序文
卑弥呼の世界とは、その時代に生きた人達の物語です。勿論、卑弥呼も出てきますが、主役ではありません。
はじめに
弥生時代後期から古墳時代前期に、その当時の日本人はどのような生活をし、経済的にも自立した政権が誕生したか。勿論、文献資料じたいも文字自体もない時代。現れるのは土器に描かれたその当時の写実画だけ。話ことばはあったとしても、文字を書く習慣が無く、漢字が中国から入ってきたのは、後漢の光武帝が奴国の使者に金印を贈答したことにより、当時の人が漢字として認識した。しかし、一般的には古墳時代に青銅器の鏡や鉄剣から刻まれた漢字が発見されたことにより、上層部では漢字を使い出したことがわかる。倭の五王の時代になって中国との交流が始まり、漢字もそのころから中国より入ってきたと思われます。飛鳥時代になって、遣隋使や遣唐使を送るようになり、帰国者が漢字を広めていった。また、奈良時代に官僚制度が日本でも導入されて、行政の職務についた人達で、木簡に文字を書いて記録に残す習慣が生まれた。日本最初の書物、『古事記』もそのころから。卑弥呼の時代には、文章で残された記録がないために、中国の歴史書から探ることしか出来ない。
卑弥呼の時代からヤマト王権が誕生するまでの世界を『卑弥呼の世界』として、全くの空想と創作により、再現したいと思います。そのようにするには、日本の縄文時代、紀元前13000年から紀元前700年という長い歳月を経て、培われた日本人の特性や生活習慣や海外から影響を受けない独自の文化を考慮しなければならない。それと中国の日本に対する認識を知らなければならない。中国が日本の存在を認識したのは、後漢の時代に発行された『論衡』の異虚篇第一八に、「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず)と記されていて、中国の周時代に倭人として日本の存在を認識していたとある。これは、あくまで後漢の文人、王充の書で正史ではないので信じがたい。正史としては、紀元前300年代から後漢時代までの中国のことを書いた『山海経』があって、第十二「海内北経」に「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す)と記されている。また、『山海経』第九 海外東經では、東方の海中に「黒歯国」があり、その北に「扶桑」が生える太陽が昇る国があるとされていた。結局は、中国でも日本の状況を明確につかんでいなかったのが現状です。紀元前には、遼東半島と山東半島に挾まった地域に存在していた燕の属国扱いされていた。そして、後漢時代になって日本から使者が来るようになって、倭人(日本人)の存在を知るようになった。光武帝が奴国の使者に「漢委奴国王」金印を贈ったと言う事実だけ。
確かに、後漢以降、中国の歴史書には日本のことが記載されている。卑弥呼の邪馬台国を記載した『魏書』第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)が存在しているが、果たして作者の陳寿が日本の内情をどれだけ知っていたか、疑問を感じる。そのような卑弥呼の時代から崇神天皇が率いたヤマト王権の歴史は、空想と創作でしか著せない。あくまで『卑弥呼の世界』は推理小説として、読者の皆様に認識していただきたいと願っています。
自然信仰
狩猟採取で生活をしてきた縄文人が恐れていたのは、何であったのだろうか。たとえば、山で生活している縄文人だとすると小動物を狩りして、ドングリやクリを栽培して食生活をしていたと思われる。そのような縄文人が恐れたのが、地震や火山の噴火により、地形の変化や小動物が環境の変化により激変して、食料事情が悪くなり、山火事によって栽培しているクリやドングリがなくなってしまう。自然災害の恐ろしさ。現在のように衛生管理が徹底されてない時代だから、狩猟した肉を食べての食中毒や病原菌を摂取してしまっての死亡。死に対する恐怖。更には、出産時の乳児の死亡。おそらく、その当時の人口は増えなかったと思う。縄文人によって作られた土偶は、女性の妊婦の姿が多いが、これはエロチズムではなく、生まれてくる子供に対しての祈りの対象だったと私は理解している。
日本の地形から考えても、平地が少なく山岳地帯が多い。山から流れ出してくる川。その川は海に流れて、海に囲まれた島国。そのような島国で生活している縄文人は、丸木舟を作り、海辺まで出て海鮮物の漁もしていたと思う。それで恐れられたのが川の氾濫や海辺の高潮被害だった。そのような災害に対して、縄文人は自然に対する祈りを日常行われていた。自然の厳しさを熟知していた縄文人は、山や海や川という自然を対象に信仰を行っていた。そのところには、霊魂が存在していると。縄文人は理解していた。その霊魂が日本神話で出てくる神です。日本の自然に対する信仰は、海外と違って、たとえばハワイ神話でも神が存在するが、旧約聖書のように創世の神々がほとんどです。日本神話でいうイザナキ・イザナミの神です。ハワイは、5世紀まで無人島だったので、神話も新しい。旧約聖書に出てくる神も、エホバにしても紀元前1500年頃の話で、愛の神。人類愛とか人が誰しも幸せになるための愛を与える神です。キリストもそうです。でも、日本の神は災害や疫病から守る神です。そして、歴史も古い。縄文時代からある神です。
『古事記』を読むと、多くの神が出てきます。イザナキとイザナミが神産みをしたことになっていますが、最初に出てきた神は縄文時代から存在していたと思う。たとえば、山の神、オオヤマツミや海の神、オオワタツミも縄文時代の神。日本神話ではイザナキとイザナミが神産みをしたことになっていますが、その多く神は、縄文時代の神ではないか。『古事記』が編纂されたのが、712年だから、国家としての体裁を整えるため、出雲神話に出てきた神々を採用したのかも知れない。イザナキとイザナミが国土を創世して、最初にしたのが国譲りだったからです。では、出雲神話はどのようにできたか。この出雲神話は、『出雲風土記』に載せられている。しかし、『出雲風土記』は『古事記』の後の733年に編纂されている。そこに乗せられている神話は、スサノオとオオクニヌシが主。そこで、出雲大社の祭神を調べて見ると天之常立神が出てくる。この神の子が国之常立神で主に物部神社で祀られ、息長氏系の滋賀県米原市の山津沼神社でも。日本神話で最初に出てくる造化三神の天之御中主神の孫が国之常立神とされている。また、室町時代初期に完成した日本の初期の系図集『尊卑分脈』では、中臣氏の遠祖として天之御中主神を上げている。中臣氏族(藤原氏・中臣氏・大中臣氏)の祖先は、縄文時代から続く家系であるということになる。国之常立神を祭神にしている物部氏や息長氏も、縄文人の末裔と。そのことが事実だとすると、大変興味深い。
あらすじ
時代背景は、邪馬台国が誕生した頃からヤマト王権が誕生する頃まで。主人公は、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮の付近で生まれた双子の男子。生まれてまもなく、乳飲み子の状態で弟が海洋系の種族にさらわれ、兄弟が別々の人生を送ることになる。兄は成長して、物部氏族の一員として頭角を表し、弟は息長氏族の一員として頭角を表した。
北部九州では倭国大乱が収まり、卑弥呼が女王として邪馬台国を率いた頃、弟は息長氏族として、卑弥呼の手下として務めるようになった。兄は、父親が所有していた水田で稲作に従事していた。父親は生口と言って、養っている人達(身分的には奴隷)に農作業をさせていた。その父親の手伝いをしていた。ある年、気候変動があって農作物が不作になり、父親は千葉県香取市の香取神宮付近から祈祷師を連れてきた。中臣氏族です。そこで、その祈祷師の倅と兄は仲良くなり、お互いに通じ合うようになった。兄が成人したころ、気候変動により大洪水に見舞われ、物部氏族の水田が全滅になった。そこで、物部氏族は西へと移動する。その時、中臣氏族も移動。災害の少ない土地を求めた。そして、たどり着いたのが畿内でした。
双子の兄弟は、卑弥呼が亡くなり、邪馬台国が弱体する中で、ドラマチックに出会う。そして、邪馬台国に変わる政権、ヤマト王権の土台作りをすることになる。
主な登場人物
物部氏族
物部日向馬(ヒュマ:兄)、物部伊那部(イナべ:父)、阿木沙都姫(アキサトヒメ:母)、物部大綜麻杵命(オオヘソキノミコト:実在人物)、物部伊香色雄命(イカガシコオノミコト:実在人物)
息長氏族
息長遼瀬依(リョウセイ:弟)、息長安藻(アソウ:義父)、黄咲美姫(キサミヒメ:義母)
中臣氏族
中臣摩耶彦(マヤヒコ:兄の友達)、中臣曽孁比古(ソメヒコ:摩耶彦の父)、中臣神聞勝命(カミキキカツノミコト:実在人物)
尾張氏族
尾張多岐曽根(タキソネ:兄の友達)
蘇我氏族
蘇我三千比古(ミチヒコ:弟の友達)
葛城氏族
葛城沙兎比古(サトヒコ:弟の友達)
安曇氏族
安曇加蛇是(カダシ:弟の友達)、安曇百足(モモタリ:実在人物)
三輪氏族
三輪李逵畝(リキセ:弟の友達)
日本の弥生時代の文献などがないので、この物語は創作です。登場人物も架空の人ばかりです。