貧乏男爵家の調査官日誌
ジュリウスは、婚約者のところに出かけるローズと、打ち合わせをしていた。
ローズの婚約者、コルトナー侯爵家のグレンは、高位貴族によくいる鷹揚な人間で、特に好き嫌いはない。
「そうは言っても、食べ物の好みはあるのよ。でもどちらかというと、香りの好みのほうがはっきりしているかしら」
ローズは自分が管理している覚え書きに、グレンについての記録を残している。
いずれ侯爵家に嫁ぐローズは幼い頃から、様々な人の接待用の記録を残していた。感情をなかなか表に出さない上流階級の人間が、ふともらした感想、侍女たちから得た情報などの、長年にわたる貴重な記録だ。接待はこれに基づいて準備されるため、ボウエン伯爵家の重要文書でもあった。
ローズはその記録を、ジュリウスの前で、指でなぞりながら言った。
「取りあえずこれと、これを手に入れてもらっていいかしら。時間はかかってもいいから、良いものを」
「は」
ジュリウスは、ローズの几帳面な手で、びっしりと書かれたグレンのページを見ていた。連絡が終わったローズは退出していった。
「…………ジュリウス殿」
気がつくと、すぐ側にクィンタスが立っていた。ぼんやりしていたようだ。反射的にジュリウスが立ち上がると、背中を強く叩かれた。
「しっかりしたまえ。これでは警護がまかせられん」
「申し訳ありません」
ジュリウスは、あわてて仕事を再開した。
その後、帰ろうと思い、ブラック号を連れ出すと、ジュリウスの顔をなめようとした。
避けようとするジュリウスと、舐めようとするブラック号で、その場をぐるぐる回る。諦めて、立ち尽くすと、遠慮なくべろべろと舐め始めた。終いには、鼻息をぶふーとかけて、鼻面をぴったり押しつけてきた。まるで心配するように。
ローズが手の届かない人だというのは、よくわかっている。身分がまったく釣り合わないし、そもそも幼い頃からの婚約者がいるのだ。だから自分の気持ちを押し殺して、なんでもないように振る舞っている。
その内、こんな気持ちも消えるだろうという、淡い期待を持ちながら。それは今日まで上手く行っていた。
だが、ローズによるグエンの覚え書きが、びっしりと書かれたあのページを見て、まるで自分の心を握りつぶされたような、激しい痛みを感じたのだ。
息もできなかった。
自分がこんなに、感傷的な人間だとは思わなかった。
クィンタスに叱責され、恥ずかしかった。きっとクィンタスは、前から気がついていたのだろう。情けない人間だと思ったに違いない。
「……なんとか、しなければ」
ローズへの気持ちを、なんとかしなければならなかった。
「ああ、それ、無理よ」
シェリーはばっさりと切り捨てた。ジュリウスの『友だち』の話を。
「人の心が思うとおりになるわけないじゃない。それならみんな苦労してないわ」
「だが、このままでは、その、……友人が」
シェリーはかなり呆れた顔をして、ジュリウスをにらんだが、すぐに真面目な顔になり、妹として真剣に答えた。
「たぶんだけど、ご『友人』は、その高貴な方に恋してはいけないっていう、枷をはめているんじゃないのかしら」
「それはそうだろう。個人的な思いを向けてはいけないお方だ」
「一番駄目な行為よ」
「そうなのか?」
シェリーはうんうんと、うなずきながら答えた。
「人って、駄目だと禁止するほど、したくなるものよ。恋してはいけないって思うほど、好きになってしまう」
「そうなのか」
「むしろ好きだって告白した方が、気持ちがおさまるって言うじゃない」
「まあ。そうだな」
そういう話は、ジュリウスもよく聞く。
「恋愛小説にも、かなわないとわかってて、告白するシーンが、よくあるじゃない。自分の気持ちを認めて、口に出して、断られて、はじめて次に行けるのよ」
「なるほど」
ジュリウスはわかったような、わからない気持ちだった。
「ではこの場合、どうすればいいんだ」
「私だったら……、その方の日誌を書くわ」
「日誌」
「自分に嘘をつかず、思いをこめるの。例えば、今日はどんなことを言ったか。なにをしたか。どんな所が可愛かったか。なにが愛らしかったか。書き出すのよ。少なくとも、その中だけは自由でいいじゃない」
ジュリウスは、書けることがいくつも思い浮かび、動揺して真っ赤になった。あわてて立ち上がろうとして、椅子に足が引っかかり、派手な音をたてて椅子は倒れた。それを直すと逃げるように自室に戻ったのだ。
生真面目なジュリウスは、やってみたが、どうしても正直な気持ちを書くことができず、その内容は業務日誌のようなものになった。
◇◇◇◇◇◇
ジュリウスはブラック号で、王都を歩いていた。
空は夕暮れにそまっており、雲を透かす日の光が、神々しいほどだ。
この辺りは高級飲食街で、行き交う人の服装も格調高く、豪華な馬車が何台も止まっている。当然、警備の者や騎士も多かった。
そこを大きな馬車が走ってきたので、手綱をひいて、ブラック号を路肩に移動させた。
その時、建物と建物の間を、こそこそと歩く男が見えたのだ。男は、ザリス子爵家の長男ネイミルだった。
今日まさに彼の話を聞いたばかりなのだ。横領と謀反が疑われている人物だ。横領と言っても、それほど大がかりでもなく、謀反と言っても、あやしい人物と付き合っているだけではある。だが念のためということで、と聞かされた。
ジュリウスはブラック号を馬留に止めると、ネイミルをつけたのだ。ネイミルは、洒落た造りで知られている、スプレッソホテルに入っていった。
食事にも、女性にも、部屋にも定評がある高級ホテルだ。
どう考えてもネイミルにも、ましてやジュリウスにだって、縁があるような、安い所ではない。
ジュリウスが続いて中に入ると、中では支配人が笑顔を浮かべていた。ジュリウスをぱっと見て、自分たちの客ではないと判断したのだろう。笑顔と同時に、疑問も浮かべている。
ジュリウスは袖の下を握らせると、支配人に頼んだ。こういう時のために、経費は渡されている。
「今入った男の近くで、飲み食いできるところはあるかな」
「お客様。トラブルは……」
「なにもしない。ボウエン伯爵家のものだ」
「さようで……」
支配人は難しい顔から、たちまち笑顔になり、部屋に案内した。
観葉植物とカーテンの向こうでは、ネイミルが店の女性と話しており、そのすぐ近くでジュリウスは食事をした。
支配人から側につく女性の希望を聞かれ、女性がいないと目立つかもしれないと、不安に思ったジュリウスは、「静かな方を」と要望したのだ。
やってきたゼーナという女性は、ジュリウスの世話をしながら、ぼそぼそと世間話をした。部屋はとても広く、あちらこちらで人々が食事している。落ち着いた雰囲気で、大声を上げたり、変に酔うような人もいなかった。
「お仕事でいらしているのね」
「ああ、だから、小さな声で頼むよ」
ジュリウスはネイミルの話に集中しながら、当てが外れた気がしていた。
ネイミルは性格が悪く、狭量な所がある。だが、今、聞こえてくる彼の声は、まるで少年のようにほがらかで、初々しかった。見えなくてもわかる。同席している女性に恋をしているのだ。
このクラスのホテルに通うには、給料だけでは難しいのだろう。だから職場で、せせこましい横領をしている。そしてあやしい人物に情報を渡すのは、きっと小遣い稼ぎだ。だから、ここに通うのを止めさせれば、当面の問題は解決だ。
だが。
「恋心か」
「あら、どなたかに恋していらっしゃるの?」
「……いや。だが、どうにかならないものかと思ってね」
「そうねえ。奇跡的なケースが一度あったけど」
「へえ。それは?」
ゼーナの知り合いに、ある貴族家に護衛として雇われた少年がいたそうだ。少年は主人の少女に一目惚れし、誠心誠意お仕えした。少女の方も平民の少年を、大切にしてくれたそうだ。時間がたって大人になった後、実は両思いだったことがわかり、二人は報われたという話だった。
ゼーナは話が上手く、まるで芝居を観ているような気にさせられた。最後に少年の思いが実を結んだ時には、なんだかほろりとさせられたのだ。
「この話、意外に受けが良いのよね」
「そうなのか」
「特におじさまたちに」
「それは意外だな」
「年をとるごとに、叶わなかった恋の想い出が美化されるみたいで、こういった話を喜ぶのよ」
ジュリウスはいまだ苦しい、自分の胸の内を顧みた。やり過ごそうと思っても、上手く行かない。だがゼーナの言うとおり、年を取ったら、これも美しい想い出になるのだろう。
ジュリウスはゼーナに、チップをはずんで店を出た。
「そういったわけで、ネイミルの事件は、特に裏があるわけではないと思います。むしろ本人ときちんと話せば解決するかと」
なぜか肩がぶるぶる揺れているリックと、バロネスに報告すると、ジュリウスは執務室の自分の席に戻ろうとした。
無関心なクィンタスの横で、ローズとマックスが、顔を真っ赤にしてジュリウスを見ている。
「ジュリウス殿。スプレッソホテルって……」
マックスは長く沈黙した後、聞いた。
「女性で有名なホテルですよね。まさか……」
いまだ世間体をあまり気にしないジュリウスは、ようやく自分にかけられた疑いに気がつき、あわてて否定した。
「ちが、違う。誤解だ。ただ食事をしただけだ。隣にはついていてもらったけれども、なにもしていない」
そして言わなくてもいいことを、わざわざ正確に説明したのだ。




