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番外編 好きな人の好きな人は英雄で

 一目惚れの強度って、どれくらいあるものなんだろう。

 たった一瞬の感覚なんてもろいのかな。

 それとも運命みたいな強さがあるんだろうか。

「ただの死にたがりの馬鹿だったよ」

 わからない、けれど。

 好きな人に好きな人がいると知っても、私の恋は崩れなかった。


 彼が私が住む村に帰ってきたのは先月のことだった。

「あれ? 爺さんは?」

 ノックもせずに扉を開けた男が言った。

 ちょうど休憩中で診療所にいたのは私ひとりのときだった。

 外から入り込む昼の日の光に照らされ顔が見えにくい。誰かわからない。聞いたことのない声に警戒心がわいた。

「……どなたですか?」

 尋ねると男は診療所のなかに入ってきた。

 男は、目を奪われるような鮮やかな赤い髪をしていた。

 こんな目立つ人、一度でも目にしたことがあれば覚えていただろう。

 国境近いこの村に立ち寄るのは顔馴染みの商人くらいで、旅人がやってくることはめったにない。

 だから、警戒すべきだ。終戦したとはいえ、国境の治安は依然悪いままなのだから。

 行き場を失った兵士崩れが盗みをはたらくなんて珍しい話じゃない。

 なのに警戒とは違う意味で、私は彼から目が離せなかった。

 呆けている私の様子に首をかしげると、彼は訝しげな様子を見せ、次いでじろじろと私を見回した。

「なんか見たことがあるようなないような……、あんた名前は?」

「リルですけど……」

 おそるおそる口にすると、彼はパッと顔を明るくした。

「アルノーにくっついてた、ちび! あのリルか。でかくなったなあ」

「お兄ちゃんのことを知ってるんですか?」

 アルノーとは、私の五つ年上の兄のことだ。

「知ってるよ。よく知ってる」

 彼は穏やかな目をして言った。その目を見たら、嘘とは思えなかった。

「エミリオ、か?」

 診療所の入り口から、驚きのふくんだしわがれ声があがった。

 いつの間にかおじいちゃんが散歩から帰ってきたようだ。

 おじいちゃんは、幽霊を見るような目で男を見ている。

「ひさしぶりジョセフ爺」

 彼は、イタズラがばれた子どもみたいに笑った。

「よく生きて帰ってきた……!」

 ぼろぼろと、おじいちゃんの両目から涙がこぼれていった。

 私は、それにすごく、驚いて、知り合い? とか、お茶いれようか? とか、何か気のきいたことを言えたら良かったのに、ただ見ていることしかできなかった。

 おじいちゃんが目に涙を浮かべるのを見たのは、十九年間一緒にいてまだ二度目のことだった。

 おじいちゃんは泣く姿を人には見せない人だ。どんなことがあったって、堪えて堪えて、一人になったときにやっと涙を流すような人だった。

 はじめて見てしまったたときがそうだった。

 そのおじいちゃんが人目もはばからずに涙を流した。

 それだけで彼が特別な存在であることが伝わった。

「じいちゃんどうした何かあっ……た…………エミリオ?」

「よ、ひさしぶり」

 ひらひらと手をふりながら気安げに赤毛の男が言う。

「お前……! ひさしぶりじゃねえよ! なんだよ急に! 俺たちが……、どれだけ……!」

「悪い悪い。まあこうやって帰ってきたんだから大目に見てくれよ」

「馬鹿野郎!」

 お兄ちゃんはエミリオという人に飛びついた。

「ふざけんなお前……、勝手にひとりで死んだりしやがったら俺が殺してやるって思ってたんだからな」

「めちゃくちゃ言ってるぞお前」

 目に涙を浮かべながら組みついている兄の腕を叩きながら、エミリオという人が仕方なさそうに笑っている。

「めちゃくちゃ言わせろよこの馬鹿。……おかえり!」

「ただいま」

 再会は、私を置いてけぼりにしたまま進んでいった。

 エミリオという男はおじいちゃんやお兄ちゃんと同じ癒術師で、十三才まではこの村にいたらしい。

 私も本当に小さい頃に彼に会っていたらしいが、八才までの記憶なんて曖昧で思い出そうとしても覚えていなかった。

 十二年ぶりに村に帰ってきた彼は、村の大人たちに盛大に歓迎されていた。

 誰もが顔を合わせたそばから泣いて喜び、帰ってきた当日は村全体でお祝いをしたほどだった。

 私や私より年下の子たちは大人たちのその雰囲気についていけなかったけれど、村に活気があるのは良いことだし、ごちそうが食べられるからいいかと思った。

「ばあちゃん、痛いの我慢するのやめな。俺がいるってのに痩せ我慢で死なれちゃ困るよ」

 そしてエミリオはうちの診療所の一員になった。

「身体が痛いのなんて毎日なのにあんたは大袈裟だねえ」

 シルベットおばあちゃんは村一番の頑固者で、いつも私がどれだけ心配したって聞きやしない。

「ばあちゃん」

「……はいはい、わかったよ」

 そのはず、だったのに。

「長生きしろよな」

「もう十分生きてるってのにまだ長生きしろだなんて、仕方ない子だね」

 まただ。

 エミリオの言うことはみんなちゃんと聞く。

 私がどれだけ言ったって聞き流されてばっかりなのに。

 そりゃ私はお手伝いに毛が生えた程度の、癒術師とは名乗れないレベルでしかないけれど、それでも私だってここ数年少しずつやってきたのに。

「ばあちゃんが百才になったって長生きしろって俺は言うさ」

「まったく、馬鹿な子だよ」

 そう言いながらもシルベットおばあちゃんは穏やかな笑みを浮かべていた。

「……すごいですね、エミリオは」

 往診の帰り道にそうつぶやくと彼はからかうように口の端をあげた。

「何ぶすくれてんだ、ちび」

「その呼び方やめてください」

「わかったわかった。それで、何がご不満なんだリル様は」

「不満……というか、私って信頼されてなかったんだなあって気づいちゃったっていうか……」

 別に自信があったわけじゃない。おじいちゃんやお兄ちゃんにくらべたら自分がまだまだだって自覚だってあった。

 癒術師になりたいのかと聞かれても、肯定も否定もできない。そこで生まれ育ったからというだけ。

 そんな気持ちで、でも。

「俺がすごいのも信頼されてるのも当然なんだよ。これまでお前の何倍の人間を治療してきたと思ってんだ」

「それは、そうだと思うんですけど……」

 それでも胸の内がもやもやしてしまう。言葉にできない感情が渦巻くのを止められなかった。

「お前さあ、本当に癒術師になる気?」

「多分……」

「多分だあ?」

 エミリオは呆れた様子を隠しもせずに大きなため息をついた。

「ジョセフ爺もアルノーもお前に甘すぎだな」

「そ、んなことないですけど」

 そこまで言われるほど甘やかされた覚えはない。おじいちゃんもお兄ちゃんも癒術師の仕事のときは厳しくて、手伝いをするようになってからは何度も怒られてきた。

「お前、命が関わる治療に関わったことないだろ」

「おじいちゃんがお前にはまだ早いって」

「ほら甘やかされてる」

「いやでも、私が関わって何かあったら」

「はい駄目。やめときな」

 軽く言われたからこそ、無性に腹が立った。

「駄目なんてあなたに言われたくないです! 急に帰ってきて、急に私の毎日に居座って、おじいちゃんもお兄ちゃんも村のみんなもあなたがいるのが当然みたいな顔して、ずっといなかったくせになんなんですか。ずっと一緒にいたのは私なのに、みんな私よりあなたのことを信頼してる」

 子どもみたいだ。こんなこと言いたくないのに、止められなかった。

「私には、何も言ってくれないのに。おじいちゃんも、お兄ちゃんも、シルベットおばあちゃんも、みんなみんな、私には何も言ってくれない。ずっと子どもだと思ってる。もう子どもじゃないのに、私だって力になれるのに」

 癒術師になりたいのかなんてわからない。でも、癒術師になればみんなの力になれる。

 おじいちゃんだってもう若くない。力を酷使し続ければ、自分を削る。

 昔から力を使いすぎたおじいちゃんは、もうあまり癒術を使うことはできない。

 お兄ちゃんひとりで診療所を続けたら、おじいちゃんの二の舞になってしまう。

 私も癒術師になれば負担を軽くすることができる。

 戦争は終わった。戦いが日常の世界は去った。もう私たちは奪われない。これからは村から人が減らなくなる。

 この村に、若い男はアルノーお兄ちゃんしかいない。これからは、平和な日々という困難が私たちを待ち受けている。

「リル、お前いまいくつ?」 

「じゅ…………、もうすぐ二十才ですけど」

「なに無駄な背伸びしてんだよ、十九な」

 ささやかな見栄は即座に一蹴された。

「一分咲きのマダム。大人扱いされたいならまずは背伸びをやめることだな」

 エミリオは私を馬鹿にはしていなかった。彼が私を見る視線はおじいちゃんやお兄ちゃんが私に向けるものと同じもので、けれどそれはやはり子ども扱いをされているということだった。

「でももう私、本当に何もできない子どもってわけじゃない」

 そもそも世間的にはもう大人とみなされる年齢だ。子どもじゃない。もう守られるだけの子どもではいられない。

 お兄ちゃんは今の私の年齢よりもずっとはやくから、癒術師として診療所で働いていた。 

「エミリオは十三才の頃から戦地で癒術師をしていたんでしょう」

「まあな」

「なら、そうじゃないですか。十三才だって子どもじゃない」

 それなのにまだ子どもとして扱われる自分が情けなくなった。

 情けなさに落ちこみうなだれていると、追い打ちをかけるように頭上から大きな笑い声が聞こえてくる。

「馬鹿だなリル」

 一体何がそんなにおかしいのか、エミリオは大口をあけて笑っていた。

「笑うことないじゃないですか! これでも、私、真剣に、」

「待て待てちがうちがう」

 早口でそう言ったエミリオが大きな手のひらをこちらに向けてくる。

「笑ったけど、馬鹿にして笑ったわけじゃねえんだって。いや馬鹿とは言ったけど、そういうことじゃねえっていうか。いやだから、とにかく泣くな。お前を泣かせたなんてばれたら爺さんとアルノーにぶん殴られる」

「泣いてません!」

 鼻水をすすり顔をそらす。嘘ではない、少し目が潤んだだけだ。これくらいで泣いてなんていなかった。

「……そうだな。すぐ泣くちびじゃもうねえんだもんな」

「そうですよ、そうです。わかってくれたのなら、いいですよ」

 それこそ子どもをあやすような譲歩だったが、これを突っぱねたら子どもそのものだ。

 私の痩せ我慢の納得を見てエミリオはまだちょっと笑っている。

「ジョセフ爺もアルノーもお前のことがかわいいんだよ」

「……知ってます」

 愛されている自覚はある。大切にされている自覚も十分にある。だからこそ、歯がゆいのだ。

 助けられてばかりなのが悔しい。私だって家族の一人なのに。

「わかってねえさ。リルお前、自分は何の力にもなれてねえって思ってんだろ?」

 見透かされていて恥ずかしい。子どもっぽくて嫌になるが、私は口をつぐむことで返事をした。

「だから馬鹿だって言ったんだよ」

 いつもはどこか軽薄さのある雰囲気を変えて、エミリオが穏やかに言う。

「ジョセフ爺も、アルノーも、そして多分、俺だって、お前に子どもでいてほしかったのさ」

 私が相槌も打てずに黙っているとエミリオは構わず話を続けていく。

「お前が、普通に、毎日飯食って、寝て、遊んで、勉強もして、ちょっとずつ育っていく。ゆっくり大人になっていくことが愛しい。それをいつまでも見ていたい。救われてたんだよ。お前がただ普通に生きているだけで。ジョセフ爺も、アルノーも」

「……だけど、そんなの」

 私が何もしなくていい理由にしては駄目だと思う。

「良い子に育ったなリル。だからさ、お前がジョセフ爺やアルノーを思うように向こうだってそう思ってる。どっちかが一方的に犠牲になってるわけじゃねえ。大切なだけさ、重荷なんかじゃない」

 エミリオの大きな手がうつむく私の頭をぐしゃりと撫でる。

「これからだろ、リル。自分でどうなりたいか決めて、ゆっくり育てよ。背伸びなんてしなくていいなら、その方がいいのさ。戦場なんてくそみたいな毎日だったけどな。そのおかげでお前らが子どもでいられたのかと思うと……、誇らしい気持ちになるよ」

「………………エミリオも、子どもでいたかった?」

 おそるおそる顔をあげると、彼は口の端を軽くあげて笑った。

「俺には俺の幸福がある。たとえばお前らが三人一緒にずっと元気に暮らしていたこととかな」

 ……赤毛が。

 昼の光に照らされたエミリオの赤毛が、この世のどんなものよりも美しく見えた。

 やっとわかった。私、多分、この人のことが好きだ。

 ずっと目が離せなくて、腹が立つくらい気になって仕方なかったのはそういうことだったのだ。

 彼がここにやってきたその瞬間から、私はきっとエミリオに恋をしていた。

 

「集中力が足りねえんだよ、集中力が。それに大雑把すぎ」

「そんなに見られてたら集中できないですよ」

 練習だと言って怪我をした自分の腕をさしだしたエミリオは、治療している間ずっとまじまじと私の手元を観察していた。

 手の届く距離のこの近さで好きな相手から見つめられたら緊張するなというほうが無理だろう。

「癒術師が動揺してたら患者が不安がるだろうが。どんな状況でも集中できるようになれ半人前」

 エミリオはあれからたびたびこうやって癒術のコツとか癒術師の心構えを教えてくれるようになった。

 彼の教えはおじいちゃんやお兄ちゃんよりも容赦がなくシビアで、たまに逃げ出したくなるけれど勉強になった。

 ようやく自分の意思で私は癒術師になりたいと思えたから、あらゆる患者に対応してきた彼の経験を直接教えてもらえるのはありがたかったのだ。

 エミリオに恋をしていると自覚したけれどだからといって関わり方を変えられるわけでもなく、消極的な好きを持ったまま彼に接する日々を過ごしていた。

 好きな人に好きになってもらいたい。そんな気持ちは当たり前にある。

 けれど今の自分をエミリオに恋愛対象として見てもらえるとは到底思えなかったし、それにこの前聞いてしまったのだ。

 それは寝付けなくて夜中に起きた時のことだった。

「ありがとな、エミリオ」

 明りがついているなと思ってのぞくとお兄ちゃんとエミリオが晩酌していた。

「礼を言われるようなことじゃねえよ」

「でも俺たちだとリルのためにならないってわかってても、どうしても厳しくしきれないところがあるからお前がいてくれて助かったよ」

「孫馬鹿と妹馬鹿どもが、しっかりしろよ」

 自分の話をしていると気づき、よくないと思いつつも顔を出すのをやめつい隠れて話を聞いてしまう。

「わかってんだけどなあ。父さんと母さんのぶんもあいつに全部をやりたいって思うと、どうにも難しいことだってあるんだよ」

「仕方ねえな。まあ、しばらくの間は俺がびしばし教えてやるよ」

「本当に助かる、ありがとな。…………エミリオ」

 ことり、と音がした。おそらく兄が手にしていたグラスを机に置いた音だ。

「お前、いつ出てく予定なんだ?」

 思わず声が出そうになって自分の口を両手でおさえる。息をつめて耳をひそめた。

「なんだよ。助かるとかいいつつ追い出す気か? ひっでえなあ」

「茶化すなよ。わかってんだよ……いつまでもお前をここに置いとくわけにはいかないって。なんてったってあの英雄と同じ部隊の癒術師様だろ、本当はいなきゃいけない場所があるんじゃないか」

「軍はもう正式に除隊した。いなきゃいけない場所なんかねえよ、俺は俺がいたい場所にいるだけだ」

「でも、お前を望む声はたくさんあるだろう。癒術師のお前はその声から耳をふさぎ続けることはできない。違うか?」

 お兄ちゃんがそう言うと、ふたりの間に沈黙がおりる。

「……そうだとしても、もうしばらくはここにいるさ」

「そうか。……なあ、英雄ってどんなやつだったんだ」

「急になんだよ」

 好奇心しかふくんでいない兄の様子にエミリオは呆れた調子で言った。

「いやせっかくだから聞いてみようかと思ってさ。だってよ、華々しい戦果だけでどんなやつかわかんないって変すぎだろ。普通もっとこう凱旋パレードみたいなことするんじゃねえの? だって英雄だろ? なのに張本人はどこにも出てこない。大男だっていう噂と子どもだっていう噂が同時に流れてくるのも意味わかんねえし。謎すぎ、気になるだろ」

「あいつはそんなたいしたやつじゃねえよ」

「……意外。仲良かったんだな」

「はあ?」

「ふうん。なんだ、軍にもいたんだなちゃんと友達」

 そのときゴトンと何かがぶつかる音が聞こえた。こぼしてる! と兄が叫んだのでエミリオがグラスを落したようだった。

「割れて……はないか。どうしたエミリオ、もう酔ったのか?」

「うるせ」

「おいこら文句言うなら自分で机ふきやがれ」

 そうは言いつつも兄は面倒見のいい人なので、てきぱきと片付けをしているのが気配でわかる。

「馬鹿女」

「……は?」

「お前が聞いたんだろうが」

「は? 俺が? 女のことなんて聞………………まじ?」

 英雄が、女?

「誰にも言うなよ。まあ、あいつもうこの国にはいねえけどな」

「……わかった。そっか、そうなんだな。安心しろ墓までもってく。そもそも女だなんて誰も思わねえだろうし……知っても想像できねえよ。一人で戦況ひっくり返すとか何度もあったんだろ? どんな子だったんだ?」

「英雄なんて言葉全然似合わないやつだった。ただの死にたがりの馬鹿だったよ」

 すとんと、落ちるようにわかった。ああ、好きだったんだなって、何故かわかった。

「なるほどね。……そんな人に救われたんだな、この国は」

「そんな大層なやつじゃねえよ。馬鹿が、ずっと馬鹿をつらぬいたってだけだ」

 言葉とは裏腹にエミリオの声音には情がこもっていた。

「そりゃあ、かっこいいな」

「まあ……そうかもな……」

 恋が割れる音がした。だってこんな、勝ち目がない。英雄が恋敵なんて、なかった可能性がもっとなくなった。彼と同じ戦場をかけた人。国を救ったすごい人。

 そんな人に恋した人が、私に振り向いてくれる可能性なんてあるだろうか。

 癒術師の半人前のさらに半人前の私を、いつか見てくれる日なんてあるだろうか。

「やっぱりもっとはやく背伸びすればよかった」

 誰にも届かない声でささやく。もっとはやく子どもの自分を捨ててれば彼は自分を見てくれただろうかなんて、情けない願いを込めて。

 もしもそんな自分であったとしてもきっと叶いはしないのだろうとわかりながら。

「アルノーが治療してるところをこれからはもっとよく観察したほうがいいな」

 エミリオの腕の怪我を治癒し終わると、彼はそう言った。

「エミリオではなくお兄ちゃんのですか?」

「お前の兄貴はお前が思ってるよりすごいやつだよ」

 ちょっと誇らしげに彼は言った。

「俺は癒術特化だけどあいつは他の術も器用にこなすし、なんでも普通以上にできる。才能だけなら俺よりアルノーのほうがもともとあったんだ」

「そうなんですか? でもお兄ちゃんはエミリオのほうが癒術師としては上って……」

「それはただの経験の差。戦場じゃあらゆる怪我人や病人を見てきたからな。けど俺の治療は生活と共にあるものじゃない。そこはあいつに勝てない」

「生活と共にある治療ですか?」

「俺がやってきたのは身体に多少負担をかけても一秒先の命をつなぐための癒術。でもここで必要な治療はそうじゃない。一年先、三年先、十年先も長く自分の身体と付き合っていくための癒術だ。戦場とはやり方が違うし、患者との関わり方も異なる。それをずっとやってきたやつには敵わねえ」

「……わかりました」

 素直に頷くとエミリオは意外そうに目を丸くした。

「やる気じゃん。この間まで多分とか言ってたのにな」

「もう多分なんて言いません。私、癒術師になります。私がちゃんと、そう決めた」

 もしもの私なんてどこにもいない。背伸びをしても誰にもなれない。

 癒術師になると決めたのだから背伸びなんてできない。私の背伸びの失敗で苦しむのは患者だ。

 まだまだ何もかも足りていない自分だけれど、おじいちゃんとお兄ちゃんの背中をずっと見て育ったのだからわかることだってある。

 足りない私のままひとつひとつ必要なものを埋めていくしかない。そうすることでしか一人前の癒術師にはなれない。

「上等」

「よろしくお願いします、エミリオ」

 割れた恋の欠片は時折痛みをもたらすけれど、叶わなくともこの人に見てもらえる自分になりたい。

 頑張りたいんだ。そう思えるだけの言葉を、私はもらった。


 身体を叩きつけていく雨粒が重く痛い。少しでもはやくたどり着きたいのに、ぬかるむ地面のせいで足が気持ちについてこない。

「シルベットおばあちゃん! 入るよ!」

 ノックもせずに家に飛び込む。雨にぬれて重くなった兄の外套を玄関に脱ぎすて部屋の中を見渡し探していると、連絡のあった通りベッドから落ち床に倒れたシルベットおばあちゃんの姿があった。

「シルベットおばあちゃん!」

 声かけをし鼓動と呼吸の確認をすると弱々しいがどちらも動きがある。

「……リ……ル……?」

「無理はしないで、発作、だよね? 薬は飲んだ?」

 よっぽど緊急のときしか使わない兄の伝達魔法で連絡があった。 

 最近シルベットおばあちゃんの調子がよくなかったからいざというときのために連絡用の簡易な石を渡していたのだが、よりにもよっておじいちゃんとお兄ちゃんがエミリオの顔合わせがてらそろって隣村の診療に向かった日に体調を崩してしまったようだ。

「薬……は、飲んだ……」

「わかった。エミリオ聞こえてますか?」

 確認するとお兄ちゃんとの連絡用に渡されているピアスからエミリオの指示が飛ぶ。

『聞こえてる。リル、ひとまずばあちゃんが一番楽な体勢にしてやれ』

 慎重に抱えてベッドに横たえると、先程よりは楽に息ができるようになったようだった。

 けれどおばあちゃんの手は今も強く胸元をにぎりしめている。

「あと、どれくらいで帰ってこれます……?」

 本当ならもうとっくに三人とも帰ってきているはずだった。帰りが遅れているのは急な豪雨に見舞われたせいだ。

『………………帰れない。帰り道の橋が増水で通れる状況じゃない。アルノーが今どうにかできないか確認しに言ってるが……多分、難しいだろうな』

「嘘」

 ざっと血の気がひいた。おばあちゃんの喉からは苦しそうな息が聞こえてくる。薬を飲んでもこの状態なら、このまま一晩待つわけにはいかない。

 どうしよう、どうすればいい。祖父も、兄も、エミリオもいない。助けてくれる誰か、誰か。

 シルベットおばあちゃんを助けてくれる、誰か。

 癒術師は、いま、私しかいない。

『リル、お前がやるんだ』

「……わ、たし、でも、もし、」

 心臓がうるさい。そうするしかないとわかっても、身体が震えた。

 もしも、失敗してしまったら? そのせいで最悪な結果を導いてしまったら? 取り返しなんてつかない。

『怖いだろうな。俺も怖いよ。いつも怖い。命の重みで自分が潰れそうになるよな。だが恐怖は俺たちの相棒だ。癒術師にとって必要なものなんだ。大丈夫。今お前がいだく気持ちは、あって当たり前の感情だ』

 いつもよりゆっくりやさしい口調でエミリオが言う。混乱する頭にそれは少しずつ染み入っていった。

『リル、息を吐け。限界まで吐ききれ』

 言われた通りに息を吐いた。肺からしぼりだすようにして。

『よし。じゃあ次は、ゆっくり息を吸うんだ、ゆっくり。一、二、三』

 言葉に合わせてゆっくり息を吸う。すると大きくゆっくり吸ったぶん、自然と息が吐き出ていき、まともに呼吸ができるようになった。

『心が揺れると術もぶれる。まずは落ち着け』

「……はい」

『今からお前は特別なことをやろうってんじゃない。いつだって当たり前のことをしようとしているだけだ』

「はい」

『大丈夫。俺がついてる』

 そこからはもう必死だった。エミリオの指示を聞きながらおばあちゃんの様子を事細かに確認しつつ、癒術を身体に流していった。

 集中しすぎて神経がすり減っていくのを感じた。自分の術のコントロールの甘さが情けない。もっとはやく身体を楽にしてあげたいのに、少しずつ時間をかけることでしか自分の術は効かないのだ。

「ありがとう、リル。楽になったよ」

 どれくらい時間がかかったのかもうよくわからなくなった頃、シルベットおばあちゃんは私の手をとって笑いかけた。

「驚いた。いつの間にこんな立派な癒術師になったんだい……ふふ、長生きはするもんだ……ね……」

 意識が落ちたことに不安を覚えたが、呼吸は穏やかだったのでほっとする。

 身体の痛みが落ち着いてやっと眠れたのだ。

『おつかれさま。頑張ったな、リル』

「エミリオの指示通りにやっただけですよ」

『馬鹿。こういうときは謙遜なんかしなくていいんだよ』

 長時間こちらの様子に気を配り続けたエミリオだって疲れているはずなのに、彼からはそんな様子は微塵も感じなかった。

 張り詰めていた緊張がとけると、どっと身体が重くなる。おじいちゃんもお兄ちゃんもエミリオもいつもこんなことをしているのかと思うと、これから自分が目指すものの途方もなさが怖くなった。

「みんな、すごいですね」

『すごくなんかねえよ。すごくねえけど足掻いてるだけさ』

 ああ、敵わない。この人がかっこよくてすごく悔しい。

『雨、やんだぞ。気づいてないだろうけどさ』

「……ほんとだ」

 寝室から居間にうつり小窓を開けると、さっぱりと雲の取り払われた星空が見えた。

 息を、吸い込む。雨あがり特有の少し冷えた透明な空気は心地良かった。

 頭のなかがまっさらになった気がした。色んなものから解放されて自分がすごく素直になったようだった。

「エミリオ」

『ん? どうかしたか?』

「好きです。私、エミリオのことが好きです」

 どうしても伝えたくなった。今、言わなければと思った。今しか言えないと思った。

『……ありがとな。でも俺、好きなやつがいるんだ』

 ちゃんと私の言葉に向き合って本当のことを教えてくれた。ごまかしたりしなかった。それがすごく嬉しかった。

 きっと会ったばかりの私のままだったら、こんな風な返事をしてもらえなかっただろう。

「知ってます…………。ねえエミリオ。私、もっと癒術を上手に使えるようになりたいです。明日からもっと厳しく教えてくださいね!」

 笑いながら私が言うと、仕方なさそうな息をついてからエミリオも笑ってくれたようだった。

『やっぱり無理ですなんて言っても聞かねえからな』

「勿論! びしばしお願いしますよ。じゃあ、明日みんな気をつけて帰ってきてくださいね」

 言い終わった途端にピアスを外し手の中に握りこむ。急に連絡がつながっても何も聞こえないように。

 喉からぎゅっと痛みがこみあげてきた。それは止まらずに口から、目から、こぼれていった。

 私は恋をしていた。自分が思っているよりもずっと強く。そんなことに今更気づく。

 私の恋は、私が目指したいものと同じ形をしているから、きっとこれから先もこの瞬間を思い出して苦しくなるときがあるだろう。

 けれど私には全部必要なことだった。だから、いい。

 この恋が、私にくれたものにくらべれば、こんな痛みどうってことない。

 病気になっても怪我をしても、親を亡くしても、恋を失くしても、生きていれば明日はやって来て、欠けたなりの日々を過ごしていく。

 悲しみに心が浸かっていても笑えてしまう瞬間はあるし、良いことのあとに悪いことがやってくることもあれば、人生のどん底のように思ったそのあとに唐突に鮮やかな救いと出会うことだってあるだろう。

 だから、世界で一番好きな人に失恋したって、いつかまた誰かを好きになることだって、きっとある。

 もしかしたら何年か先に、振ったはずのその人がこちらを向いてくれることだってあるかもしれない。それはちょっと夢を見すぎかもだけれど。

 でも何が起きるかなんてわからない。英雄さんやエミリオのおかげで、期待したっていい明日を、私たちはいま手にしている。

 恋敵だけど、でも、感謝してるんだ。明日を怖がらなくていいってこんなにも幸福だ。

 英雄なんて呼ばれるようなすごい人には私は一生なれないだろう。

 けれどそれがなんだというのだろう。

 これから私は、頑張って、自分で誇れる私になる。

 おじいちゃんにもお兄ちゃんにも負けない、頼ってもらえる癒術師になる。

 英雄になれなくたって、そんな私はきっと結構かっこいいはずだ。

 そんな私を、私は好きになれるはずだ。

 今日がはじまる。やることはたくさんある。エミリオはまだここにいてくれるようだから、彼の知っていることは全部教えてってもらわなきゃ。

「おはようございます! エミリオ」

 少し眠そうだった彼が、こちらを向き目を細めて笑う。

 朝のやわらかな光に照らされる赤毛は、やっぱり世界で一番綺麗に見えた。

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