第13章 卑弥呼の鏡
卑弥呼が亡くなり、混乱に乗じて、魏の明帝から頂いた三角縁神獣鏡を奪った。
第1節
238年に卑弥呼が魏の明帝から貢ぎ物の代償として贈られた織物の布は、衣服に使用されたと思われるが、100枚もの銅鏡はどの様に処理したのだろうか。1枚や2枚だと卑弥呼が使用しただろう、祭事に祀られた可能性はあるけれど、100枚もの銅鏡だから、それだけで疑問がわく。その銅鏡が三角縁神獣鏡と言われていますが、この三角縁神獣鏡は全国の古墳から発掘され、100枚どころか500枚以上も。それも、三角縁五神四獣鏡や三角縁四神四獣鏡などが存在し、魏国から渡ってきた三角縁神獣鏡か国内で贋作された鏡なのか目当てが付かない。248年に卑弥呼が亡くなって、1,000人以上の人が殉死したそうです。その人の幾らかが三角縁神獣鏡と共に埋められたとも考えられますが、特に近畿地方の古墳から発掘されることが多いことを考えるとそうでもないらしい。卑弥呼が死ぬまでは、魏の明帝から贈られた100枚の銅鏡が卑弥呼の側にあったと思われる。邪馬台国という政権が終わり、次の政権がこの権威の象徴として、各地の首長達に三角縁神獣鏡を配ったとも考えられ、その首長達の数が多いので、三角縁神獣鏡を模作して贋作を。魏国が邪馬台国との友好の証しとして、三角縁神獣鏡を配ったのではないか。
邪馬台国では卑弥呼の死によって、大混乱になった。その中でも、帯方郡から黄色を持参して、邪馬台国と狗奴国との仲裁に入ろうと須珂の里に来ていた張政が卑弥呼の居館を訪ねた。その時、居館には卑弥比古と難升米と243年に魏の皇帝になられた曹芳に朝貢をした掖邪狗が今後の邪馬台国について協議していた。
「張政さま、我が女王のお悔やみ来られましたか」
「女王が亡くなられた以上、倭国王を狗奴国の卑弥弓呼になってもらう」
張政とは何度か面識のある掖邪狗が。
「待ってください どうして」
「邪馬台国には、もはや王がいないではないか」
「おります」
「どこに、女王には子供がなく、跡継ぎがおらないではないか」
「それが、宗女、世継ぎはいます 壹與です 今から、ここに連れてきます」
壹與は、その頃13歳で卑弥呼と同じように祈祷をする少女でした。掖邪狗は、張政の前に。
「正式には、まだ女王ではないですが、これから就任式をします」
「では、これから洛陽に帰って、ミカドに報告することにする」
張政が魏国に帰って掖邪狗は、曹芳に壹與が新しい女王に付いたことを報告するために、朝貢の準備を始めた。また、壹與が女王に就任したことを邪馬台国の面々に知らせなければならず、卑弥呼の居館に集まるように指示した。その就任式には、伊都国・末羅国・不弥国などの大夫達が集まり、そこには、息長遼瀬依や蘇我三千比古や葛城沙兎比古も参加していた。その就任式が終わり、息長遼瀬依が蘇我三千比古と葛城沙兎比古に声を掛けた。
「ミチヒコは、今回の壹與さまの女王就任をどう思う」
「卑弥呼さまがお亡くなりになられたのは、邪馬台国において大きな痛手だと思う そして、邪馬台国の統制が取れないなか 慌てて、壹與さまを女王に それもどうかと思う」
「サトヒロは」
「ヒミヒコさまもお年を取られて、以前の勢威はないし、ナシメとエキヤクは魏国の対面ばかり気にしている状態 新しい指導者が必要だと思う これでは、新羅には勝てない」
「そうだよ 私もそう思う それで、日向国から北上して、狗奴国を撤退させて、邪馬台国軍の勝利に導いたお方に従おうかと思う ミチヒコ、ヒミヒコ、そのお方に合わせようか」
卑弥呼の死と壹與の女王就任があって、蘇我三千比古と葛城沙兎比古は開化天皇のもとへと流れた。
第2節
蘇我三千比古は243年に掖邪狗に従事し、帯方郡の様子も見ていた。その後、邪馬台国で取れた農産物を帯方郡に持って行って、先進的な物資と交換したり、魏国の貨幣を邪馬台国に持ち込んだりして、財を成していた。そのため、物の価値を知り尽くしていた。また、物資の運搬には海人系の安曇一族を使い、安曇厨紀弥の子、安曇加蛇是との友好関係にあった。また、帯方郡にいた職人を邪馬台国に連れてきて、蚕の養殖や織物の生産も手がけ、織物の職人が後に秦氏となる。
葛城沙兎比古は伽耶の里に集落を持ち、海人系の宗像一族と手を結び、対馬海峡の航路権を握って、渡来人や邪馬台国から伽耶の里に行きいきする人の安全を確保して、新羅との戦いに尽力していた。また、土器の最新技術を導入して、須恵の里(福岡県糟屋郡須恵町)で土器を作らせた。その職人が後の土師氏となる。
蘇我三千比古も葛城沙兎比古も卑弥呼の死によって、今まで守ってきた利権が損なわれないかと不安でした。そんな時に、同年代で須珂の里で出会うことが多かった息長遼瀬依と壹與の女王就任の卑弥呼の居館でであった。そして、息長遼瀬依が開化天皇に従うように蘇我三千比古と葛城沙兎比古に論じた。
その後、息長遼瀬依は蘇我三千比古と葛城沙兎比古を連れ、菟狭の里にやってきた。
「リョウセイ、誰を連れてきたのだ」
「邪馬台国で共に働いていた友で、私が大王に付いていくと話していたら、もう邪馬台国には、魅力がなくなったと言うので 彼らも付いていくと言い出しました」
「それでは、あなた達の姓名と邪馬台国での役目を聞かせて欲しい」
「蘇我三千比古と言います 祖父の時代から邪馬台国にある物資の管理と、帯方郡との物資のやり取りをしています」
「私は、葛城沙兎比古です 祖父は葛城羽喜冴兎命で、父は葛城高千那と言い、伽耶の里に滞在して、新羅と戦い、狗邪韓国の人達の安全をはかり、邪馬台国に技術者を連れてきたりしています」
「ミチヒロとサトヒロか、どちらも役にたちそうだ 私の家臣として働いて頂く よいな」
葛城沙兎比古は開化天皇に従事し、大倭国の金剛山東側の白雲岳の麓(奈良県御所市北窪)に移った。蘇我三千比古は、曽我川右岸側の一帯(奈良県橿原市曽我町・中曽司町)に移った。そして、ヤマト王権が発足して以来の皇室に仕える氏族となっていく。どちらも、カバネは臣という称号を与えられ、皇室との関係が深かった。
「ミチヒロ、魏のミカドから貢ぎ物の代償として賜った銅鏡は、今どのようになっている」
「銅鏡ですか ヒミコ女王が邪馬台国の関係している首長に配ったと思われます しかし、まだ、幾らか残っているはずです」
「その残った銅鏡はどこにある」
「女王の屋敷の倉に眠っていると思われる その銅鏡をどうされるのですか」
「大倭国に行く時に持って出たい そして、我らが邪馬台国の継承者であることを示し、地方の首長に手渡したい」
「銅鏡を渡して、支配下に置かれるのですね」
「そのつもりだ」
第3節
蘇我三千比古は、須珂の里に戻った。そして、安曇加蛇是と待ち合わせて、卑弥呼の居館にはいった。三角縁神獣鏡が卑弥呼の居館の倉庫に保管されているのを知っていたので、三角縁神獣鏡の木箱を探し、見付けると木箱には三角縁神獣鏡は100枚の内、50枚だけになっていた。蘇我三千比古と安曇加蛇是は、その木箱ごと持ち出した。
「カダシ、この木箱をそのまま、菟狭の里へ持って行ってくれないか それと何隻かの船を用意してほしい」
「分かった サチヒロは、これからどうする」
「三角縁神獣鏡が50枚しかないので、多分足りないと思う」
「それで」
「吉野ヶ里に青銅器の鋳銅をする職人がいるので、大倭国に連れて行く」
吉野ヶ里は倭面上国があったところですが、190年代の気候変動で稲作が出来なくなり、邪馬台国に従事した。そして、住民は各地に移動していったが、青銅器の鋳銅技師はまだ吉野ヶ里に残っていた。蘇我三千比古は、父の代から倭面上国との関わりがあったので、開化天皇が大倭国に移動することになったので、吉野ヶ里の青銅器の鋳銅技師を大倭国に連れて行こうとしていた。
菟狭の里では、大倭国に移動するための準備が進んでいた。そこに、安曇加蛇是は、蘇我三千比古から言われてように、20隻の船と三角縁神獣鏡の木箱を持って、菟狭の里にやって来た。船着場には、息長遼瀬依が迎えてくれた。
「カダシ、ミチヒコは」
「吉野ヶ里によって、大倭国に連れて行く者を」
「なぜ、誰かを連れて行くのか」
「銅鏡が50枚しかなかったので、新たに作るための職人を連れ出すと言った」
「この木箱に入っているので、ミカドに見せないと」
「そうしたら、私がお持ちしよう」
そうこうしているうちに、30隻の船が船着場に近づいてきた。葛城沙兎比古が宗像の船を用意してきたようだった。
物部二田弥が船着場に現れた。
「ミカドが出発されるらしい 船の用意ができているか」
「船の用意は出来ています」
「リョウセイ、ミカドとその家族を迎えに行ってくれないか」
「分かりました」
息長遼瀬依は、開化天皇と伊香色謎命と皇子や皇女を迎えに行った。開化天皇の仮居館に着いた時、そこには蘇我三千比古か戻ってきていた。
「ミチヒコ、50枚の銅鏡は届いている それで」
「カダシに、菟狭の里に届けるように言って、銅鏡の鋳銅が出来る人間を吉野ヶ里にいって、連れてきたところだ ミカドにはそれらのことを報告したよ」
息長遼瀬依と蘇我三千比古は、開化天皇達を船着場まで案内して、各自が船に乗った。
開化天皇が、大倭国までに行くまでに、内海の集落にいる首長達に銅鏡を配るように指示があった。そのため、安芸の多家の里(多祁理宮:広島県安芸郡府中町)に寄り、その後、吉備の高島の里(高島宮:岡山県岡山市南区宮浦)に向かって、菟狭の里から船を出した。
第4節
開化天皇が率いる軍団は、安芸の多家の里に向かっていた。この地は、倭国大乱の時代に兎狭の里に住んでいた人達で、北部九州でおきた騒乱が原因で、安芸に移動してきた。この地を治めていた首長は、狭依毘売と言った。この一族は、元々、宗像一族の出身で、葛城沙兎比古が連れてきた宗像一族とは交流があり、同じ女神(市杵島姫命)を祀っていた。そのことは、市杵島姫命を祀っている厳島神社が広島県廿日市市宮島町にあるのも関係している。
この多家の里から北にある松笠山と太田川との間に中小田古墳1墳があり、その古墳から三角縁神獣鏡が発掘されている。また、木ノ宗山遺跡(広島県広島市東区福田町狐が丘)では、吉野ヶ里遺跡からも発掘された福田式銅鐸が発見され、銅剣・銅戈など青銅器も作られていたようです。
開化天皇達が乗った船は、猿猴川の河口にあった多家の里の船着場に着いた。開化天皇は、狭依毘売に会うため首長の居館に向かった。
「ヒメ、久しぶりです 今回、日向から大倭国に移ることになって、ヒメのところに寄りました 挨拶の代わりに、ヒメにこの銅鏡を差し上げたいと思います」
「ありがたいです こんな貴重な鏡を頂いて」
「この鏡は、魏国の鏡なのです」
「そんな大事なものを頂けるのですか せっかく来られたので多家の里でゆっくりとされればいいと思います」
「ヒメの所でも、青銅器を作られていると聞いています」
「木ノ宗山でね それがどうかしましたか」
「吉野ヶ里で青銅器を作っていた鋳銅職人を連れてきていますので、最新の青銅器を作らして貰おうと思います たとえば、銅鐸とか」
「吉野ヶ里と言えば、倭面上国の人達ですか あの人達は出雲の方にかなり移られたようです それと、河内の茨木の里(大阪府茨木市東奈良1丁目・2丁目)にも早くから移動して、青銅器を作っていたようです そして、出雲国の銅鐸と同じ形の銅鐸を福山神村の里(広島県福知山市神村町)や世羅の里(広島県世羅郡世羅町黒川)まで配った 私の多家の里までは出雲国の銅鐸と同じ形は届いていませんから」
「ヒメの所と出雲とは、敵対関係にありますから」
「出雲の銅鐸を持ってこられても受け取ることはないです」
「では、木ノ宗山で出雲と違った形の銅鐸を作らせましょう」
畿内を中心にして、播磨から吉備と出雲地方まで袈裟襷文銅鐸が多く出土されている。しかし、佐賀県下で出土された福田式銅鐸でした。
「木ノ宗山では、多家の里で使う青銅器だけを作っているだけですから、銅鐸までつくっていただけるとは もちろん、木ノ宗山で青銅器を作ってください」
「ありがとうございます」
開化天皇は狭依毘売に銅鐸の話はしたが、三角縁神獣鏡の複製作りが本心でした。
第5節
開化天皇達は、多家の里で滞在することになった。そして、仮の居館の建設を始め、完成した。居館には、開化天皇と伊香色謎命と後の崇神天皇の住まいができ、息長遼瀬依と物部二田弥と蘇我三千比古が開化天皇に呼ばれて、集まって来た。
「今日集まって貰ったのは、この多家の里で、長期に滞在することになった それで、サチヒコには木ノ宗山で銅鏡の製作を ニタヤには出雲に行って貰いたい リョウセイには、この付近の集落を回って、銅鏡を持って首長に会って貰いたい」
物部二田弥は、出雲に行くことの理由を開化天皇に問い質した。
「私が出雲に行くのですか」
「出雲には、出雲国が存在していて、大きな勢力を持っている その状況を探って欲しい」
「なるほど 分かりました」
「出雲に行くとき、銅鏡を持って行くのだよ 出雲には大王がおられるので」
「リョウセイは、この近辺の首長に銅鏡を持って行き、我らに支持して従うように」
「サチヒコは50枚の銅鏡では足りないので、吉野ヶ里から連れてきた青銅器の鋳銅職人で銅鏡を増産させること また、この辺りから東には出雲の支配されている首長も多く、銅鐸を配っているようなので、肥後地方の銅鐸も作らせるように」
「リョウセイ、もし出雲の銅鐸を見つけたら、こちらの銅鐸と交換すればいい」
銅鐸の起源は、中国の春秋戦国時代に越国(紀元前600年頃~紀元前306年)が支配していた江蘇省無錫市の貴族の墓(紀元前470年頃)から発掘された原始的な磁器の鐸だと言われています。日本で銅鐸を作り始めたのは紀元前100年代から紀元200年代で、それ以後、銅鐸が作られなくなった。銅鐸が祭器として使われていたことを示し、邪馬台国やヤマト王権が発足するころになると、集落での祭事で政をきめていたのが、政治組織によって政を決めるようになって、祭器としての銅鐸が使われなくなった。邪馬台国で卑弥呼が出現して、祭事で政を決めていた最後の存在だったのです。この銅鐸が青銅器と共に朝鮮半島から日本海沿岸に渡来人が紀元前2世紀頃から上陸して、銅鐸を作り出した。その基点になったのが出雲であり、伯耆・因幡・但馬・丹後・丹波・越であった。この地方に古い銅鐸が発掘されている。1世紀末になると、銅鐸の製作場所が畿内に移動。たとえば、大阪府茨木市東奈良町一帯と琵琶湖東沿岸(滋賀県野洲市・守山市)で大型の銅鐸が作られるようになった。その後、信濃や遠江でも製作されるようになった。このことは、紀元前2世紀頃に中国から朝鮮半島を経て、北部九州や山陰地方に渡ってきた人が日本に帰化してと考えられ、その人達が信仰していた神が大国主命であった。その大国主命を祀っている最大の神社が出雲大社でした。銅鐸が畿内一円に広がっていったと共に、大国主命の信仰も広がっていたと思われる。この大国主命を中心にした神々を国津神といい、天照大御神を中心にした天津神、この神が開化天皇を中心にした天孫系の人達だった。
出雲に巨大な集落、熊野の里(島根県松江市八雲町熊野)があり、そこはイザナミが火の神、カグツチを産んで大やけどをして、この熊野の里に逃げ込んだ土地。また、スサノヲが滞在した土地とも知られ、熊野大社がある。日本神話ではそのように言われていますが、開化天皇には、大きな勢力が存在していた。崇神天皇の時代に、天津神で鳥神のタケヒラトリノミコトが天から持って来られたという神宝が熊野の里の宮に収納されていることを聞きつけた崇神天皇がその神宝を見たいと言われたそうで、武諸隅(たけもろずみ: 伊香色雄命の孫)を使いとして出雲に行かせた。その時、熊野の里では兄の出雲振根が不在で、弟の飯入根がその神宝を渡してしまった。それで、出雲振根が筑紫国から帰ってきて、その神宝を渡したことに反対して、ヤマト王権に反逆したので、吉備津彦と武淳川別を出雲に出兵させて、出雲振根を退治した。そんな逸話があります。出雲では、出雲振根のような豪族がいたと思われます。
三角縁神獣鏡の模造を木ノ宗山でつくることになる。




