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男娼の兄がいて  作者: ひわたしつばめ


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番外編 泥濘に咲く

 腐った花ほど見苦しいものはない。

 湿った、腐敗の、悪臭をただよわせて、美しく咲いた分だけ不快さをまき散らす。

 醜く、唾棄すべきもの。

 だがそうなるのは、無理矢理本来の居場所から切り取られているからだ。

 地に咲く花は、枯れても地面に戻るだけ。不自然に切り取られ飾られた花だけが、腐ったまま見苦しく残り続ける。

 人も、同じ。

「綺麗な手だ」

 そう、例えば、僕、みたいな。

「労働を知らない手だな。貴族の子息だなど店主の冗談かと思っていたのだが、本当のところはどうなのかな?」

 さぐるような男の問いかけに、僕は視線だけを返す。

 そうすると触れていた手を引いて、客の男は僕を腕のなかに閉じ込めた。

「ミュゲというのは、ここで得た新しい名前かい?」

 耳元で囁かれた声には甘い見下しが含まれていた。

「僕が誰かなんて、これからすることに本当に必要?」

 艶然と微笑んでそう口にすると、男はその答えを気に入ったようで満足そうな声をあげた。

「いらないな」

 男が僕の服に手をかける。あとはもう、わずらわしい会話はしなくていい。

 吐き気をもよおすほどに気持ちの悪い時間も、毎日のように繰り返していれば慣れていく。

「美しいな、ミュゲ」

 少女のようにも見える線の細い身体。冬の夜の月のような銀髪。客から贈られたペリドットの宝石によく似た、淡い光を宿す黄緑の瞳。

 誰も彼もが僕の容姿を褒めそやすが、そのせいでここにいるのだから一欠片も嬉しくはない。だがもう不愉快な賛辞にも心が動くことはなくなった。

 男娼館ジョンキィユに売られてから、二年。

 窓から見える世界は、もう自分のものにはならない。そう理解するには十分すぎる時間がたっていた。

 身体はこんなにも腐っているのに、どうしてまだ死んでいないのか、そんなこともわからなかった十四の夏。

 彼ら兄妹がジョンキィユにやって来たのは、僕がすべてを諦めた、そんな頃だった。




 その日の僕は珍しく休みで、だからジョンキィユの主から新入りの出迎えをするように言われた。

 朝なんていつもならちょうど眠りにつく時間だ。面倒な雑用を押しつけられたなと、いつもとはズレた時間に起きたせいでぼんやりとした頭で憐れな新入りを僕は迎えに行った。

 みんなが眠りについた時分の館はなんの音も聞こえず静かだった。玄関の扉の前に立てば話し声が外からかすかに聞こえてくる。

 わざわざこの館の前で立ち話をするような奇特な人間は普段いない。きっと今日来るという新入りの兄弟だろう。

 やって来るのは、十五才と、十才の兄弟。この世で一番不幸な顔をしているだろう人間と接するのは億劫だ。それに彼らだってしばらくすれば僕を厭うようになるだろう。

 関わるだけ無駄なのだから、さっさと説明を終え立ち去ろうと気だるげな心で外に出た。

 扉を開けた瞬間、目がくらむ。いつもは目にしない朝の日差しは、ひどく眩しく、目が痛んだ。

「きみがルカ?」

 明るすぎる世界にくらくらしながら人影に声をかける。次第に焦点が合うと、兄であろう少年がジョンキィユにいる誰よりも飛びぬけて美しいのがわかった。

 ああきっと彼はとても()()になるのだろう。可哀想に。だがそんな他人事の同情は表に出したりしない。

「僕はミュゲ。よろしく」

 微笑みかけると、弟がぽやっとした間抜けな顔で僕を見た。ここがなんなのかこの子はわかっていないんだろう。兄と似ず、普通の子だった。容姿も、そしておそらく中身も。

「その子は?」

 わかっていながら念のため確認すると、ルカは子を守る狼のような目で僕を見返した。

「俺の弟だ」

「その子も?」

「いいや、この子は、ちがう」

 ルカが弟の手を強く握ったのが見えた。二人の手は強く強く結ばれていて、その姿に自分の心がささくれるのを感じる。

「……へえ、そうなんだ。でもいつまで許されるだろうね」

「させないよ。俺がさせない」

 強い意思のこもった声。この世には絆というものが、愛というものがあるのだと、知っている者の声だった。

 吐き気がするほどにうとましい声だ。

 冷ややかな心で思う。精々足掻いて、そして現実に打ちのめされればいいと。

 そうなればきっと僕は安心する。

 だがそんな気持ちをよそに、ルカは瞬く間にジョンキィユの売れっ子になっていった。

 弟のジェンナは、昼は雑用をし夜は部屋で安全に閉じこもっている。身を売ることなく、いつかそうなる恐れも持たずに、ここにいる。

 当然、そんな存在は他のやつらから目の敵にされた。

 それはそうだろう。一人だけ守られているなんて許せない。同じ場所にいるなら、みんな一律不幸であるべきだ。

 ルカが人気になればなるほど恨みは増えていき、必然的にそれは起こった。




「馬鹿なことしたね」

 悪質な客にやられた火傷のあとに軟膏を塗ってやりながら僕が言うと、ルカは殴られて切れた口端も気にせずに明るく笑った。

「しばらく休みをもらえたんだと思えば、まあいいさ」

 首をしめられたのだろう痣も痛々しい。

 こんな目にあわされたことはこれまでなかっただろうに、気丈なことだ。

 ルカは今日、同僚の男娼の顔を殴った罰で普段ならとらない客の相手をさせられた。

 金だけはある趣味の悪い客で、大金を積まれても拒否する男娼も多いようなやつの相手を強要されたのだ。

「だけどこれ……、どうにか隠せないか?」

「無理だよ、こんな生傷と痣だらけじゃ隠しようがない」

 彼が美しいから余計に痛々しい姿に目をそらしたくなる。しばらく客をとることはできないだろう。だが彼が気にしているのはそんなことじゃない。

 たった一人に隠したいがために、こいつは夜が明けたばかりのこんな時間に僕の部屋を突然訪れてきたのだ。

「ジェンナ……、泣くかな……」

 そのジェンナのせいでこんな目にあっているのに、本当にお優しいお兄様だ。

「後悔するくらいなら殴らなければ良かったんだ。陰口なんていつものことだろ」

 騒ぎになったから何が起きたのかはすでに知っていた。ジェンナを悪く言われたルカがそいつに殴りかかった。馬鹿馬鹿しい小競り合いだ。

「俺のことは何を言われてもいい。でもジェンナは駄目だ。あいつはジェンナを貶めるようなことを言った。俺の迷惑にならないようにといつだって我慢ばかりして暮らしているあの子を汚すようなことを言った。それを……、聞かなかったことには、できないさ」

「まあなんだっていいけど……、でも弟に隠れて治療したいからってなんで僕のところに来るんだよ」

 どうでもいい愛情の吐露を聞き流して言うと、ルカが心外だとでも言いたげな顔をした。

「なんでって、だって友達だろ俺ら」

「……………………は?」

「あれ? ちがうのか? だってミュゲ、言葉遣いとか所作とか俺に色々教えてくれただろ。嫌いなやつにあんな丁寧に教えないだろうし……、俺は勝手に仲良いつもりでいたんだけど」

「教えたのは……バルゴにそうするように言われたからだよ……」

 ルカをより高く売るためにジョンキィユの主――バルゴから頼まれたのだ。

 彼の美しさは貴族向けだ。けれど平民として育った彼の普段の振る舞いは、貴族からすれば粗野すぎる。そのため貴族向けの振る舞いを教えるよう言い付けられたのだ。

「そうなのか? そっか、まあでも俺は友達だと思ってるから」

 それを知らずに、誰かから僕が貴族の生まれであることを聞いたルカは自分から貴族に好かれる振る舞いを僕に教えてほしいと頼みこんできたけれど。

 僕はそれに応えたけれど、ルカのためにやったことじゃない。そんなもので友情なんてうまれるわけがない。どうすれば友達ができるかなんて、僕は知りもしないけど。

「迷惑か?」

 返答に悩んで黙る僕を見て、残念そうにルカは苦笑した。相手がどう思うかはあまり気にしないやつだと思っていたから意外で面食らう。

「…………迷惑ってほどではないけど。でもさ、きみも知ってるだろ。僕がみんなからどう思われてるか」

 落し胤ならまだともかく貴族だったやつは僕の他にはここにはいない。

 だから遠巻きにされてる。だけならまだ良かったけれど、自分から僕に近づいてくるやつはもうここにはいない。

「あー、なんかお前のせいで誰か亡くなってるとかなんとかってやつ?」

 ジョンキィユに来て半年がたつ頃、僕は人を殺した。

「それ本当だから」

「……じゃあこのままだと俺も死ぬ?」

「かもね」

 あいつは十二才で死んだ。

 同い年で、人懐っこいやつで、僕がこれまでの人生で一番気を許した相手だった。

 良いやつだった。

「そいつのこと嫌いだったか?」

「そんなこと聞いてどうするの」

「どうもしないさ。聞いてみただけだ」

 嫌いだったか? なんて無意味な質問だろう。好きも嫌いも判断する資格なんて僕にはない。

「……嫌いだったよ。嫌いだった。平民のくせに、立場もわきまえずに僕に近づいてきたんだ。それだけでもう不愉快なのに、小汚い子どものくせに何を思いあがったか上流階級の子どもの真似事を僕にねだって、不相応な振る舞いをして相応に死んでいった」

 金払いのいい貴族の相手をした方が、高い給料をもらえる。

 寒村で生まれたというあいつには多くの弟妹がいて、口減らしで死なせるのだけは嫌なのだと、彼は言った。たった一度だけ口にした、あいつの本当。

 乞われるままに、僕は教えた。頼られて嬉しかったから、教えてしまった。

 貴族にとって平民がどんな存在かくらい、知っていたはずなのに。

「身の程知らずな馬鹿だからだ。だから死んだ。身にそぐわないことをするから、身にそぐわない場所にいるからあんな目に合うんだ」

 あいつを殺したのは、ルカがさっきまで相手をしていた貴族の客だ。

 平民の子どもが僕から貴族について学んでいると聞きつけて、興味を持った。そう、言ったらしい。

 本当は、その時そいつに目をつけられていたのは僕のほうだった。すでに何度も相手をするのを断っていたときで、断れば断るほど執着されるぞとバルゴから忠告されていた頃だった。

 僕と仲が良かったから、憂さ晴らしのようにあいつは選ばれた。

 僕が半端に貴族について教えたりしたから、不用意に関わってあいつは殺された。

 こんなところにいる平民の子どもを殺したくらいで、貴族が罪に問われることはない。

 そういう場所だ、ここは。

「あいつはジョンキィユに来るべきじゃなかった。畑の手伝いをするとか、普通の店で下働きをするとか、そういう平民の子どもらしい生き方をするべきだった。そういう生き方を選ぶべきだった」

 幸せになれる人間だった。家族からも不要だと捨てられた僕とはちがう。あいつは幸せになれる人間だった。

 こんな汚泥のような場所、ちっともあいつに相応しくはなかった。

 それなのに、こんな場所で死んでしまった。大人になることもなく、望みも果たせず、惨めに死んだ。

 僕が殺した。

「お前もだよ、ルカ。お前もここが似合わない」

 初めて彼らと出会ったとき、朝日がすごく眩しかったのを覚えている。

 僕はその光を直視することができなくて、でも彼らはそうじゃなかった。

 光に照らされたその場所にいるのがとても自然に見えた。本来の彼らの居場所。僕がもう窓からながめることしかできない世界。

「お前だって死にたくないだろう?」

 貴族以外の生き方を知らない僕は、自力で外で生きることができない。だが彼らは他の生き方だって選べるはずだ。

 逃げたのがわかれば連れ戻されるだろうが、逃げ切ればいい。

 捕まれば体罰や罰金が待っているが、殺されはしないのだ。だったら賭けてみてもいい。

「死にたくないよ」

 弱音のようなものをルカが口にするのをはじめて聞いた。目を丸くした僕を見て、ルカは口の端をあげてにやりと笑う。

「ジェンナがひとりになるからな」

「またジェンナ、ね」

 皮肉まじりの笑いがこぼれた。ほんの少しの失望も多分そこにはまざっていた。

 友達だと思ってるだなどと口にするくせに、僕の言葉はこいつに響かない。

 そんなことは知っていたはずなのに、欠片でも失望の感情がわくなんて馬鹿らしい。

 こいつが大切なのは弟だけで、それ以外の人間は全部その他だ。

 優先するのはジェンナで、自分のことすら後回し。

 自分以外の誰かのために生きるなんて、僕には到底理解できない在り方だ。

 けれど。

「自分の生き方に疑問は覚えないの?」

「俺の幸福がなにかは俺が決めるさ」

 自分より、大切な存在がいるって、それは、どんな――。

 死んだあいつも家族のために生きていた。家族のために自分で選んでここにいた。

 家族のために生きて、不幸になった。

 けれど家族の話をするとき、あいつはいつも笑っていた。こんな場所で、それでも幸福そうに笑っていた。自分の送った金でみんな冬を越せたのだと。良かったと、笑って。

 僕はあんなふうに笑ったことがない。あんな幸福を、味わったこともない。

「ああそう、勝手にしなよ。そうして勝手に死ねばいい」

 制御できない感情のまま彼の首に手をかけた。瞬間、ルカは目を見開いたがすぐに心を落ち着かせると噛んで含めるように僕にこう言った。

「死にたくないし、お前に殺される気もないよ」

 不愉快さから最初は彼の首に触れただけだった手に力が入る。だがルカは余裕そうな表情を崩さない。

 指先が肌に食い込む。自分の手が、なにかを、おそらくは命を握りつぶす感触がして、反射的に彼から飛びのいた。

 さあっと血の気がひいていき、ぐらぐらと歪む視界にたえかねて自分のベッドに倒れ込む。

 まるで溺れたあとのように息が荒い。ルカの首に触れていた指先が燃えるように熱い。ないはずの、痛みを感じるほどに。

 けほりと、咳払いの音がした。先程までは痩せ我慢をしていたのだろう。ルカは痛みに顔をしかめていた。だが僕を見ると、彼は仕方なさそうに苦笑した。

「大丈夫だから、そんな顔するなよ」

「自分の首を絞めたようなやつのことをそんな簡単に許すなよ……」

 僕はいまどんな顔をしている? けれど絶対にいま鏡なんて見たくはない。

 見てしまったら、知りたくない自分の心が見えてしまうような気がする。

「許すさ、友達なんだから」

 目がかっと熱くなって、ベッドに顔を伏せる。どうしてこんなに心がぐらつく。自分は感情的な人間ではないはずなのに。

 怒ることも、泣くことも、ここに来てから忘れていたのに。

「ミュゲが言う平民の暮らしはさ、画家が描いた絵みたいなもんだよ。なんかちょっとよさそうで、なんかちょっと頑張れそう」

 やわらかな声でルカは言った。

「…………所詮、僕も貴族だって?」

 顔を突っ伏したまま発した声はくぐもっていたのに感情を隠せていなかった。

「それは言い過ぎ。でもちょっと理想を見すぎかな。ミュゲが思ってるほどには平民の暮らしはそんな良いもんでもないし、選択肢もそうあるわけでもないよ」

 どうせ僕にあるのは知識だけだ。幼い頃は家のなかで、没落してからはジョンキィユのなかだけ。

 狭い世界のなかでしか生きたことがない。

「ミュゲは俺らより頭がいいぶん考えすぎるんだろうな。でも俺らの暮らしに考えていられる時間はないんだよ。余裕がないんだ」

 ため息まじりの笑いをルカがこぼす。

「ちゃんと考えて、ちゃんと正解だけを選べたらいいんだけどな。今日食べるものを手に入れるためには、考えてなんていられない。いつか後悔するとしてもその時にある選択肢から信じた最善を選ぶしかない」

 カビたパンを食べて腹を壊すかもしれなくても、いま口にするしかない。

 そういう世界があることもいまの僕はもう知っている。けれど。

「だから俺はここにいて、亡くなったっていうそいつだってここにいたんだ」

「だから、僕のせいじゃないって?」

 自分で決めたから、誰のせいでもない。本当だろうか? 僕はそうは思えない。

 ルカが言うように最終決定をしたのはそいつ自身だとしても、決めざるを得ない状況にしたのは一体誰だ。

 生きるために泥水をすするか、諦めて死ぬか、そんな二択しかくれないのに、自分で決めたからいいんだなんてそんな物分かりのいいことを言うなよ。

 伏せていた顔を持ち上げて、先程までとは異なる熱で燃えるような目をルカに向ける。

「お前のその利口さはただの適応だよ」

 不幸を肯定しなければ心が壊れる。そのために生まれたねじれた明るさを持ったやつをこれまでに何度も見てきた。

 追いつめられた適応を、前向きな生き方だなんて呼ばせるなよ。

「おそろしく頑固だな……」

「僕が雰囲気に流されて説得されると思ってるんなら、僕を知らなさすぎじゃない?」

 大仰に足を組んで膝に頬杖をついて言うと、おかしそうにルカは笑いだした。

「本当にそうだな、全然知らなかった。てっきり大人しいけど潔癖なやつなだけだと思ってた。でもそれだけじゃないんだな。なあ、いつもそれくらいふてぶてしくいろよ。いまの方がいい。俺以外にもお前と話したいやつがきっと増えるよ」

「そんなの別に望んでない」

「そうか? 俺はそうは思わないよ」

「……勝手に言ってなよ」

 どうせこいつは僕の話なんて聞きやしない。そう思って会話を放り投げたのに、ルカは機嫌良さそうにしている。

「なあミュゲ、俺ジェンナのことが大切なんだ」

「知ってるよ」

「この世のありとあらゆる不幸も悲しみもあの子から遠ざけてやりたい」

 到底無理なことを本気で言っていることに呆れた。過保護すぎる。

「……それなのに俺がずっとジェンナを傷つけ続けてるんだ。お前らがあの子のことをどう思ってるかは知らないけどさ、ジェンナは俺のために大人しくしてくれているんだ。全部を我慢して、俺に守られてくれている」

「そんなの、守られていて良い御身分だって思うけどね」

「それを喜べる子だったら良かったんだけどな。……ここにいる限り俺はあの子をずっと悲しませる」

「そこまでわかっててなんではやくここから逃げ出さないんだよ」

 ルカはきっとどこでだってやっていけるだろう。立ち居振る舞いだって教えればすぐに習得していた。

 なんだってできるやつだ。ここにいつまでもいるほうがおかしい。

「俺が憶病なせいだよ」

 憶病さとは程遠いのがルカという男だった。少なくともこれまで僕がみてきた彼は、だが。

「もしも、ここから逃げて……、もしかしたらそうすれば今よりずっとまともな暮らしができるのかもしれないよな。でも、そうじゃなかったら? 最悪な、本当の本当に最悪な状況に陥るかもしれない。そうなるくらいなら予想のできる地獄にいるほうがいい。俺は臆病で、弱いんだ。あの子をこれ以上傷つけたくないし、傷つきたくない」

 乾いた自嘲をひとつこぼしたルカは訥々と話を続ける。

「もうすでに、傷つけてるのに、これからも傷つけていくのがわかるのに、逃げ出すことを選べない。俺がガキで、たいした力もないから、間違ったやり方でしか大事なものを守れない。……………………もっとちゃんと大切にしたかったのに」

 最後の一言は、消えいるような声だった。

 かすれて聞こえたそれが混じり気なしの彼の本音だというのが、頭ではなく感情として伝わる。

 さっき彼が口にした「後悔するとしてもその時にある選択肢から信じた最善を選ぶしかない」というのは虚勢だったのだろう。

 本当は選びたかったものが、欲しかったものが彼にもあるのだ。

「情けないな、ルカ」

「そうだよ。俺、全然すごくないんだ」

 普通の人間の顔で彼は笑った。

 美しすぎる顔のせいでいつだってどこか超然として見えるのに、今の彼はたった十五才の少年にしか見えなかった。

「かっこ悪いな、お前」

「……ジェンナには内緒な」

 またジェンナだ。本当に馬鹿だこいつは。でもあんまりにも馬鹿だから、気が向いてしまった。

「ルカ、お前ってここにいるまま幸せになるつもり?」

「ああ、そうだよ。たとえ間違っていたとしても、それでも俺は手に入る最善を目指す。それを俺の幸福にする。……ミュゲはそうは思わないかもしれないけどな」

「手伝ってやってもいいよ」

 軽い口調で言うと、ルカはぽかんと口を開いた。こんな間抜けな顔でも綺麗なんだから、同情する。

 ただ美しいというだけでどれほど理不尽に搾取されるのかを僕は身を持って知っているから。

「お前がお前なりの幸せってやつになるの、見てみたくなっただけ。ほら、無謀な馬鹿って眺め甲斐があるだろ?」

「……ミュゲ、変わってるな」

「ルカにだけは言われたくないよ」

 言い返すと何がそんなにおかしいのか、ルカは腹を抱えて笑い出した。

 そうして僕らはその日から、多分、友達ってやつになった。




 ルカとの関わり方が変わってからジョンキィユでの毎日は、ちょっと変わった。

 どういうことなのかはわからないけれど、前までは遠巻きにしていたやつらも僕がルカと話したりしていると近寄って来るようになった。

 もう突っぱねる気も起きなかったからそいつらとも普通に話していると、次第に腫れものに触るような扱いをされることもなくなっていった。

 手伝うとは言ったものの僕の力添えなんて些細なもので、ルカは自力でどこまでも売れていった。

 あの日もらした弱音なんて夢だったように思うほど、ルカは最短距離で望みを叶えていく。

 ジョンキィユの売上を倍増させるというバルゴとの約束を、ルカはたった三年で果たした。

 そしてジェンナはここから出ていった。ジェンナだけがここから出ていった。

 女だからここにいつまでもいるわけにはいかない。その理屈はよくわかる。

 ジェンナが弟じゃなくて妹だと気づいたときは、さすがの僕も唖然とした。だって、危なすぎるだろうこんなとこ。

 過保護なのにも合点がいく。いつまでもは隠しきれないとわかっていたからあんなに過剰に守っていたのだ。

 実際、僕の他にもジェンナの性別に気づいたやつはいただろう。だがその頃にはルカはここのやつらに恩を売ったり尊敬されていたり、はたまた僕に弱みを握られているやつだったりしたからジェンナに何かしようとするやつはいなかった。

 そうやって守りきって、金や伝手がないと入れない寮制の学校という安全な場所を獲得した。

 学生でいる間はジェンナの無事は保証されただろう。さあこれで兄としての役割はお役御免というわけだ。

「ルカ、お前……、幸せになるんじゃなかったわけ?」

 やるべきことは終えたというのに、ルカはジョンキィユから出ていかなかった。

「なってるだろ。ジェンナは今まともな生活をおくれてる」

 ジェンナの幸せがルカの幸せ。そんなことはとっくに知っている。

「ルカの部屋に鏡ってなかったんだね。知らなかったよ」

「…………そうだったのかもな」

 覇気のない返事に苛立つ。新しくここに来たやつらに対する責任感だか贖罪だか知らないがそんなもの今すぐ捨ててしまえばいいののに。

「僕は、ジェンナのことなんかどうだっていいよ」

 あの弱々しい生き物が野垂れ死のうが犯されようが僕はなんとも思わない。

 守られているだけのジェンナに苛立ったときは、本気でどこかの娼館に売り飛ばしてやろうかと思ったこともある。

 なにもしない、なにもできないあの弱さに、見ていると不快な気持ちばかりがわいてくる。

 僕はジェンナが嫌いだ。気に食わない。どうだっていい、あんな子ども。

「だけどお前には必要なんだろ!」

 本当に癪だけど、そうなんだから仕方がない。

 一緒にいろよ。あの日、固く手を繋いでいたように。

「必要すぎるから駄目なんだよ……!」

「なんだよそれ……」

 感情を抑えるように片手で顔をおおって、ルカは細く長く息を吐いた。

「ジェンナは俺が拾ってきた子なんだ」

「拾ってきたって、それ」

「本当の妹じゃない。だから、なあ、わかるだろ……」

 救いをもとめすぎて間違いをおかしたくない。そんなところだろうか。

「幸せそうに生きてる姿を遠くから見守るくらいがちょうどいいんだよ……」

 ルカがあんまりにも苦しそうにしているから、僕はそれ以上なにも言えなかった。

 言えば良かった。いいわけないだろって。ジェンナの気持ちはちゃんと聞いたのかよって。

 そうすればジェンナも、戦争に行ったりしなかったのかもしれない。

 ジェンナが戦争に行ってからルカは気絶するほどに酒を浴びるようになった。

 時折やって来るそれはいつもどこかの部隊が壊滅しただとかそういった悪い話を耳にしたときだった。

 なにも考えたくないのだと、こうすればなにも考えずにいられるのだと、現実を拒絶するように酒を飲んで意識を失っていた。

 こんな彼の姿は見たくなかった。だってこんなのまるで、負けたみたいじゃないか。

 自分では何も変えられない。神に祈るしかない。そんな、弱い人間みたいじゃないか。

 ルカは消極的に自殺していた。何度忠告しても彼は自分の身体を大事に扱おうとはしなかった。

 腹が立った。怒鳴りつけたかった。お前、そんなやつじゃなかっただろ。

 正直なところこうなった彼に僕は失望した。だけどそれでもルカから離れようとは思えなかった。

 僕だって意地になっていたのかもしれない。でもこいつに幸せになってもらわないと困るんだよ。

 だってこんなやつが幸せになれないような世界のなにを信じられるっていうんだ。

 それに僕は、こいつのことが好きだ。不本意ながら、尊敬してる。多分憧れてもいる。叶わなかった夢をこいつに見ている。

 執着もしている。でも恋ではない。ジェンナもジョンキィユのやつらも勘違いしているのは知ってる。まったくもって馬鹿だと思う。

 だって本当に僕がルカに恋情をいだいているなら、ジェンナのことなんてとっくに抹殺している。

 ただ、見たいんだよ。こいつが幸せになるところが見たいんだ。それを見ることができたらきっと僕は救われる。

 僕はそれを知っているんだ。

 だから死ぬなよ、ジェンナ。お前の無事を祈るなんてムカつくけれど、それでも死ぬな。

 お前が死んだら、きっとルカは生きてはいけない。

 お前がいなきゃ、絶対にルカは幸せにはなれない。


『私が生きているのに兄さんが死ぬわけない!』


 お前が生きて帰ってきて、嬉しかったよ。嫌いだけどさ。

 本人にもルカにも絶対に一生言ったりはしないけど、嬉しかったよ。

 多分ルカの、次くらいには。




 ルカとジェンナが旅立って一か月後、僕も長年いたこの町から離れる日がやって来た。

 だが旅立つ前にやるべきことがある。

 指定された場所に向かう足取りは重くなかった。前とは違い外をよく出歩くようになったため、簡素なシャツとズポンを着るようになったが動きやすいし楽でいい。

 久しぶりに目の前にきた忌まわしきジョンキィユは、うらぶれた雰囲気をかもし出していた。

 まだ店をたたんで半年かそこらだというのに、人が不在になった建物というのはこんなにもすぐに廃れてしまうのか。

 愛着なんてないはずなのに、やるせなさがわいた。なんていらない感傷だろう。

 目的の相手はもう中にいるはずだ。建物のなかに入ると、埃っぽい空気が喉にからみついた。

 雑用を担っていた子どもたちが毎日掃除をしていた床も、階段の手摺も窓枠も埃がつもっている。

 飾られていた絵画は取り外され、額縁があった場所には日焼けしていない壁だけが残っていた。

 昼前の明るさが窓から射しこんでいるというのに、室内はどこか薄暗い。

 自分のたてる足音だけを聞きながら、一階の一番奥にある部屋に足を進める。

 扉をノックするのには一瞬ためらいがあった。嫌な記憶ばかりがある場所だ。

 いまだに残る幼い弱さを振り払い扉を叩くとなかから返事があった。

「久しぶりだな。元気してたか、ミュゲ」

「あんたの顔を見るまではね」

 なかで待っていたのはジョンキィユの主、バルゴ。僕がこの世で三番目に嫌いな男だ。

 バルゴは、普通の男だ。

 なんの変哲もない茶色の髪、茶色の目。痩せてもいなければ太ってもいない身体。

 顔だって整ってもいなければ不細工でもない。本当に見た目だけは普通の男。

 だが見た目のままの普通の男なら、貴族相手にここまで商売をすることはできない。

 二十そこらでジョンキィユの主になったというバルゴは、まだ四十手前のはずだ。

 他の店の主とくらべると本当に若い年齢だった。僕らとだってすらせいぜい年の差がある兄弟ほどしか離れていないのに、ここの全てを取り計らっていた男。

 僕のことも、ルカのことも、こいつがここに連れて来た。

 こいつは人の弱点を捉えるのに長けた、狡猾な人間だ。

「そらぁ、すまないな。せっかくだし見納めにもっと見ていけよ」

「遠慮しておくよ」

 顔をそむけると部屋の様子がなんとはなしに目に入ってくる。

 バルゴが仕事をするのに使っていたこの部屋はもともと机と椅子、そして本や書類が詰まった棚くらいしか家具がなかった。

 応接室は別にあるから客が立ち入らない場所とはいえ、ここの主の部屋とは思えない地味な場所だ。

 調度品もなければ娯楽のひとつもない。ジョンキィユに存在するなかで一番簡素な部屋かもしれない。

「あんたが金も時間もかけて集めたやつら僕がもらってくよ」

 長居する気はない。用件をとっとと済ませるため切り出すと、バルゴは愉快そうに口の端をあげる。

「まさかお前がなぁ……。あいつらをどうするつもりだ? ここを継ぐ気か? お前はここの仕事が心底嫌いだと思ってたんだけどな」

「嫌いに決まってるだろ。当たり前のことを言うなよ」

 突然呆気なく終戦するまでは、情勢は悪くなる一方だった。

 商売に見切りをつけたバルゴと、働けなくなったルカの状態が重なる形で、ジョンキィユは半年前に完全に閉鎖した。

 年が上のやつらは伝手でどうにかしたり、バルゴにどうにかさせたりと、次の生き方を自分で決めていった。

 残ったのは、まだ幼いやつらばかりだった。

「じゃあなんであいつらを連れてく、足手まといにしかならないだろ」

 一番年が上の子でも十七。多くは十三やもっと幼い子たちが全部で十数人いる。

 集団生活は慣れているし、雑用をやっていたから家事などは全員一通りできる。

 だが全員が十才前後でここに来た子どもたちだ。普通をもう忘れてしまった子たち。

 将来の道筋なんて、いまはまだ見つけられない子どもたち。

「僕はやっぱり、骨の髄まで貴族なのさ」

「ルカのお節介がうつったか?」

「ちがうよ」

 大変なことはわかっている。今はもう僕だって庶民の暮らしのことを少しくらいはわかっている。

 だけど大変だというだけでは、やらない理由にならないだろう。

 なんといったって僕はずっとルカとジェンナを見てきた男だ。

 あいつらに比べれば、僕がこれからやろうとしていることくらいはたいしたことじゃあない。

「ずっとずっと昔の、自分の願いを叶えようとしているだけさ」

 十三年間、一時も忘れたことのない少年の顔が頭のなかを過る。

 僕は大人になった。お前を置いて、大人になった。でもだからできるだろう。今の、僕なら。

 死なずに生きた、意味を。これから手にするんだ。

「……好きにしろ、精々頑張ることだな」

 これで義理は果たした。この様子からしてあとから何か言ってくることもないだろう。

 だが最後に一つだけどうしても聞いておきたいことがあった。

「なあバルゴ。なんで男娼だった」

 バルゴが主になるまでは、ここも他と同じく女ばかりがいる娼館だった。

 こいつが継いだ途端、女を全員解雇した。場所以外の全てを変えた。店の名前を変え、男娼だけの店に変えた。

「女だけを売る店はいくらでもあるけど、男だけを売る店はなかったからな。他のやつがやらないことをやるのが良い商売人ってやつだろ?」

「よく言う。ただ女が怖いってだけのくせに」

「……はあ?」

 崩れた。その様子に、してやったという喜びが内心で浮かぶ。

 幼稚だとわかっていても、一度くらいやり返したかった。

 バルゴが感情をこんなにもあからさまに見せたのは初めてのことだ。

 その様子から自分の指摘が当たっていたことがわかる。

「もし、そうだとして。それがどうしたっていうんだ」

 どろりとした底の見通せない目が僕を射抜く。

「どうもしないよ。ただ、僕がちょっと愉快に思うだけ。だってあのバルゴが、僕たちを不幸にしてもなんとも思ってなさそうだったバルゴが、女性に怯えてる。はは、面白いじゃないか」

 乾いた笑いをもらす僕にバルゴは冷ややかな視線を向ける。

「……俺が不幸ならお前は満足するのか?」

 どうしてそんなことをこいつは聞くのだろう。

「どうだろう。するのかもね? だって僕、あんたが嫌いだ」

 面と向かって口にしたことはさすがになかったので、清々する。

 笑いながら言ってやると、バルゴは虚を突かれたような顔をして片眉をあげた。

「ミュゲお前……。ああ、いいさ。旅立ちの祝いとして教えてやるよ。お前の言う通りだ。俺は女が怖い。抱けもしない。深くは関わりたくない。なんでって? よく聞けよ。ガキの頃に目の前で姉貴が犯される姿を見せつけられたからさ」

 ちっとも嘆きの色がない声でバルゴが言う。

「あの日、最後に聞いた姉貴の首の骨が折れる音をいまも覚えてる」

 奇妙なほどに軽い物言いだった。

「ジョンキィユってあんたの復讐の道具だったんだ? なんだあんたそんな程度の人間だったんだな」

 だから僕も軽い調子で言い返した。

 だってどれだけの過去があったとしても僕はバルゴに同情なんてしてやらない。されたくも、ないだろうし。

「バカかお前は。復讐なんてしょうもないことに人生費やしてたまるかよ。俺がこの仕事をしてたのはお前らが金になると思ってたからに決まってる」

「あんた長生きするんだろうね」

 嫌なやつってのはだいたいしぶとくて、なかなか死なないものだ。

 でもそれでいい。精々大嫌いな現実で生き続けるがいいさ。

「どうだろうな。ま、明日死んでたら笑っとけよ」

「明日僕はもうここにいない。知らないよ、バルゴのことなんか」

 そう言うと、バルゴは大声で笑い出す。なにがそんなにおかしいのか腹をかかえて笑っている。

「ちがいない。好きにしろよ。お前も、あいつらも」

「言われなくても、好きにするさ。じゃあねバルゴ」

 答えるようにバルゴは口の片端だけあげてひらひらと手を振る。

 最後に見た彼は、憑き物でも落ちたみたいにずっとあった影が少し薄れていてちょっとムカついた。




 ジェンナに買わせた山間の村は、一番近い町にいくまで丸一日かかるような辺鄙な場所にある。

 だからこそ廃村寸前のところをうまく手に入れられたわけだが、住み始めは想像以上に不便だった。

 まだ数組だけ残っていた住人は最初は僕らを警戒していたが、子どもばかりだとわかると途端に優しくなった。

 爺様にも婆様にも見返りなしにだいぶ助けてもらった。戸惑ったけれどありがたかった。

 暮らしは子どもだらけだからの苦労も多かったが、子どもだから環境に馴染むのもはやく半年もすれば生活は以外にもうまく回るようになった。

 二年目に突入するいまでは、僕なんてなにもさせてもらえていない。

 ひどいよね、ちょっと見た目がよくない朝ご飯をつくったくらいでさ。

 まあ僕の役目はここの長だから、身の回りのことは全部やってもらうくらいでちょうどいい。

 自給自足の食物の管理と、ここで起きた全ての責任を負う。いたずらした馬鹿の代わりに頭を下げるとかね。

 ゆくゆくは何か特産をつくって商売をしようと目論んだり、やることは以外とある。

 例えば相談にのるとかもそうだ。

「なあ……、俺、さあ……、ちょっと銀細工職人……いいなって思ってて……でもああいうのって俺みたいなガキじゃ……。その……紹介とか、なきゃ、なれないのかな……」

 つっかえつっかえ男の子が口にする。いつもは活発な彼らしくない様子だった。

「それどれくらい本気?」

「ミュゲに……、相談するくらいには……」

「そう、ならいいよ。バルゴに手紙出しておくからそこそこ期待して待ってなよ」

 ジョンキィユにいた頃はまだ十一才だったこの子は、バルゴに頼ることにもそこまで忌避感はないだろう。

「バルゴ……? なんで、まだ」

「使えるものは使う方が得でしょ」

 なんといってもあらゆる方面に伝手がある便利な男だ。

「でも……ミュゲ……」

「心配する必要なんてないよ。紹介の代償にバルゴから何か要求されたりなんてしてないから」

 どんな気が向いたのか知らないが、これくらいのことは無償で請け負ってくれる。

「本当だよ。僕はきみたちのために犠牲になったりはしない」

 念押ししても不安そうなその顔に苦笑する。

 ルカじゃあるまいし、僕は本当に自分の身を削ったりはしないというのに。

「今日昼食の当番だろ? さっきのことは僕に任せてそろそろ向かいなよ」

 少年らしい幼い肩に手をかけ押しながら部屋から出る。するとそこに小さな女の子が跳ねるようにやって来た。

「ミュゲ! ねえ! ねえ! ねえ!」

 元気に足に飛びついてきたので抱き上げる。

 この子はジョンキィユにいた子の妹で、この村に来る途中で拾ってきた子だ。

「なに? 何か良いものでも見つけたの?」

 まあるいきれいな石とか、森で見つけた野苺とか、道端に一輪だけ咲いてたピンクの薔薇とか、この子の宝物はたくさんある。 

「うん! 天使さま!」

「天使?」

「天使さまがさっき来たの!」

 紅潮した頬に、興奮できらきらと輝く目。

「変なきのこでも拾い食いした?」

 どうしよう、吐かせたほうがいいかな。

「ほんとにいたの!」

 訴えるように腕の中でじたばたと動かれる。落しそうになってひやひやした。

「ちょっと、危ないよ」

「いたんだもんー!」

「わかった、わかったよ」

 なだめながら床におろし、手を繋ぐと彼女に導かれるままに外に出る。

 なにがなんだかわからなかったけれど、数歩進んだだけで彼女の言葉の意味を理解した。

 天使さま。なるほどね。小さな女の子からしたら彼は確かに天使さまに見えるだろう。

 風景から浮かび上がって見えるほどに目を引く男。隣には見た目だけは平凡な女がいる。

 長くなった彼女の髪には、小ぶりだが趣味の良い髪飾りがついていた。

 初めて出会った日のことを思い出す。

 まぶしく世界を照らす光の下、今日も彼らの手は繋がれている。

「ミュゲ、久しぶり」

「遅いよ馬鹿」

 やっぱりお前ら、そうしてるのがお似合いだよ。

「相変わらずだな!」

 そして僕も今はそうだ。いくらでもある選択肢のなかから、自分で選んで、自分で決めた。

 この場所がきっととても似合ってる。

 なんといっても僕は自力では動けない花なんかじゃないからね。

 僕は生きてる人間だから、どこにだって行ける。

 今の僕にはそれがわかる。

「うち、お酒ないんだよね。果実水でいい?」

「なんだっていいよ」

「お前には泥水でも出してやろうかな」

 ルカの隣で黙ったままのジェンナに投げかけると、嫌味なんてものともせず彼女は笑いだす。

「本気じゃないくせに、ミュゲはほんと素直じゃないな」

 こいつもいつの間にか図太くなったようだ。まったくもって可愛げがないが、弱っちいよりはずっとましだ。

「いらっしゃい。僕の村へ。宿代は旅の間の話でいいよ」

「ああ、いくらでも払うよ。話したいことが山のようにあるんだ」

「それは楽しみだ」

 素直にそう言うと、ルカもジェンナも目を丸くして僕を見た。失礼なやつらだ。

 僕だってたまには素直になることくらいあるさ。例えば好きなやつらの前くらいではね。

 そっくりな表情の二人の顔がおかしくて声をあげて笑いだす。

 ああ、良い日だ!

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