていたんだ。庶民は公文書館で婚約関係書類を確かめるなんてことしないのをいいことに、男爵家に嫁ぐのを『確定事項』としていた。そうして一家揃って、男爵家の親戚であると振る舞っておいしい思いをしていた。ところが長男のウォルトンに逃げられ、次男の私も別の女性と結婚する。正確なことを知らない人々からすると、『結婚が決まっていたのに、兄弟二人から断られた』女性となるわけだ」
「まあ、大変ですこと」
「私に言わせると」
デイビーがエルの頭をなでながら言った。
「なにごとも、ほどほどにしておけってお話し」




