第1章 関東の春
北部九州辺りでは、小国の争いが絶えないけれども、関東では、平和な日々をすごしていた。
第1章 関東の春 第1節
この物語は、宮城県塩竈市一森山1番1号に鎮座している鹽竈神社・志波彦神社を舞台として始めたい。この鹽竈神社は、縄文時代晩期には松島湾の千賀ノ浦(現在の塩釜港)より深く入り込んだ入り江の岬にあった。境内には、春になると天然記念物31本の鹽竈サクラが咲き誇り、桜のじきになると観光客でいっぱいになります。鹽竈神社の主祭神は塩土老翁で、製塩の神です。名前の「シホツチ」は「潮つ霊」とか「潮つ路」と解釈され、潮流を司る神とか航海の神とかの意味も含んでいる。
主人公の物部日向馬と息長遼瀬依の父、物部伊那部は、この千賀ノ浦で生まれた。その頃、北部九州の方では倭国大乱が起こり、小国家どうしの争いが起こっていた。従来の縄文人の末裔と渡来人との争いとか、北部九州での人口の増加による稲の収穫量の頭落ちからくる領土問題もあったと思われる。しかし、東北地方で生活していた物部一族にはそのような争いがなかった。
「お~い、イナベ、祠の周りの桜がチラホラ咲いてきた そろそろ漁の準備をするか」
伊那部の父、物部佐古米が声を掛けた。
「父上、カツオ漁だね 丸木舟の用意をしないと」
「親父が言っていた カツオは遠い南の海から黒潮に乗って、鹿島の祠辺りまで田植えが始まる頃、やって来ると」
「じいちゃん」
伊那部の祖父、物部真砂は、母親に育てられたらしくて、一之宮の玉前の祠(千葉県長生郡一宮町:玉前神社)付近で成人するまで過ごした。
「真砂のじいは、丸木舟で漁生活をして、カツオを追いかけて、この千賀ノ浦まで来た そこで、おかぁと知り合って、わしを産んだ」
「父上も、一之宮まで行ったことがあるの」
「じいには、弟がおって、おじさんに会いに行ったことがある」
「どこまで」
「香澄の里だ そこはわしらの一族が暮らしている大集落があるのさ」
「父上、私もそこに連れて行ってほしい」
「カツオ漁が始まったら、一度寄ってみるか」
香澄の里は、『常陸国風土記』の行方郡(現在の茨城県潮来市と行方市)の条で景行天皇の付き人が「海には、すなわち青い波が漂っており、陸には、これまた、赤色の霞がたなびいている」と言ったところから、名付けられた。江戸時代になって、霞ヶ浦とよばれるようになった。霞ヶ浦は、琵琶湖に次ぐ日本で2番目に大きな湖で、関東平野に流れている利根川と合流して太平洋に。その利根川の下流に香取神宮があり、霞ヶ浦の東側に北浦という湖があり、この北浦の南岸に鹿島神宮が存在している。この香取・鹿島神宮は、伊勢神宮の創建と変わらないくらい古くからあり、名古屋の熱田神宮と同列の神社です。熱田神宮は尾張氏族の遠祖の建稲種命が主祭神であるのに対して、香取神宮の主祭神は経津主大神で物部氏族の祖神である。鹿島神宮については、『常陸国風土記』によると香島の天の大神となっているが、8世紀の初頭に「香島」から「鹿島」に改名した。ちょうどその頃、当初は物部氏族の神宮であったのを中臣氏族が奪い取った形で、鹿島神宮は藤原氏の氏神となった。
第1章 関東の春 第2節
香澄の里は、縄文時代早期から縄文人が住み着いた土地で、狭間貝塚が有名です。新石器時代に北海道の大陸からやって来た人達が、縄文時代早期に本州に渡り、縄文人として生活し始める。そして、青森県から南下して、9000年前から7000年前にこの香澄の里にやって来た。この縄文人の末裔が物部氏族です。縄文時代晩期になって、北部九州に水田による稲作が中国大陸から上陸し、香澄の里でも200年遅れて、水田式稲作が普及した。霞ヶ浦と利根川に挟まれたこの香澄の里は、湿地帯が多く、稲作には適していた。その反面、利根川の氾濫も頻繁に起こり、物部氏族は、香取と鹿島に祠を建てて、水の神を祀った。弥生時代後期になって、その祠が香取神宮と鹿島神宮になる。
香取神宮の主祭神は、経津主神で、『常陸国風土記』では普都大神となっていますが、当初から物部氏の祖神であったのは間違いない。経津主神は『出雲風土記』にも布都怒志命としてでてきますし、『肥前国風土記』でも物部経津主之神として出てきます。また、鹿島神宮の主祭神は鹿島大神で、建御雷之男神のことです。この神は、奈良県の石上神社の主祭神も布都御魂大神です。このことは、物部氏と言っても全国に散らばっていて、香澄の里の物部氏も縄文人の末裔には違いないが、全国の物部氏も縄文人の末裔で、ある時期に物部氏を名乗った。
香取神宮の社伝では、創建が紀元前643年。鹿島神宮の創建が紀元前660年となっている。この年は、『古事記』によると神武天皇が即位した年。実際は、どうだったのだろうか。香澄の里に水田式稲作が入ってきた時期と重なる。香澄の里で、もうひとつ注目する出来事は、古墳時代で潮来市には多くの古墳があり、その中で最古は4世紀末から5世紀初めの浅間塚古墳、その他に古墳時代中期の大生古墳群もある。その古墳群の中に大生神社が。その神社の主祭神は、建御雷之男神が祀らている。鹿島神宮の鹿島大神と同じ。この香澄の里に5世紀から6世紀頃に多氏が移住してきた。この大生古墳群の主は多氏とされている。この多氏の出身である『古事記』の著者、太安万侶の出身氏族です。また、埼玉県行田市の稲荷山古墳の金錯銘鉄剣も意富比垝(大彦命)の署名が入っている。この古墳は5世紀後半。多氏族ではないか。5世紀から6世紀と言えば、継体天皇の頃でヤマト王権が多氏族を中心にして勢力を伸ばした頃でした。2世紀から3世紀の頃の香澄の里は、物部氏族が住み着いたと思われます。
伊那部と佐古米は、カツオ漁の準備をしていた。丸木舟は、佐古米が一之宮の玉前で作った舟を使うことにした。銛は今まで黒曜石で作っていたが、青銅器が普及した関係で、剣を作った時に一緒に作り、木の真っ直ぐな枝に葦で作った紐で括り付けた。
「イナべ、網もいるぞ」
「はい、網も用意出来てます」
「その網どうしたのだ」
「土淵の里の織物職人が、千賀ノ浦にやって来た 麻の織物をもって、織物を米と交換して欲しいと そこで、少量の米を分けてあげたのです すると織物は無理だけれど、麻の糸だと」
「それで、網を編んだのか」
遠野の里(現在の岩手県遠野市)は、太古の昔、湖でアイヌ語トーヌップがトーヌ、トオノに変化したと言われ、山に囲まれた盆地でした。そのため、稲作が出来ずに山から取れる亜麻および苧麻を栽培していた。比較的寒いところで生息する一年草で、長い茎の部分を伐採して、蒸して糸にする。
遠野市土淵町に倭文神社があり、創建は定かではないが、弥生時代後期にはこの地に麻を使った織物師が存在していたと思われる。崇神天皇も苧麻の栽培を奨励し、各地に倭文部を置いたと言う記録がある。
「イナべ、カツオ漁の用意ができたようなので、香澄の里まで出発するか」
第1章 関東の春 第3節
伊那部と佐古米は、カツオ漁をするため千賀ノ浦を出港して、香澄の里へ向かった。海の流れは親潮が流れ、その潮の流れにより、スムーズに進んだ。それでも、沖に流されないように慎重に佐古米は櫂を漕いで前に進ませ、伊那部は櫓で進路を定めた。
「イナべ、波の流れを見ろよ」
「はい」
「櫓をしっかり漕ぐのだ 左に流されないように」
「今、どこまで来ましたか」
「麻都が浦の辺りだ」
麻都が浦は、福島県相馬市の松川浦で、宮城県の松島と並んで、日本三景のひとつ。万葉集にも読まれた、「松が浦に 騒ゑ群立ち ま人言 思ほすなもろ わが思ほのすも」の海岸です。
「父上、カツオを採ったらどうされるのですか」
「香澄の里に大王が居らせられます その大王に献上する」
「大王」
卑弥呼が邪馬台国の女王になる前、中国の歴史書が示したように日本では、倭国大乱が起こっていた。その頃には、各地に大王が出現し、小国家が誕生日していた。『古事記』で表されている「葦原の中の国が騒々しくなってきた」と言う表現が当たっていたかも知れない。香澄の里でも、物部氏が小国家を形成していた。この香澄の里の大王は、崇神天皇の時代に疫病が流行して、その際に天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出して、大物主大神を祀るため、物部伊香色雄に命じて、祭神之物(かみまつりもの=神祭の供物、五穀など)を用意させて供えた。すると疫病が治まった。この物部伊香色雄の父が物部大綜麻杵命で、香澄の里の大王の父にあたる。また、妹に伊香色謎命がいて、崇神天皇の母となる。
「父上、あそこにカツオの群れが見えます」
「イナべ、近づけるのだ」
佐古米は、櫂を舟にしまい、銛と網を手に持った。そして、銛をカツオに目掛け、投げ掛けた。見事カツオに命中、佐古米は両手で網を持ち、カツオをすくい上げた。
「父上、やりましたね」
「初カツオだから、大王が喜ぶだろう」
「香澄の里は、もうそこですか」
「あそこに岬が見えるだろう そこの手前に利根川の河口があって、その川を上ると湖が開けてくる その岸辺が香澄の里だよ」
「あとひと漕ぎだね」
「油断するなよ 川は激流でそこを上って行くのだから」
河口に入ると伊那部と佐古米は力いっぱい漕ぎ始めた。川辺には、野の花が咲き誇り、水田に生えている雑草が取り除かれて、田植えの準備がされていた。
「イナべ、香澄の里に着いたよ」
「あぁ、疲れた」
第1章 関東の春 第4節
伊那部と佐古米は香澄の里に着いて、早速釣り上げたカツオを持って、大王の居館に向かった。弥生時代後期になると大集落が出現し、そこにリーダーとしての大王が誕生し、大集落とは別に居館を持つようになった。居館には、大王の家族と奴婢と言われる従事者が住んでいた。
「よおぅ、佐古米ではないか 千賀ノ浦の暮らしはどうだい」
「大王から頂いた土地で、安穏に暮らしております 大王に食べて頂こうと初カツオをお持ちしました」
「そうか、カツオが南から潮の流れにそって、この辺りまでやって来たか」
「それと、大王に私の子を紹介しようと連れてきました イナベ、大王に挨拶しなさい」
「よいよい、イナベというのだな」
「はい、大王にお目に掛かりましたことを幸せに思います」
「わしの息子、オオヘソキにも男子が生まれてのぉ」
「大王のお孫さんですか」
「弟君の内色許男命様の方は」
「ウツシコオか、わしの親戚筋の穗積に養子に出した」
「イナベ、いくつになった」
「17才になりました」
「榎浦の里に、姪のアキサトヒメがいて、それは気立てのいい娘で」
榎浦の里は、現在の千葉県香取市佐原イ一帯で、縄文時代晩期まで香取海に面していた。そして、丸木舟で西からも東からもやって来る人が多くて、治安が乱れていた。そこで、大王は、大王の弟、物部美世太彦を長として、若者を送り込んで警備に当てていた。その物部美世太彦の娘が阿木沙都姫で、伊那部と一緒にさせようとしていた。
「イナベ、榎浦の里で弟の下で働くかい」
「大王のおおせじゃ」
「はい」
「話は決まった 明日にでも榎浦の里にいくように」
伊那部と佐古米は、大王の居館を出て、縄文時代から継承されている祭事場にきた。その祭事場には、たくさんの石を地面に円形に並べている環状列石に入り、その真ん中に祠が建てられていたので、一礼をして両方の手のひらを合わせて音を出す「かしわで」を行った。その祠には木で彫られた木偶が並べられ、お供え物が並んでいた。
佐古米が向かったのは、弟の物部摩鰖部の住居だった。
「兄上、どうぞ イナベも一緒か」
「はじめまして」
「大きくなったなぁ 赤ん坊のときに見たきりで」
「マタベ、今さっき、大王にお目にかかってきた すると、イナベを榎浦の里へ行かすお達しが」
「そうか、榎浦の里にイナベは行くのか 香取海に面しているところで、人の出入りの多い場所だから イナベ、気をつけて行きなよ」
伊那部が次回には独り立ちします。