虎を招いた庭師
図書館を使っているローズの手伝いを、ジュリウスがしていたところ、三クラスにいた時の同級生を見かけた。
ベントリー子爵家のアルジャーノンだ。アルジャーノンは顔色が悪く、青いを通り越して、真っ白だった。ぎょっとして見ていたジュリウスの前で、アルジャーノンはふらふらとしゃがみ込んだのだ。
王立学院の図書館は立派で、並立する国の研究機関の書庫も兼ねている。時代を感じさせる大きくて頑丈な作りで、一般の学生たちが出入りできる一階と、そこを見下ろすロの字型の高位貴族用の二階のスペース。そして地下三階まである、許可を受けたものしか入れない地下書庫があった。
ジュリウスは地下書庫を使っていたローズに、アルジャーノンの件で、その場を離れる許可を求めたが、保健室に連れて行くよりも、ローズの所に連れてきた方が早いのではと、言われたのだ。
連れてきたアルジャーノンを診察した医療に詳しい侍女は、貧血と判断し、幸い飲食可の部屋だったため、アルジャーノンに砂糖とミルクたっぷりの紅茶を飲ませた所、順調に回復したのだ。
アルジャーノンによると、一日しか許可が出なかった地下書庫の利用が、その日だったため、体調が悪いのに無理して来たが、途中で疲労から具合が悪くなったという。その一日がつぶれてしまったアルジャーノンが、あまりにも気の毒だったため、ローズは自分の侍従として地下書庫を使って良いと、許可を出したのだ。
「それでなにを探しているんだい?」
「遺伝性の体の痣が、出る場合と出ない場合についての本について探しています」
その話題なら、先ほどの侍女が力になれるのではと、もう少しくわしい話を聞くことにしたのだ。
アルジャーノンは、ベントリー子爵家に生まれた跡継ぎだが、昔から軽んじられてきた。ベントリー子爵である父親は早い内に亡くなっており、家督はアルジャーノンが継ぐことになっている。その間は、母親のシリエが代理となっていた。
ところが気の弱いアルジャーノンと、意志薄弱のシリエに対して、シリエの兄である、トマス・バリー男爵が権勢を振るっているのだ。
トマスはとにかく押し出しが強い男で、口も上手く、ベントリー子爵家を支配してしまっているのだ。あまりにも当たり前にアルジャーノンの上に立つので、小さい頃はそれが普通なのだと思っていた。
そんなアルジャーノンに、トマスは仕事を押しつけ、手間暇がかかる作業ばかりやらせ、それでいて評価は横取りし、なぜかベントリー子爵家はいつも貧しかった。
これをどうにかしようと、最近のアルジャーノンは頑張っていたが、とにかくお金がなく、時間もなく、どうしようもなかったのだ。アルジャーノンも努力していたが、トマスに長年支配された結果、勝手がわからない仕事ばかりで、太刀打ちできないのが現状だった。
たった一つの希望は、もうすぐアルジャーノンが正式に、ベントリー子爵家を継ぐ年齢になることだった。
「それで、その話と痣は、どうつながるんだい」
「実は……、私がベントリー子爵家の跡継ぎではないと、トマスに言われたのです」
「どういうことだい」
「もうすぐ私は、ベントリー子爵家を、正式に継ぐことになっているのです。ですが突然トマスは、アルジャーノンは偽物の跡継ぎで、本物は別にいると言い始めたのです。最初は権力を手放すのが惜しくて、そんなことを言っているのかと。でもベントリー子爵家に代々伝わる、体の痣が、私にだけないことを指摘し、本物はいつでも連れてこられると」
「どう思われますか。ローズ様」
ジュリウスはローズの意見を求めた。
「本当のことを言っているか。またはアルジャーノンに痣がないのを知って、似たような痣がある子どもを見つけてきたか。まあ、この場合は、そこは問題ではないわ。問題は、トマスはベントリー子爵家を手に入れるつもりということでしょう。それに対してアルジャーノンはどうしたいの」
「ベントリー子爵家を守りたいです」
「それなら戦いましょう」
ところが上手く行かなかった。
トマスは裁判を起こし、アルジャーノンは正統な跡継ぎではないことを、証言した。そしてアーノルドという青年を、連れてきたのだ。アーノルドにはベントリー子爵家と、その外戚にあたるトマスのバリー男爵家に、伝わる痣があったのだ。
痣は、蒙古斑と呼ばれ、王都では水道橋のメンテナンスにかかわる伝統的な一族や、南部の諸島に住む一部の民族にも見られ、めずらしくはあったが、聞いたことがないというほどでもなかった。
その特徴から、アーノルドは、ベントリー子爵家の跡継ぎと認められた。なぜならアーノルドは亡くなった前子爵そっくりだったからだ。そしてトマスは、アルジャーノンが生まれた時の産婆が、体の弱かった自分の息子と、取り替えてしまったという懺悔の手紙を、感傷的に読み上げ、親心から来た子どもの取り替えによる悲劇と、茶番劇をまとめ上げたのだ。
そしてトマスは正式な跡継ぎであるアーノルドを支えると宣言し、偽物の癖に居座っていたアルジャーノンを、追い出す使命があると言ったのだ。
この時アルジャーノンの心の中には、様々な思いが駆け巡った。悲しく、切なく、今までの努力が無視され、すべてが徒労に終わり、なにもかも手放さなければならない。そう思った時に、どこかほっとした自分に気がついたのだ。
「ということは、これ以上の苦労を背負い込まなくていいんだ。結構いい話じゃないか」と。
急にアルジャーノンは、目の前が明るくなったような気がした。そもそも今までの労働時間がおかしいのだ。どう考えても子爵家だけではなく、バリー男爵家の仕事までやらされ、そのうえ手柄は横取りされ、収入はない。ベントリー子爵家の仕事は、冷静になると、しがみついてまでやりたい仕事ではなかった。
「母上はどうされますか? 私はベントリー子爵家を出ようと思います。もう追い出されますが」
「私はここに残ります。兄さんが家政婦として手放さないでしょうし。それ以外の生き方ができません。でもアルジャーノン。お前は好きに生きなさい」
「私はこれから貿易の仕事を、始めようと思っています。子どもの頃から憧れの、外国との貿易に関わりたいのです。私の貯金は子爵家としては少ないものですが、これから事業を始める個人としてはそれなりのものです」
アルジャーノンが目をきらきらとさせて、夢を語る姿は希望に満ちたものだった。
その足で、恋人のイーニッドのもとに駆け込んだ。
イーニッドは、アルジャーノンが疲れた時に、気持ちを休めに行く、王都の港で働く女性だった。小柄でおしとやかそうに見えて、アルジャーノンよりよほどたくましく、意志の強い女性だった。
アルジャーノンはすぐに好きになったが、身分が違い結婚できなかったのだ。それでもいいとイーニッドは言い、二人は事実婚をする予定だった。
「イーニッド。僕と結婚してくれ」
「え、でも……」
「見てくれ。この書類を。僕は裁判で、ベントリー子爵家の跡継ぎではないと証明され、今は無戸籍なんだ。つまり平民なんだよ」
そしてアルジャーノンはひざまずくと、指輪を取り出した。
「僕と結婚してくれるかい?」
「よっしゃあ! よし来たぁぁ! あたりめえよ!」
イーニッドはたくましい二の腕と拳を上げて、力強く喜びの雄叫びを上げた。
アルジャーノンは結婚すると、貿易の仕事にのめり込み、時々、イーニッドに力尽くで休憩を取らされたが、二人はいつまでも仲睦まじく、幸せに暮らした。
◇◇◇◇◇◇
トマス・バリー男爵は、子どもの頃から世の中の不公平を感じていた。
自分は男爵家なんぞにおさまる器ではないのに、そこに生まれたから男爵になるしかないのだ。
特に頭の回転が遅いと馬鹿にしていた妹のシリエが、親戚のベントリー子爵家に嫁いだ時の、苛立ちといったらなかった。自分より格下で、使えない女が、子爵夫人になるのだ。とても許せるものではなかった。
だからちょっとした、いたずらを仕掛けてやったのだ。
生まれた子どもを、すりかえたのだ。夫人の兄という立場上、強引にふるまえば上手く行った。
それからは、その子どもがなにをしても、なにをやっても、心の中で馬鹿にしてきた。「どうせ平民の子どもの癖に」と。おまけにそいつがそれなりに使えるから、自分の分の仕事までさせてこき使った。どうせわからないだろうからと、金も巻き上げた。
世の中はようやくトマスに合わせて、動き出したのだ。
遅いくらいだった。
だがまた気に食わないことが起きたのだ。そのガキが大きくなり、正式にベントリー子爵家を継ぐ時期が迫ってきたのだ。冗談じゃない。なんであの気に食わないガキに、そんないい思いをさせねばいかんのだ。
トマスは内心にやにやしながら、アーノルドを引っ張り出し、裁判で正式に跡継ぎにしたのだった。
これでもうベントリー子爵家はあらゆる意味で、トマスのものだった。
「だからこの書類に署名しておけと、あれほど言っただろう。どうしてしないんだ」
トマスの叱責は何分も続いていた。アーノルドが馬鹿すぎて、ちっとも言うことを聞かないのだ。
「署名なんて簡単にできるかい。なにが起こるかもわからないのに。それにあんたの説明、まわりくどくてわかりにくいよ。もっとわかりやすく説明してくれよ」
「いいからお前は、黙って署名すればいいんだ。そんなこともわからないのか、このうすのろが」
「なんだと」
トマスは格下のアルジャーノンに、ずっと嫌みや皮肉を言ってきた。時には罵倒も。
だから「子爵家の跡継ぎ」には、そういった態度で接して良いと、どこかで思い込んでしまっていたのだ。
アーノルドに同じ態度で接した結果、突然自分の体が吹っ飛んだのだ。トマスはアーノルドに殴られ、床をごろごろと転がった。アーノルドは腹立ちで、文鎮を窓に投げつけ、その内の一つは、割れた箇所から外に飛んでいった。
「助けてくれ」
同時に、殴られたことに気がついたトマスは、悲鳴を上げた。
しばらくして訪問者があり、外から騒ぎを聞いて駆けつけた警ら隊が、入ってきたのだ。アーノルドは茫然としていた。なぜならアーノルドは悪口を言われたから手を出しただけで、別に強く殴っていないのだ。本人の意識としては。
そしてかんしゃくを起こしたが、下町にいた頃はそんなことは日常で、警ら隊が入ってくる意味がよくわからなかった。下町では子どもがげんこつで殴られ、旦那が女房からフライパンで殴られるなど、それは「当たり前」の日常だったのだ。
警ら隊と一緒にいたジュリウスという青年が、アーノルドとトマスに話を聞いた。アーノルドはトマスが邪魔をしようとするにもかかわらず、起こったことを正確に再現した。平民は紙もペンも使わない。そのため記憶力はばつぐんだった。
「説明して欲しいと言っているのに、闇雲に署名しろと言ったんですか。しかも『うすのろ』と」
男爵位のトマスが、子爵位のアーノルドに、そんな態度をとるなんてあり得なかった。
ジュリウスはアーノルドに確認した。
「ねえ、アーノルド君。あ、失礼しました。ベントリー卿」
「アーノルドでいいよ。まどろっこしい」
「それじゃあ、君は、仕事を正確に理解したいと思っているんだね」
「そりゃあ。俺はなんもわからないけど、きちんとやれればと思っている。だって、領民のみんなが困るんだろう。俺、そういうの嫌だからさ」
ジュリウスは力強くうなずいた。ジュリウスだけでなく、一緒にいた警ら隊もだ。
「そういう時のために、代官がいるんだ」
「え。あの、偉そうな奴らか?」
「君の役に立つと思う。先代が亡くなったり、急に代替わりしたりした時に国が手助けしてくれるんだ。心配なら、私も一緒に説明を聞くから。やってみよう」
「そんな便利なものがあるなら」
トマスは焦って、この事態をなんとか止めようとした。だからジュリウスたちが帰った後、アーノルドを説得しようとしたのだ。
「アーノルド。なんてことをしてくれたんだ。これでは計画が滅茶苦茶ではないか。この役立たずめ。お前のような愚かなものを引き入れるのではなかった」
トマスは悪態をついた。
トマスにとって、会話の中に罵倒を入れるのは、アルジャーノンで慣れきってしまい、もう自然なことだった。
「なんだと、てめえ」
アーノルドは軽く腕を振り、それはトマスをかすめた。
「ひいっ」
トマスは怯えて後ろに飛び退いた。
トマスは子爵家と比べて男爵家は、などと不満を述べているが、結局の所、蝶よ花よと育てられ、暴力をふるわれるどころか、見たことすらないのだ。
一方、アーノルドにとっては、暴力もコミュニケーションの一つであり、罵倒されたらやり返すのは当然だと考え、トマスがいちいちおびえる理由すらわからなかったのだ。
「ベントリー子爵家はどうなったの?」
ローズが図書館で資料を調べながら聞いてきた。
「上手く行っているようです。アーノルド君によると、トマスさんは最近、ひどく怯えて姿を現さなくなったそうです」
「正常な状態に戻ったということね」
「心配した割には、あっさりと解決しましたね」
「自分の好きなものだけで、世界を造ってしまうと、ちょっとした異物で全滅することがあるわ。多様性も時には必要なのよね」




