私が一番不幸
ベアトリーチェは、幸せな子どもだった。
裕福なキャップ伯爵家に生まれ、なに不自由なく育ち、当主である父親が亡くなった後も、しっかり者の姉ヘレンが、婿を取って跡を継いで、守ってくれた。
ヘレンは早くに亡くなった先妻の子どもで、その上、父親が亡くなり、たいへんな思いをして、ベアトリーチェを守ってくれたのだ。
ベアトリーチェの母親である後妻は健在で、実母がいる幸せな家庭だった。
ヘレンばかり、苦労と不幸を背負い込んだのだ。
だからベアトリーチェは、少しのことくらい、我慢しなければならない。我が儘を言ってはいけないし、贅沢を言ってもいけない。つねに謙虚で、人の話を黙って聞かねばならない。口答えなど以ての外なのだ。
ベアトリーチェが、初めてヘレンの婿ブロンソンに出会ったのは、二人が結婚した四年前だ。ベアトリーチェは十二歳だった。ブロンソンは、ヘレンと兄弟のようによく似た性格をしており、ベアトリーチェに会ったその場で、注意してきた。目上への口の利き方がなっていないと。
挨拶から、言葉遣い、立ち方から、お辞儀の仕方まで、一挙手一投足をあげつらったのだ。ベアトリーチェは口答えをしても、こういうタイプは意味がないと、ヘレンで慣れていたので、黙って聞いていた。そして最後に言われたのだ。
「目上の者が丁寧に教えてやったのに、お礼の一つも言えないのか」
もちろん、お礼を言った。
そしてもちろんそのお礼の仕方にも、文句をつけられたのだ。
ベアトリーチェは元々は、好奇心旺盛で、探究心豊かな性格だ。だから疑問に思ったことはすぐに聞くし、答えが得られないと落ち着かなかった。だが、ヘレンとの長いつきあいで、こういったタイプに、なにを言っても無駄だと学んでいたのだ。
『論理が破綻している』
『言っていることが、日によって違う』
『どうして脅すような口ぶりで、話す必要があるのか』
胸の内は疑問が渦巻いている。だが彼らに聞いても、答えは得られないのだ。だから黙って、自分のやりたいことに打ち込んだ。
ベアトリーチェのやりたいこと。それは植物の研究だ。
王都やその郊外は、変化に富んだ地形だ。内陸の王都と、近くにある港、その二つに挟まれた郊外の穀倉地帯。それに加えて塩害のあとが残る地域があり、狭い地域に様々な植物が密生していた。
なにが良いかというと、女性に生まれたため、野外の移動に制限がかけられてしまうベアトリーチェにとって、限られた地域で研究ができるというのは、願ってもないことだったのだ。
「女だてらに」「子どもだてらに」と言われながら、細々と研究にいそしんだ。
心の支えになったのは、同じように研究をしている、女性たちだ。
最初に知り合ったのは、ビアス子爵家のエバーレイだ。専門分野は全く違うが、彼女の風土病の研究に、植生は重要な関係があり、何度か手紙をやりとりしたのだ。とても美しい字を書く女性だった。次に知り合ったのは、ボウエン伯爵家のローズだ。ローズは医療の分野に限らず、広く深い知識を持った女性で、なにか困ったことがあって手紙を送ると、それに詳しい人間を紹介してくれる顔の広いところがあった。
だからベアトリーチェは女性だからという理由で、ろくに外出ができなくても、女性だからこその手紙のネットワークで、世界を広げていったのだ。
しかしベアトリーチェが十四歳になり、姉のヘレンがキャップ伯爵家を完全に牛耳り、婿養子のブロンソンが、家庭内での自分の地位を確固たるものにすると、状況が変わってきた。
ヘレンとブロンソンの二人は、ベアトリーチェにいちゃもん……心配をするようになり、ベアトリーチェの行動に、あれこれ口を出し、制限をかけるようになったのだ。
そのことに二人は全くの無自覚だった。本当にベアトリーチェのためを思って、やっているのだ。二人の中ではベアトリーチェは、幼い少女のままで、それはつまり、なにを言っても、やってもいい存在となっていた。
気の毒ではあるが、若くして伯爵家を継いだ重圧に、ヘレンは耐えられなかった。そのストレスをベアトリーチェにそのままぶつけていたのだ。それを見たブロンソンは、なにも考えず、ベアトリーチェは『そんな風』に扱っていい人間だと受け取り、そして婿養子に来た自分のストレスをぶつけた。
ヘレンの実母が亡くなったのは、確かに残念なことであった。だがヘレンはそのことをいつまでも根に持ち、自分は一番不幸な人間で、まわりは優しくするべきだと、心の中に怒りと不満をため込んでいた。だから母親が生きているベアトリーチェに、あの手この手で八つ当たりをしたのだ。
誰かが、「そうは言っても、実父である伯爵を亡くしたのは、ヘレンもベアトリーチェも一緒ではないか」なんてことを言おうものなら、半狂乱になって否定した。ベアトリーチェには実母がいるのだから、まだマシだと。ヘレンは、父も母も亡くしたのだから、一番不幸で、可哀想な人間だと。「自分は不幸な人間だ」と声高らかに主張し、同情を強請ったのだ。だからベアトリーチェは父親が亡くなって、一番悲しいときに、それを口に出すことができなかった。
ベアトリーチェは自分の手紙を、勝手に見られるようになり、さすがに抵抗した。だが当主である姉と、当主代行の義兄の二人がかりで説教されて、諦めが入った。そしてベアトリーチェの世界は、少しずつ浸食されていったのだ。
ベアトリーチェはまだ未成年のため、お茶会に参加するときは姉のヘレン、場合によっては義兄のブロンソンも一緒だ。そういった場所で、ヘレン夫妻はベアトリーチェの些細な点をあげつらい、まわりに謝罪して回った。ベアトリーチェのために説教をしたのだ。
家庭内で何年も続けられたその習慣は、いつしか抵抗なく、人前でも行われるようになった。むしろ人前だからこそ、ベアトリーチェを見下すことで、ヘレンは一番不幸な自分を宣伝でき、一層力がこもった。
ベアトリーチェはとても恥ずかしかったし、不快だったが、もうほとんどの感覚は麻痺していた。周囲の大人たち、特にお茶会の主催者は、ヘレン夫妻と、ベアトリーチェを引き離そうとしたのだ。それは最初は、うまく行った。そういった時のベアトリーチェはのびのびとし、明るい笑顔を見せた。だが段々と雲行きが、怪しくなっていったのだ。
ベアトリーチェと引き離されたことに、気がついたヘレン夫妻は、わざわざ子どもたちだけの席を探して、そこでベアトリーチェに長々とお説教をするようになった。そして脅し文句としてこう言った。「もうここのお茶会に出るのは禁止だ」と。そしてヘレン夫妻が、ベアトリーチェが素直に言うことを聞かない、と勝手に判断すると、それだけでお茶会も、手紙のやりとりも禁止になってしまうのだ。
ベアトリーチェは焦り、なんとか二人のご機嫌を取り、外とやりとりしようとした。だが徐々に奪われていったのだ。お茶会の誘いも来なくなり、手紙も来なくなってしまった時、世界から見捨てられたような気がした。たった一人のベアトリーチェは、黙々と研究に励んだ。もう頼れるものは、それだけだったからだ。
だがやがて十六歳になって、ベアトリーチェは学院に入学することになったのだ。それは希望であり、絶望でもあった。なぜなら、ベアトリーチェは手紙を取り上げられ、自分から送る手段も取り上げられた。だから今までの文通相手は、送った手紙に返事も寄越さない、失礼な人間と思っているだろう。そんな相手がたくさんいるのだ。覚悟して、謝罪して回っても信じてもらえるかどうか。その状態で学院生活を始めるのは、とてもつらいだろう。
新入生として、入学日に校舎に入り、案内のとおりのクラスに入ろうとすると、数人の女生徒が待ち構えていた。
「ベアトリーチェ。良かった。学院に来られたのね」
「久しぶり。心配してましたのよ」
「ここでお会いできて、本当に良かったですわ」
「あなたがベアトリーチェ様? いつもお手紙をいただいていたエバーレイです」
「お手紙で親しくして頂いたローズですわ」
取り囲まれて、安堵の声をかけられる。みんなベアトリーチェの事情を、知っていたのだ。それからのベアトリーチェは幸せだった。さすがのヘレン夫妻も、学院に行くなとは言わない。だからのびのびと学ぶことができたのだ。
だが相変わらず、家庭内では不遇だった。その頃にはベアトリーチェは、駆け出しの植物学者として名を馳せており、そんな彼女の研究が足を引っ張られていることを、いろいろ思う人が増えてきていた。だからそういった人々は、己の立場を利用して、ヘレン夫妻に一言申し上げるのだが、ヘレン夫妻は、今でもベアトリーチェをただの子どもだと思い込んでいて、話が通じないのだ。しかしこれを放置していては、植物学会の損失と考える者は多かった。ベアトリーチェは女性、それも若いということで、良くも悪くも注目されていたのだ。
特に学会の名誉理事をしている、ロモア侯爵家の次男オーギュスドは、同じ学院生のベアトリーチェの境遇が気になって仕方なく、なんとしてでも救い出したいと思っていた。
だから侯爵家主催の夜会で、ベアトリーチェを主賓として招いたのだ。パートナーはオーギュスドが務めるから、ヘレン夫妻は来なくていいと言外に伝えたのだが、まったく通じなかった。二人は、侯爵家主催に飛びつき、夜会で大騒ぎをし、ベアトリーチェのまわりをぶんぶんとハエのように飛び回り、つまらないことにいちゃもんをつけた。挙げ句の果てに、主賓のベアトリーチェに向かってこう言ったのだ。
「このような場はお前にはまだ早い。もう帰れ」と。
オーギュスドの周りにいた高位貴族たちは、それを見せられ辟易した。その場にいたローズは、オーギュスドとベアトリーチェにこぼした。
「お姉様のヘレン様は、ベアトリーチェ様がからまないと、こう言ってはなんですが、まともですわ。なにが一体そうさせるのかしら」
「姉は……、苦労した人ですので、恵まれた育ちの妹が脚光を浴びるのが、我慢できないんだと思います」
「それは要するに、そう思うことで、ベアトリーチェ嬢にはなにをしてもいいと、思っているということではないか」
ベアトリーチェは下を向いて途方に暮れた。その姿を見たオーギュスドは、深く憤った。だから次の手を打ったのだ。
夜会の噂は、あっという間に広がった。だからヘレン夫妻に、親切心から忠告する人だっていたのだ。だがどうにも、ヘレン夫妻は、ベアトリーチェが自分たちの手を、離れつつあるということが理解できないのだ。
ベアトリーチェが華やかな夜会に招待されるようになると、ヘレン夫妻は、ベアトリーチェをどうにか貶めようと、あれこれ手を回した。遅刻させたり、早退させたり、出席を禁止させたりしたのだ。そして自分たちは出席して、ベアトリーチェの失敗を謝罪して回った。
だがある日、植物学会の後で行われる夜会に、どうしても行きたいと言ったベアトリーチェを見て、絶望に突き落とす絶好の機会とばかりに、出席を禁止した。そして夫妻だけで行く準備をしていた。すると王城の騎士と、続けて迎えの馬車がやってきたのだ。騎士は、第三王子殿下からの言づてを口頭で述べ、ヘレン夫妻に説教した。
「本日は、殿下の采配により、ベアトリーチェ嬢を招待したはずだ。今すぐここへ。なぜ出席を禁止したのだ」
真っ青になったヘレン夫妻は、あわててベアトリーチェを呼びにやった。すでに準備していたベアトリーチェは、そのまま馬車に乗り城に行ったのだ。
ヘレン夫妻もあわてて追いかけると、ベアトリーチェは王族席の間に立っていて、第三王子殿下ルークからお言葉を賜っているところだった。
「へえ、君が、オーギュスドの」
「……」
「おもしろい姉夫婦に面倒を見てもらっているんだってね」
ルークはにやにやと、ベアトリーチェとオーギュスドを見た。第三王子殿下は性格が悪いことで知られていて、人の災難が大好きなのだ。だが意外に、面倒見が良く、部下のオーギュスドから頼まれれば、茶番に付き合うぐらいの度量は持ち合わせていた。ヘレン夫妻はそれを見て、近くに寄ろうとした。だが護衛に止められる。
「あそこにいるのは妹なんです」
「お下がり下さい」
「でも妹は入っているではありませんか」
「下がりなさい」
「ベアトリーチェ!」
ヘレンは大声でベアトリーチェを呼んだ。
「今すぐ戻りなさい。あなたなんかがいていい場所ではありません」
オーギュスドはあまりの振る舞いに、眉根を強く寄せた。ルークは、口元を押さえ、肩を笑いでぷるぷると震わせている。
「なんて傍若無人な」
「聞きしに勝るとはこのことだな。オーギュスドも、おもしろい生き物を連れてきたものだ」
ルークは意地悪そうな笑みを浮かべて侍従に囁いた。
「しばらく見物しててもいいか?」
「なりません。対処を」
侍従に怒られたルークは不満そうに言った。
「夫妻を排除しろ」
ベアトリーチェはあまりのことに、具合が悪くなりそうだった。ルークはまわりに指示を出した。
「ヘレン夫妻を厳しく叱責しろ。ベアトリーチェ嬢を少し休ませろ。オーギュスドは結婚を申し込め。それで万事解決じゃないか。なにをグズグズしているんだ」
オーギュスドは真っ赤になって、否定した。
「わ、わたしの気持ちは、尊敬であって、そんないやらしい気持ちではありません。ただ、ベアトリーチェ嬢が、アリアに似ているから、助けたかっただけで、だから、その」
ルークは、うんざりとした顔で言った。
「他人にとってはどうでもいいよ。その違い。じゃあ、僕が申し込んでもいいの?」
オーギュスドは真っ青になった。なぜならルークは、単に他人が嫌がるからという理由で、そういったことをしそうな人柄だからだ。
「殿下みたいな極悪人には、絶対に。渡しません」
そう言ってオーギュスドは、ベアトリーチェを連れて行ってしまった。
「極悪人って……、上司に向かって。まあ、否定はしないが」
控え室で休んでいたベアトリーチェに、オーギュスドは結婚を申し込んだ。
「私には、天文学を研究していた、姉のアリアがいたんだ。早くに亡くなってしまったんだが」
オーギュスドの姉アリアは、女だてらに研究者の道を進んだ。ほんの数年前のことだが、それでも今よりももっと女性に厳しい時代で、男性だったら簡単なことが、なにもできなかった。オーギュスドはアリアが大好きで、だからその苦労を身近で見て、性別が違うことで生まれる大変さを肌で知っていた。
「姉の一件があって以来、性別で区切るのがなんだか馬鹿馬鹿しく思えてね。男性でも女性でも、志があるなら、門戸を開くべきではと考えてしまうんだ。だから君の話を聞いたときに、ただでさえ女性の研究者は、足かせが多いのに、家族に足を引っ張られるなんてって思ったんだ」
オーギュスドは苛立ちから、拳を握りしめた。
「だから、その、……君を家族から守りたいんだ。私と結婚してくれれば、研究活動を全面的に応援できる。二人で学問の道を究めよう」
こっそり聞いていたルークは、「色気ねえなあ」とぼやいた。
「私なんかを……。はい、喜んで」
ベアトリーチェは感涙にむせんでいる。ベアトリーチェはもともと、若き研究者のオーギュスドを前から尊敬していた。そんな人物とお近づきになれて、光栄だと思っていたのだ。
研究者として似たもの同士の二人は、こんな求婚劇でいいらしい。これで話は決まりだ。侯爵家からの結婚申し込みを、小さな伯爵家がはねのけられるはずはない。ましてや、面倒見の良い第三王子が立会人を務める予定なのだ。
まどろっこしかったオーギュスドは、動き始めるとあっという間で、侯爵邸でベアトリーチェと新生活を始めた。学院に通うベアトリーチェは、目に見えて生き生きとし、次々と論文を書き始めた。結婚式は一年後の予定だ。
◇◇◇◇◇◇
ベアトリーチェとオーギュスドは、その日、ボウエン伯爵家のお茶会に招待されていた。保護者としてヘレン夫妻も来ている。ヘレン夫妻は大人たちのための席に座っており、遭遇しない予定だった。
だがヘレン夫妻は、ふらふらと歩いて回り、ベアトリーチェを見つけたのだ。最近、ヘレン夫妻は孤立しており、まわりから距離を置かれていた。それというのもベアトリーチェに対する振る舞いで眉をひそめられており、そのベアトリーチェの侯爵家への嫁入りが決まったことで、将来が見込めなくなったからだ。
夫妻の方も、嫌なことがあれば、そのままベアトリーチェに八つ当たりすれば良い、という生活を長年続けたことで、社会人として当然の、我慢や、落ち着き、思慮深さなどをまったく学ばぬまま年を重ねていた。別居により、ベアトリーチェというはけ口がなくなったことで、最近の夫妻は口げんかが絶えなくなっていた。麻薬のように、ベアトリーチェという存在に依存していた夫妻は、本物のベアトリーチェに会える機会に飛びついたのだ。
ベアトリーチェとオーギュスドは、年若い者が集まった席で、談笑していた。その場の主人のローズや、エバーレイを始めとした、研究にその身を捧げている青年たちが、近況をやりとりしていたのだ。
ヘレン夫妻は、ベアトリーチェを見つけると、まるで砂漠でオアシスを見つけた旅人のようにしがみつき、その日の、服装から、髪型から、座り方から、なにからなにまで文句を言い始めた。そして、このような無作法な妹で申し訳ないとまわりに謝罪し、ベアトリーチェに、こう言った。
「このような立派な場は、お前のような子どもには相応しくない。いますぐ帰りなさい」と。
その場にいた人々は、ベアトリーチェを守るように身構えた。ベアトリーチェは恥ずかしさから、消えてしまいそうだ。そして主人のローズと、婚約者のオーギュスドは立ち上がった。
「ベアトリーチェ様は、本日の主賓ですの。新進気鋭の植物学者として、お招きいたしました。ご来席頂けましたこと、誠に光栄ですわ」
「それはきっとなにかの間違いです……。あの子が学者だなんて。妹はなにもできません」
ヘレンは、ローズの言葉をすぐさま否定した。
「ベアトリーチェは、植物学会に所属し、論文も発表している。立派な学者だ」
学会の名誉理事を務めているオーギュスドは、ベアトリーチェの身分を保証した。
「……適当なごまかしを言っているに違いありません。なにもできない子なのですから」
ヘレン夫妻はかたくなで、ベアトリーチェのことを、信じようとしなかった。ローズはにこやかに言った。
「それはつまり、ボウエン伯爵家の、わたくしの言葉を信用なさらず、ロモア侯爵家のオーギュスド様の、ご発言もお認めにならないと」
「そ、それは。その、そんな大げさなことを言ったつもりは。皆様、なにか誤解されていらっしゃるのです。妹はなんにもできない子どもなのですから」
「袂を分かったということだな」
オーギュスドが力強く言った。ローズも頷いている。
「私たちは別の世界を、生きているようですわね。ご夫妻は、ベアトリーチェ様をなにもできない子どもだと。ですが、わたくしどもにとっては、ベアトリーチェ様は素晴らしい功績を作るべく、日々努力されていらっしゃる専門家ですの。あなた方がなにを言おうと、それが覆ることはございません。あなた方が口でどうこう言ったとしても、ベアトリーチェ様がこれまで重ねてきた努力は、消えることはないのですから。……それで」
ヘレン夫妻は、突然強い口調でもの申され、たじろいだ。
「本日は、お引き取り願えますか」
招待した側が、帰れという最大級の非礼と侮辱を受け、夫妻は言葉を失った。
「先ほども申し上げたとおり、ベアトリーチェ様は本日の主賓ですの。あなた方はベアトリーチェ様の保護者だから、招いたにすぎません。そのベアトリーチェ様を帰らせるなら、随伴のお二人にも帰って頂きます。だって必要なのはベアトリーチェ様だけですもの」
痛いほどの沈黙が流れた。その後、オーギュスドが口を開いた。
「ああ、それと。三週間後に開かれる王城での夜会。お二人は来なくて結構です」
「なぜですか」
ヘレン夫妻は悲鳴のような声を上げた。高位貴族が招かれる盛大な夜会だ。派手で華やかで大勢の有名人が来るのだ。
「あの夜会では、ベアトリーチェは貴賓として招かれています。今言ったとおりに新進気鋭の学者としてね。そして私は婚約者としてではなく、学会の理事として招かれている。つまりは今回の夜会は、第三王子殿下が主催なさる、芸術や学問など、社会になにかを貢献した人物を中心に、催される会なのです。ですが、あなた方は仰いましたよね。ベアトリーチェはなにもできないと。なにもできない人物の、保護者がなにをしに来るんですか」
「それは……、その、でもベアトリーチェは招待されて……」
「あなた方の世界では、なにもできないんでしょう。だったら招待はなにかの間違いではないのですか。なにかの誤解ということです。今から王城に連絡して、招待を取り消す必要がありますね」
「ですが、……招待されていますし」
オーギュスドは張りのある声を出した
「そうです。国から社会に貢献した、貴賓として扱われています。あなた方がどう言おうとね。恥ずかしくないんですか。人前でベアトリーチェをあげつらって、なにもできないとこき下ろし、その癖、ベアトリーチェがその功績で、華やかな場に招待されると、まるで自分たちが招かれたように大きな顔をする。いい年をした大人が、目下に取る態度ではありません」
年下のオーギュスドに、説教をされたヘレン夫妻は、なぜそんなことになっているのか、どうしてローズやオーギュスドが厳しい態度を取るのか、本当の意味はわからず立ち尽くした。そして強引に帰らされ、自宅で茫然としたのだ。その怒りをぶつけるベアトリーチェは、もういなかった。
◇◇◇◇◇◇
ベアトリーチェのような女性、それも年若い人物が、その貢献を認められ、夜会に招待されたというのは、新聞記事になるほど話題になった。世の中は性別によって、門戸を狭くする所があるが、同時にその分野に数少ない女性または男性が入ってくると、それだけで持てはやす側面もある。
ベアトリーチェは時の人になり、様々な場に招待された。それに波及してヘレン夫妻も招待されるようになったが、その波はすぐにひいた。夫妻は話題のベアトリーチェについて、幼少の頃を含めてなんの話題も提供できず、けなすことしかできなかったからだ。
気がつくと招待状はめっきり減り、外出先で知り合いに声をかけても、やんわりと避けられ、さすがに傍若無人なヘレン夫妻も、反省するようになった。冷静になり新聞を読むと、ベアトリーチェを始めとした若手の研究者の活躍が報じられ、自分たちの振るまいが、時代に逆行していたことがわかる。ヘレンは両親を早くに亡くし、一人でキャップ伯爵家を切り盛りしてきた。とても苦労してきたのだ。
だからなんの苦労もなく育ち、実母もいて、その上、侯爵家に嫁ぐベアトリーチェを、一人前に認めることがどうしてもできなかった。だが、世の中がこうなってしまった以上、従うしかない。その時はそう思ったのだ。
伯爵家以上が招待された王城の夜会で、ヘレン夫妻は久しぶりにベアトリーチェを見かけた。ベアトリーチェはオーギュスドと並び、高位貴族の子息子女たちと研究について話している。家では見たことがないほど明るい顔をしている。ヘレンはそこにふらふらと近づいていった。ベアトリーチェたちは、研究の苦労について話題にしていて、いかに大変かという苦労話で盛り上がっていた。だがそれを傍で聞いていたヘレンは、なんの苦労もしたことのないベアトリーチェが、苦労の大変さを語るのを聞いて、かっとなってしまった。
「ベアトリーチェ。あなた苦労なんてしたことないじゃない」
ヘレンがいるとは思わなかった人々は、静かになった。
「苦労なんてしたことある?」
ヘレンの夫ブロンソンが止めようとしたが、怒りのあまり止まらなかった。
「私はお母様を早くに亡くして、お父様まで。伯爵家を継がないといけなかったし、大変だったのよ。私ばっかり苦労して。私ばかり不幸よ。あなたなんて、なんの苦労もしていないじゃない」
ヘレンはどうしても認めなかったが、さすがに世の中でベアトリーチェが評価されているのは、知識としては知っていた。だが、苦労してきたヘレンに対して、なんの苦労もしてこなかったベアトリーチェが、『苦労している』なんて死んでも認められなかった。それはヘレンを否定するも同じだったのだ。その場にいたローズが言った。
「研究者は皆、苦労しています。いえ、研究者だけでなく誰もが苦労しています。苦労していない人間なんていますか?」
「妹がなんの苦労を、していると言うんですか」
「ベアトリーチェは植物学者として功績を残している。その分、苦労しているのは当然だろう」
オーギュスドも呆れた顔で、ヘレンに言った。
「そんなわけない。どうせなにか適当にこしらえて学者を名乗って、女だからって、物珍しさにちやほやされているだけでしょう」
その場の空気が凍ったのは、ヘレンにすらわかった。この場にいるのは、ベアトリーチェのようになにかの研究にいそしむ若き研究者たちだ。女性も多く、そしてほとんどが高位の貴族だ。その人々に向かって、代表格であるベアトリーチェを、「実は大した研究もしていない」「女だからちやほやされているだけ」と侮辱して、敵に回したのだ。
オーギュスドは静かに言った。
「ヘレン御夫妻の仰りたいことは、よくわかりました。『私たち』とは、相容れないようだ。これからは別々に過ごしましょう」
そう言って背中を向けた。待ち構えていた侍従が、ヘレン夫妻を末席の方へ案内しようとする。
「待って下さい。私はただ、私に比べてベアトリーチェが、苦労をしていないと言っただけです」
「そうですか。あなたの世界ではそうなんでしょう」
「本当のことです」
「……私はベアトリーチェは普通よりも、苦労していると思っています。姉夫婦に足を引っ張られ、人間関係も支配され、それでもくじけなかった、意志の強い女性です。それに比べたら私なんて、とても、とても。身分が高かったから、なんの苦労もなかったです。最初に発表した論文が、個性的だと評価され、若輩なのにトントン拍子に、名誉理事に祭り上げられました。この私、ロモア侯爵家のオーギュスドは、ベアトリーチェに比べれば、なんの苦労もしていません」
我に返り、侯爵家を敵に回すことに、気がついたヘレンはあわてて反論した。
「そんなことはございません。オーギュスド様はご苦労なさったでしょう。師たる姉アリア様に先立たれたと伺いました。孤独の中で研究に勤しまれたと」
「つまり私は苦労していると、評価するんですね」
「もちろんです」
「私よりベアトリーチェは、もっと苦労しています」
ヘレンはそう言われて、歯を食いしばった。ここでベアトリーチェは苦労していないと言えば、「私より」と言ったオーギュスドも、苦労していないと言うも同然だ。だがヘレンは、ここまで来ても、ベアトリーチェも苦労しているということが、言えなかった。それを本人は異常なことだと自覚できなかった。だが、夫のブロンソンを始め、この場にいる人々は、ヘレンの異常さも、ベアトリーチェを見下さないと気が済まないという執着も、透けて見えたのだ。
ローズはヘレンに言った。
「先ほどから、自分がどう思っているか、どう捉えているかといった話ばかりですわね。まるでご自分が世界の王のよう。ですから、もうこのようなやりとりは、終わりにしましょう」
「……終わるとは一体」
「さきほどから、申し上げているではありませんか。住み分けましょうと。あなたはご自分の世界にいればいい。私たちはベアトリーチェ様と過ごします」
「そんな。私はただ」
「あなたは人の話を聞く気はない。意見を受け入れる気もない。ただご自分がべらべらと話すだけ。そういうのをなんと呼ぶかご存じですか? 独り言と申しますの。ここは社交の場です」
ぐっと押し黙ったヘレンを、夫のブロンソンと侍従が連れて行った。残されたベアトリーチェは顔色が悪かった。
「申し訳ありません。ローズ様。あのような者の相手を」
「苦労したのね」
「いいえ。それほどでも。恵まれた育ちでしたので」
ベアトリーチェは反射的に否定した。それはもう呪いの言葉のようだった。そしてその返答を聞いたまわりの人たちは、心の底から思ったのだ。
「先ほどのことをなんとも思わないほど、今まで苦労してきたんだ」と。
自宅に戻ったヘレン夫妻は、喧嘩になった。ヘレンにもさすがに下手を打ったのは、わかっていた。若手の高位貴族を、敵に回したのだ。このことをベアトリーチェに直接、言ってやらないと気が済まなかった。だが、以降、ベアトリーチェが呼ばれる場には、ヘレン夫妻は呼ばれないようになった。結婚したベアトリーチェとオーギュスド夫妻は、ロモア侯爵家の外交官のような役割を担った。つまり多くの場に呼ばれ、対してヘレン夫妻は、呼ばれなくなったのだ。
自分が一番不幸だというのを見せつけるためだけに、ベアトリーチェに力を振るい、その世界を侵食し続けた。人々はそれを諫め、それでも止めないヘレンと、ベアトリーチェの世界を分けたのだ。だが、ずっと子どもで、なにもできないと言い続けたベアトリーチェの世界は広く、ヘレンに残された世界は少ししかなかった。いまや世界はベアトリーチェのもので、ヘレンの世界は侵食され、小さくなるしかない。
ベアトリーチェは幼い頃から、自分の世界の守り方を知っていた。ヘレンのような存在に負けず、黙々と自分の世界を広げる、確かな力を身につけていた。その力は、ヘレンによって鍛えられたものだった。
一方、ヘレンはなにかあると、ベアトリーチェに八つ当たりしてやり過ごしてきた。ベアトリーチェにずっと甘えて、そのまま大人になってしまったのだ。
苦労して育った妹と、甘えて育った姉。結果が大きく違うのは当然だった。
大勢の前で行われたヘレンの愚行は有名で、新聞報道では、ベアトリーチェは逆境をはねのけた「不幸な少女」として著名だ。率直に言って、素人にはわからない研究結果より、波瀾万丈な人生を報道した方が、新聞が売れるのだ。姉に異常な教育をされた「不幸」な少女。「苦労」を重ね、くじけず研究を続け成功したと。
人々は、「ああ。あの苦労された不幸な研究者」として噂した。
そういったお涙頂戴の報道を読む度、ヘレンは腹立ちが抑えられなかった。
ヘレンがたった一つだけ自慢できた、「私が一番不幸」という看板すら、ベアトリーチェに侵食されてしまったのだ。他ならぬヘレンの、たゆまぬ努力によって。
ヘレンは、今、不幸な気分だった。
なぜなら、ヘレンには「私が一番不幸」という点しか、誇れるものがなかったからだ。
「私が一番不幸」だと思えば、なにより幸せだったのだ。
ヘレンは本人の望み通り、不幸になれたのに、それがちっとも嬉しくなかった。




