寛大さの理由
ジュリウスはその日、王都の古い珈琲店に来ていた。
その古い雰囲気が、たまらないという話を、同級生がしていたのだ。
昔ながらのお店で、狭苦しい店内に、煙草と珈琲を楽しむお客がひしめいていた。
ジュリウスはここのところ、立て続いた任務で疲れており、コーヒーの香りを楽しみながら、体の力を抜いていた。
「あれ。君。王立学院の学生さんかい? 懐かしいなあ」
その時、隣の中年男性にとつぜん話しかけられたのだ。相手はジュリウスのタイを見て、学校がわかったようだった。
「僕も卒業生なんだよ。学科はなんだい?」
ジュリウスは適当に返事をしていたが、疲れからか、少しぼんやりしていた。そしてそれをいいことに、男性はべらべらと自分の話を始めたのだ。
男性はマルテスと言って、ハッチンソン子爵家に婿養子に入っていた。ハッチンソン子爵家には、有名な聖母マリアがいて、領民を慈愛の心で世話している。噂に疎いジュリウスですら知っているのだから、名が知られているのだろう。
マルテスとマリアは夫婦だった。だがマリアは聖母と呼ばれるのをいいことに、早朝から深夜まで、または連日連夜、困っている人のために飛び回り、夫婦生活もなく、無論子どもも生まれず、会うのはお金をせびってくる時だけと、マルテスは不満をもらすのだ。
マリアが孤児院や学校、病院をたてるせいで、領地の財政は傾き、そのことを注意しても、聖母マリアの親衛隊に、マルテスのほうが注意されるのだそうだ。
マルテスはもともと、領地経営をしっかりする、長女のアンナと婚約していたが、慈悲の心溢れる優しいマリアに乗り換えた所、失敗だったという話だ。
「結婚前は優しくて、良い子で、人のために尽くす子だったのに、変わってしまって」
「変わっていませんよね。結婚前から。マリアさんのやっていることは一ミリも」
つい、ジュリウスは素で返してしまった。
「変わっているじゃないか。夫に尽くさないし、家庭をおろそかにするし」
「マリアさんは、結婚前から、困っている人に尽くしていました。どうしてそれが、結婚したら、急に旦那さんに尽くすようになって、家庭に入ると思ったんですか?」
「だって、そんなの常識だろう」
「あのう、でも、マリアさんの姉のアンナさんと婚約を解消した時に、こう言ったんですよね」
『君のような平凡な女には飽き飽きした。マリアのように人に尽くす、非凡で素晴らしい女性を支えたい』と。
「つまり常識的な女性と結婚したいのなら、アンナさんのような平凡な女性と結婚すれば良かったでしょう。どうして人に尽くす、非凡な女性を選んで、一方的に支える道を選んだんですか?」
「だが、結婚したら夫に尽くすのは常識だ。子どもだって普通は作るだろう」
「えーと、では、あなたが平凡だと飽きてしまったアンナさんは、結婚後、どうされているんですか」
「……」
一応、質問をしたジュリウスだが、知っていた。
マルテスに婚約を解消されたアンナは、マリアと婚約していたハウス伯爵家のナイジェルと結婚したのだ。つまりは婚約を入れ替えたのだ。アンナは、散財するマリアという妹を領地で養っていただけのことはあり、優秀だった。ナイジェルと結婚した後、ハウス伯爵夫人として権勢をふるっている。夫を支え、六人の子どもに恵まれ、仲睦まじさは伝わってきた。
「不思議なんですが、マリアさんのように人に尽くす非凡さが、素晴らしいと言ったにもかかわらず、結婚後自分のために変わって欲しいと願っている。相手の素晴らしいと思った点を、どうして自分のためになくしてほしいと思うんですか」
目の前で新聞を読んでいた別の男が、たまらず笑い出した。肩を震わせていたのが、だんだん笑いが大きくなり、終いには声を出して笑い出す。男は新聞を下ろして顔を見せた。
「リック殿?」
「すまない。偶然居合わせたもので。上司がいると気が休まらないだろうと思って、静かにしていたんだ」
気がつくとマルテスは去っていた。ジュリウスは質問責めにしてしまったらしい。
「さっきの答えは簡単だよ。マルテスは自分と結婚したら、自分のために、当然マリアが変わってくれると思っていたんだ」
「どうしてでしょう」
「もう一つの、マリアの素晴らしい非凡な点については、結婚してそれを手に入れたら、他者に自慢ができるだろうと考え、だからこそ欲しかったんだ。自慢するために欲しかったものだから、生活に邪魔なら変わってくれないと困ると思ったんだ」
「自分の都合の良いところだけ欲しがるし、都合の良い考え方しかしないんですね」
「ああ、こういった考えはよくある普通のものだ」
「そんなに多いんですか」
「例えば結婚している男、または女と不倫をして、略奪したとする。当然その相手は次も浮気する。だがなぜか自分だけは浮気されないだろうと思い、再婚する、とかな。有名な実業家と結婚し、最初は自慢して回るが、その内、忙しいから仕事をやめろとせまる、とかな。どれもマルテスの例と似ているだろう。自分だけは大丈夫と思い込むんだ」
「都合良く考える人間が多いんですね」
「私からすると、ジュリウス君が、状況や人を正しく認識する能力を持っているのが不思議だ。私やレイモンド様のように、子どもの頃から、なにか訓練を積んだわけでもない。それに併せて人を信じる善良さを持ったままだというのも」
ジュリウスは思わず、リックを鼻で笑った。
「………………ジュリウス君が、鼻で笑った?」
リックがめずらしく動揺している。目の前には、初めて見る、皮肉な笑みを浮かべたジュリウスがいた。
「すみません。失礼な態度を取って。ただ、私の場合は、父が武術に打ち込んでいて、母も仕事に打ち込んでいて、夢を見ていられる子ども時代ではなかったのです。自分に都合良く解釈する暇などなく、つねに警戒し、準備を怠らないといけなかったので」
リックは仕事柄、ジュリウスの両親のことはよく知っている。
父親のオルダスは武術家として尊敬を集めている。母親は有名作家として、王都では知らない者はいない。作品内のことは自分で体験して記述するのを信条にし、冒険ものを書くときは冒険に出かけ、航海ものを書くときは航海にでかける。行動力が有り余っている二人なのだ。
だから二人の子どもだと言ったら、羨ましがる人はたくさんいるだろう。だが実際に、あの二人の子どもとして生まれたら……。
ジュリウスは投げやりな笑みを浮かべて、子ども時代の想い出を話した。
「幼い頃、父には修行だと言われて、山に置き去りにされたことがあります。
なんとか必死で持ち合わせの武器で猪を捕って、飢えをしのいでいたら、二週間目に祖父が助けに来てくれて、情けないですが、号泣しました。
祖父に連れられて、ようやく家に帰れたと思ったら、父には『最近、見かけなかったな。どこに行ってたんだ』と不思議そうに言われました。父は、新しい剣術に夢中になり、私のことをすっかり忘れていたのです。
その後、またしても、父に山に無理矢理、置き去りにされ、その経験から、荷物に常に、手斧、火打ち石、麻縄、釣り針、塩を入れる癖が抜けませんでした。父に抵抗できるほど、体が大きくなるまで。
母には冒険ものが書きたいからと、カナン地方の砂漠に、幼い頃、無理矢理、連れて行かれました。
灼熱の砂漠で熱死しそうになり、夜の砂漠で凍死しそうになりました。不思議なことに、別に体を鍛えているわけではない母は、案外、平気なんです。
サソリ除けの油をもらって、私は怖くてまわりの人を真似して丁寧に塗りました。母はそれを笑って、こう言いました。『面倒くさい。そんなの塗らなくても大丈夫、大丈夫』と。母の口癖です。大抵のことを面倒だと言い、大丈夫だと押し切るのです。そしてなぜか私のほうがサソリに襲われました。不思議なことに、サソリも母は狙わないんですよ。
本当に理不尽だと思いますが、母だけは、なにを食べてもお腹を壊さないし、生水を飲んでも平気だし、不用心にふらふらと歩いても、スリに狙われないし、怪しい人たちがたくさんいる場所で、うたた寝しても、強盗にすら合わないんです。
私は普通にお腹を壊すし、小さいから誘拐されそうになるし、それはもう散々な目に遭いましたが。母だけは平気なんです。
そうです。カナンみたいな、治安の悪い所を、母は夜中に平気でふらふらするんです。危ないからと何度も言うのに、いっこうに止めなくて、それでいて危険な目に遭ったことないんです。そして迷惑や災難はなぜかすべて私に降りかかってくるんです。あれはなんででしょう。それに……」
「あ、これ、長くなる」
リックがぼそりとつぶやいた。
要するに、ジュリウスは苦労人なのだ。
状況や人を正しく認識しないと、生き残れなかったのだ。希望的観測を持つ余裕もなかった。
だが両親の無茶ぶりは、悪意があったわけでもないので、人格が歪むような事態にならなかったのだ。ひとえに祖父母の存在があったからだろう。
「そうは言いつつ、ちょっと歪んでいるような……」
両親の愚痴を吐くジュリウスから、妙に黒い煙が立ち上っているのを見た、リックは言った。
この件に関しては、直接話すことで、ジュリウスの理解を少し深めたリックだった。
ジュリウスは事件の関係者がどれだけ破天荒でも、受け入れてしまうところがある。今までそれはお人好しだからだろうと思っていた。だが、人間の基礎たるべき、両親の存在がここまで破天荒なら、ジュリウスの度量は相当大きいことになる。大きくならざるを得なかったというべきか。
そしてその軸に、祖父ゲイアスによって、善良さが打ち込まれたのだ。
「これは、予想よりも掘り出し物かもしれんなあ……」
そんな風に独り言を言ったリックの前で、両親の愚痴を言い終わったジュリウスは、魂が抜けたように放心していた。




