優しい断絶
ジュリウスは仕事の関係で、街の雑貨屋で買い物をしていた。
その日は用事も終わり、一安心していたところだ。
街はもうすぐ訪れる春を前に、様々な花がつぼみを膨らませ、甘い香りを漂わせていた。庶民が多い、雑貨屋のまわりは、レンガ造りの昔風の建物がひしめき、道もロバが荷車を引くのがやっとくらいの道幅だった。
市場が開かれ、それを目当てに来た客で賑わい、人でごった返している。ジュリウスはそこを、すいすいとリズミカルに抜けようとして、視線の向こうに嫌な目つきをした少年を見たのだ。
少年はへらへらとした笑いを浮かべながら、時折、妙に剣呑な光を瞳に宿していた。そして仕立ての良い上着を着た男性にぶつかると、謝りながら立ち去ったのだ。男性はしばらくして隠しに手をやると、財布がないと騒ぎ始めたのだ。
その頃にはジュリウスは、少年を追って、足早に同じ方向を歩いていた。少年が用心深く細道を曲がり下りするのを、目的地を予想しながら、一本ずれた道を追いかけた。
それでも追いかけられていることに、気がついた少年が、なりふり構わずに走り出し、ふさがっている勝手口を勝手に通り抜け、他人の家の庭先を通って、反対側の道に逃げ出した。ジュリウスは持ち前の身軽さで、少年を追い詰めた。
急な坂下に立っている家の屋根に、段差を利用して飛び降りた少年は、焦って足を滑らし、そのまま屋根から落ちそうになったのだ。体がずるずると滑り、三階建ての家の屋根を滑っていった。ジュリウスは大声で叫んだ。
「こちらに手を伸ばせ。そのままでは死ぬぞ」
しかし少年は意地になって、ジュリウスの伸ばした手を無視した。転がり落ち、完全に体が屋根から落ちた少年は、屋根の雨樋に指をかけ、必死に体をぶら下げた。ジュリウスの声に驚いた建物の住人が屋根の窓を開け、事態を見て息を呑んだ。
「すいません。シーツか何か、伸ばしていただけませんか」
ジュリウスの頼みで、住人がシーツを下ろしてくれた。ジュリウスはそれにつかまり、屋根の雨樋までぎりぎり手を伸ばすと、少年の手首をつかんだ。
「わかった。もう捕まえない。助けるだけだから、大人しくしてくれ」
少年はそれでも不満そうだったが、なんとか助けることには成功した。時間をかけて、安全な場所に引き戻すことができたのだ。
「あんたのせいだからな」
開口一番、ジュリウスはなぜか怒られていた。屋根から落ちた時に、少年は足首をひねったようで、怒り心頭だった。もちろん、ジュリウスのせいではないことは、わかっている。だがスリにとっては、怪我は稼ぎに直結する。その苛立ちから、ジュリウスに八つ当たりしたのだ。
「済まない。それで……捕まえないから、盗んだ財布は、持ち主に返してくれないか」
「……」
少年は目をそらした。
彼の名前はディリックと言った。なにを聞いてもだんまりだが、危ない橋を渡る所を見ると、緊急に入り用なものがあるのだろう。ジュリウスは放っておけなかった。こういうタイプは、危険を顧みず、無理をして、命を散らす傾向があるのだ。
「その、君。済まなかったよ。これから医者に行かないか」
機嫌悪そうにしていたディリックは、唖然としてジュリウスを見た。その後、いぶかしげに見て、一言も口を聞かない。まるで獣のように用心深く窺っている。
「足をひねったんだろう。医者に行っておいた方が早く治るし」
「あんた、馬鹿じゃないのか。誰がその金払うんだよ」
「私が負担するよ」
ディリックは、ジュリウスの言葉にぎょっとした。疑り深そうに見返してくる。
「……それに『ショウカイジョウ』持ってないし」
「……紹介状のことかな。知り合いのところだから、そういうのは必要ない」
「なに企んでるんだ。人身売買かなにかか」
ジュリウスは、紹介状はすんなり出てこなかったディリックが、人身売買という言葉はすらすらと出したのに戸惑った。人身売買のほうが身近な言葉なのだろう。
「……私はジュリウス。ラムレイ男爵家のものだ。この辺りで捜査活動をしている。その一環で君を捕まえたんだ。この近くに仕事でよく使う、医者がいるんだ。今回のことも、職場の経費で落ちるから、心配しなくていい」
ディリックはいろいろ考えているようだった。だが結局の所、屋根から落ちそうになった自分を、手間をかけて救ったジュリウスのお人好しを、信用することにしたのだ。
医者は慣れた手つきで、ディリックの足首を固定した。そしてジュリウスと世間話を始めた。
その様子をディリックは息を潜めて、聞いていたのだ。
ジュリウスは帰り道、ブラック号を連れてきて、ディリックを乗せた。ブラック号は、小さい生き物を背中に乗せられ、興味津々だ。
痛いほどの沈黙の後、ディリックは急に話し出した。
「俺、弟がいて、病気なんだ。いつも息が苦しそうで、夜中もよく眠れねえ。咳ばっかするんだ。それで医者に診てもらいたいんだけど、金がかかるのと、紹介状っていうのがいるんだって。それを手に入れるのも金がかかるらしい。だから困ってて。それで」
「そうか。では明日、医者に行こう」
「…………でも、俺、金が」
「立て替えておく。払いはいつでもいい。病気を治す方が先だ」
ジュリウスは、ディリックの住んでいる、おんぼろアパートの前で下ろした。
「私は明日も仕事があるから、午後、鐘の音が三回鳴った頃に迎えに来る。合流できなかったら、ブラックフライアーズという雑貨屋に来てくれ」
そう言って立ち去るジュリウスを、ディリックはまたしても用心深そうに窺っていた。
翌日、ディリックの家に迎えに行ったジュリウスだが、ディリックはいなかった。家の人間に、ディリックはいないと乱暴に追い出され、噂の弟に会うことも叶わなかった。
一時間ほど待ったが、誰も来ないので、強引に乗り込むことにしたのだ。
ディリックの話が本当なら、弟の病状はかなりつらいのではないか。それなら一刻も早く病院に連れて行きたかった。だから自分の目で確かめることにしたのだ。
ジュリウスはおんぼろアパートに踏み込み、ディリックの住んでいる部屋に侵入した。部屋には最初にジュリウスを追い払った、目つきの悪い男がいて、たちまち威嚇してきた。しかし相手もジュリウスの身分と、武器にためらいを見せている。無視して寝ている子どもソーヤに話しかけた。
「……だえ?」
病気のせいで話しにくいのか、舌っ足らずだ。
「お兄さんの……友だちだ。君を病院に連れて行こうと思って。お兄さんと約束したんだ」
「兄さ、連れてかえた……。助けて」
「……」
その時、ジュリウスが薄々感じていた疑問が、答えとなって転がり落ちてきた。
ただ病院に連れて行くぐらいは、ディリックにだってできたはずだ。なんの知識もないディリックに、『紹介状』という単語を教えたのは誰だろう。ジュリウスはソーヤを片手で抱え上げると、それを見ていた男が焦って口を極めて罵った。
「ここから出て行け。なんの関係もないのに、余計なことをするな」
「……関係ないのはお互い様だろう。君はこの子たちの家族でもなんでもないんじゃないか。ディリックをどこにやった」
「いいから、いますぐそいつを下ろせ」
「私はジュリウス・ラムレイ。男爵家のものだ。ボウエン伯爵家の指示で動いている。私が戻るまでにディリックを無事に返さないと、ただではおかないからな」
そう言い捨てて、ジュリウスは外に出た。男は上手く行かなかった悔しさで、悪態をついた。
「ああ、小児ぜんそくですね。それはともかく栄養状態が悪いなあ」
医者は、喉と胸に鎮静作用のある塗り薬を塗って、ソーヤを寝かしつけた。ソーヤは規則正しい寝息をたてている。
「ここからもう少し行ったところの貧民街には、医者はいますか?」
「いることはいますよ。特に饅頭先生と呼ばれている方がいらして、金も取らずに医療に身を捧げていらっしゃる。頭が下がりますよ」
「どうして饅頭先生と」
「いや、それが。横に転がした方が早いくらい、まん丸としていらっしゃって……」
「その先生には悪い噂はありませんか?」
「人様をどうこう言うのは」
「捜査に関係あるんです」
医者は少しためらったあと、諦めて話し出した。
「……ちょっとあやしい連中と、付き合いがあると言われています。でも、それも、そういった連中を分け隔て無く治療しているからかと」
筋は通っている。だがジュリウスは、偏見かも知れないが、無償で医療に身を捧げているのに、あだ名になるほど太っているというのが気になった。
しばらく医者に話を聞いた後、ディリックの家に様子を見に行ったのだ。
ディリックは、アパートの前に傷だらけのまま放置されていて、人が取り囲んでいた。飛び火を恐れて誰も助けなかったのだ。意識のないディリックを荷車に乗せ、忙しなくまた医者の元を訪れる。
ディリックはひどい怪我で、二ヶ月も入院することになった。治療をしていると、気がついたディリックは真っ先にソーヤの心配をし、なんでもするからソーヤを治療してくれと言ってきた。
「もう、治療は始まっているから、安心してくれ」
そう聞かされたディリックは、気を張ってたのか、またしても意識を失った。
ディリックの住んでいる貧民街には、饅頭先生というあだ名の医者が住んでいる。
この医者は、裏社会の人間とつながっていて、巨額の報酬をもらっていた。空いた時間で、貧民の治療も行っており、報酬はもらっていない。少額過ぎて収入にならないからだ。そのかわりに、そういった貧民相手に貧困ビジネスを行っていた。
ソーヤのように、継続的な治療が必要な患者は、治療せず、高額な薬代、治療費を請求するのだ。そして治らないのをいいことに、専門医に診せる必要があるといい、そのための高額な紹介状代を請求するのだ。
ディリックはいいカモだった。腕利きのスリで、毎日それなりに稼ぐ。弟を可愛がっていて、言いなりに金を払った。
ディリックだって、手口があやしいことに、気がついていた。だがディリックの環境では、相手がどうであろうと、それ以外の選択肢がなかったのだ。
ディリックが弟を、正規の病院に連れて行ってしまったら、金をむしり取れなくなると思った医者は、『相談』したのだ。そして裏社会の男たちはディリックを誘拐し、痛めつけ、ジュリウスとの待ち合わせを、すっぽかすようにさせた。
彼らは、想像もしなかったろう。貴族の青年が、それでもソーヤを病院に運び、ディリックを助けるなど。
残念だが問題の医師を、どうにかすることはできない。別になにも悪いことはしていないからだ。医療の世界は、医師のさじ加減一つで決まる。文句があればディリックは、別の医者に行けば良かっただけだ。そんなものは存在しないが。
ジュリウスは、その医者に会いに行った。
「そう言われても、私はソーヤの治療をきちんとしました。あなたには医療の知識なんてないのだから、治療をしなかったなんて証明できないでしょう」
「その通りです。私はまったく医療の知識はありません」
「そうでしょう、そうでしょう」
医者は頷いた。
「ですが、武術ならお手の物です。今すぐ、ここで、ディリックがされたことを、そのまま、あなたの体で再現できますよ」
医者は話題が急に変わり、用心深く黙った。
「今後、二度と、ディリックとソーヤに、近づかないでもらいたい」
「……わかりました」
すっきりはしないが、これで一件落着し、ディリックは怪我が治って、給料の額は少ないが、安全な職場で働き出した。ソーヤの治療も続いているらしい。だからジュリウスは二人のことを、すっかり忘れていたのだ。
◇◇◇◇◇◇
ある日、ボウエン伯爵家を出発した、政府の要人を、国会議事堂まで警護したところ、議事堂前の階段で突然襲撃されたのだ。ジュリウスが外に乗った馬車から、要人が降りて、階段を登り出したところ、身なりのいい男が、コートで隠していた銃を取り出し、暗殺しようとした。理由は単に思想が違うからというものだった。
気がついたジュリウスは、とっさに要人を組み伏せるように、伏せさせ、自分の体でかばったのだ。だが、距離が近く、狙いも正確で、死を覚悟し、全身に強く力がこもった。
「え、誰だ?」
誰かがそう言ったのが聞こえた。ジュリウスが気がついた時には、襲撃犯は同僚に取り押さえられており、議事堂の階段にディリックが、腹から血を流して倒れていた。
「ディリック!」
ジュリウスが叫ぶと、ディリックは力なく、倒れたまま手を振った。
「いてえ。……いてえから、たぶん、ダイジョウブ……たぶん」
「襲撃犯の仲間ではないのか?」
「違います。私の知り合いです。誰か、早く手当を」
同僚たちは混乱しながら、まずは要人を建物内に保護しようと動き出した。ジュリウスも後ろ髪引かれながら、それに従った。
外を見ると、議事堂の職員が、ディリックの手当を始めるのが見えた。
ジュリウスはめずらしく、かんかんに怒りながら、ディリックの入院する病院に見舞いに来ていた。
豪華なお見舞いバスケットを持っているし、もちろん見舞金も包んである。また、今回の件で職場から出た、報奨金は、そのままディリックに渡す予定だ。当然、治療費は負担するつもりであるし、働けなくなった期間分の傷病手当金だって渡すつもりだ。
つまり全面的に、ディリックに世話になったということを、頭では理解しているが、ディリックを許せなかったのだ。
ジュリウスは仮に、今回の件で亡くなったとしても、それが仕事だ。だからその場合、職場できちんとした報酬がでるし、残された家族にも手当てがある。だがディリックはなんの関係もないのだ。ましてや小さな弟がいる。ディリックの行動が無責任に思えて、仕方がなかった。
ディリックの病室に行くと、にょきにょきと背が伸びたソーヤがいた。身長だけでいうなら、兄の小柄なディリックともう大差ない。だが体に乗っかっているソーヤの顔は、まだまだ幼く、不思議な生き物のように見えた。ソーヤはにこにことジュリウスを出迎える。
「兄ちゃんが、こんなにお金もらえるなら、もう一回撃たれたいって」
「また、不謹慎な……」
ジュリウスはげんなりしたが、ディリックやソーヤの生活を考えると、それは本心なのだろう。そこは責められなかった。
「よう、ジュリウス。金、ありがとう。恩返ししただけだから、いらねえって言いたい所だけど、やっぱ、金だけは受け取るぜ」
「果物はどうする」
「……やっぱ果物もだ。もらえるものは貰っておこう」
遠慮では、お腹はふくれないのだ。
「……どうして、あんなことをしたんだ。死ぬ所だったんだぞ」
ジュリウスにそう言われた、ディリックとソーヤは、顔を見合わせて、げらげらと笑い出した。ソーヤは、痛がって、腹を押さえた。
「あんたにはわからないだろうな」
突き放したような言い方だが、悪意は感じなかった。むしろ、まるで小さな子に言い聞かせているようだ。
「あんたにはわかんねえよ」
「そうなのか?」
「ああ、わからない」
ディリックは、バスケットにはいっていたブドウに感激し、ソーヤと分け合って食べ始めた。この季節にはまず手に入らないものだ。
「「うめえ」」
たった二人の兄弟は、同時に感想をもらした。仕草がそっくりだ。
「この世の寄生虫のスリが、屋根から落ちそうになったからといって、命がけで助けたり、病院に連れて行ったり、そいつの弟を治療したり。そういうことを当たり前のようにやる。あんたにとっては、それが普通なんだろう」
二人は次の果物を物色し始めた。ディリックは、淡々と話している。
「俺ら、親もなくて、金もなくて、伝手もなくて、まともな仕事なんかない。
そんな時に、助けてもらったことを、どんだけ、ありがたいと感じるか……。
あんたにはわかんねえよ。わかんないままでいろよ。
ずっと。あんたは、…………そのままでいてくれ」
ディリックとソーヤは、ジュリウスを見て優しそうに微笑んだ。




