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後編

 ただただ、お腹が空いていた。

 一番古い私の記憶。それはおそらく三才頃の記憶だ。

 さむくて、さみしくて、お腹がぺたんこになりそうなくらい身体のなかになんにもなくて、でもそれを悲しいとも思っていなかった。

 お腹が空いて、空いて、そして眠くもなってきて、私は目を閉じようとした。

「眠っちゃ駄目だよ」

 地面にぺしゃりと横たわった私の頭上から男の子の声がした。

「でも、ねむい、」

 薄眼をあけると、見たこともないくらい綺麗な顔をした男の子が真剣な顔でこちらを見ている。

 お伽噺のなかの王子さまか、天使のような子だった。

「駄目だ。起きて。ねえ、きみの名前は?」

 天使なら、迎えに来てくれたのかなあ。なんてぼんやりと思いながら、忘れかけた自分の名前を久しぶりに口にした。

「………………ジェンナ」

「かわいい名前だね。ぼくはルカ」

「ルカ」

「そうルカだ! ねえ、ジェンナきみを連れていっていいかい?」

「連れ、て?」

「ぼくね、かわいい妹がほしかったんだ。大切にするよ」

 大切にする。ということがどういうことなのかはわからなかったが、この綺麗な男の子を私は一目で気に入っていたし、優しげな声音は今まで自分がもらえなかったものだったので嬉しくなって気づいたら頷いていた。

「……いいよ」

 そして兄は、私を背負って死の淵から連れていってくれた。

 ご飯を食べさせ、眠る場所を与え、家族にもなってくれた。

 今の私のすべては彼がつくった。命も何もかも、彼が与えてくれたもの。

 だから当然なのだ。私が、彼を。

「長生きできねえよ、お前」

 遠い記憶から引き離すような痛みにうめき目を開けると、消毒のつんとする香りがした。

 聞き覚えのない声の主を探そうと横になっていた身体を起こそうとするが、重さと痛みでぴくりとも動かすことができない。

 自分が今どうしてこんな状態になっているのか記憶が定かでなく混乱する。

「……動けない」

「動くな馬鹿、死にかけたんだぞ」

 こちらの視界に入るように話しかけてきた赤毛の男は、眉間に深く皺を寄せていた。

「死に、か、け」

「初陣のくせになんで魔法使いが敵から見えるようなところにいたんだよ、馬鹿かお前は」

 ああそうだ。

 兄に背を向けて軍に所属してから訓練すること三年。予想通りに国境の小競り合いが悪化し隣国との戦いがはじまったことで戦場に送られたのだった。

「助けてくれ、た?」

「それが仕事だからな」

 この赤毛の男――エミリオは、招集された魔法部隊の一員だった。

 辺境で前々から癒術師として戦いに参加していたという彼は、私より二つ年上の二十才。

 経歴を聞いて、まだ年若いのにその経験の豊富さに驚いたのを覚えている。

「ありがとう……。良かった」

 ここで死んだら、兄から遠く離れてここまで来た甲斐がなくなる。

「よくよく反省しろ」

「うん。次は、もっとうまくやる」

 私の発言に目の前の男は顔を歪めたが、私はやり方を変える気はなかった。

 ただでさえ軍部の魔法使いは給料が高いが、功績によっては多額の褒賞もでる。

 戦場で成果をあげればあげるほど、正攻法でしかあそこから出てくれないあの人を連れ出すために必要な金が手に入る。

「勝手に死んでろ馬鹿女」

 頬をひきつらせながら彼は言ったが、これからずっと私たちはたびたび同じ部隊になり、私は彼の世話になり続けた。 

 とはいえ初陣のような死ぬ一歩手前の大怪我をすることはその後なかったのだが、どれだけ戦場で活躍して称賛されるような功績をあげても、彼だけは私の戦い方に苦言を呈し続けた。


 そして五年。二十三才の私は戦場で英雄と呼ばれるようになっていた。

 勝利の女神と呼ぶ人もいた。それを知った時はこんな髪の短い男の子みたいな女神いないだろうと思ったが、本気で口にされていたので甘んじて受け入れた。

 兄と別れてからは八年。彼を解放するための金は手に入れていたが、英雄になってしまった私は戦場から離れられなくなっていた。

 じりじりした気持ちでいたが、その日は唐突にやって来る。

 翌日の部隊配置について話し合っていたときだ。伝令が急に飛び込んできた。

 息を切らせた彼が告げたのは、終戦の締結が両国でなされたとの報告だった。

 なんともあっけなく十数年続いた戦争は終結した。

 向こうの国がお家騒動で内部から急速に瓦解したのだ。

 ぽん、と放り出されるように私たちは用なしになった。

 私の覚悟は何だったのだろう。

 父の死は、兄の嘆きは、血で染まりきった私の手は、何だったのだろう。

 戦争とはこんなものなのか。こんな終わりか。

 誰かの勝手ではじめられて、誰かの勝手で終わる。なんて、馬鹿馬鹿しい。

「お前さあ、これからどうすんの?」

 最後の片付けをしているとエミリオが何気なさを装ってそんなことを聞いてきた。

「……どうするんだろうな」

 あれから八年たった。八年だ。こんなに時間がかかってしまった。

 兄は今どうしているだろう。元気でいるのだろうか。

 私のことを、どう思っているだろう。今の彼は。

 度々届いていた私を心配する言葉が綴られている手紙も、一昨年届いたものを最後に途絶えていた。

 呆れて、見限ってしまっただろうか、こんな強情な妹のことは。

「散々貯め込んだ金、使っちまうんだろ。大丈夫なのか」

「まあ、野垂れ死にはしないだろうさ」

 これから先どうなるとしても私には魔法がある。どうとでもなるだろう。

「平和になっても癒術師ならいくらでも働き口はある。帰る場所がないなら、……来てもいいぞ」

「は?」

「だから! お前ひとりくらいなら面倒見られるから俺のとこに来てもいいって言ってんだよ」

 エミリオの耳は赤く染まっていた。驚きのあまり、間抜けにもぽかんと口をあけて彼をまじまじと見てしまう。

「なんだその絶妙に口説き文句になってない口説き方は」

 いやここで言うべきはこれではないだろう。だが自分にそれが向けられることに慣れていないせいで、動揺で頭が回らない。

「お前がいつまでも察しが悪いから俺がこんな恥ずかしいこと言う羽目になってんだろうが!」

「……私が悪いのか?」

「俺も悪いよ! すみませんねえ!」

 癖毛をかきむしりながらエミリオが叫ぶ。

「だー! くそ! 俺は本当ならもっとスマートに女を口説けるんだよ! 馬鹿!」

 言い訳をさせてもらえるなら、愛をささやくのが上手い人たちに囲まれて育ったせいで、素直じゃない彼の好意に気づけなかったのだ。

 それにこれまでずっと目的のためにわき目もふらずに走ってきたから、自分に向けられるあらゆる感情に無頓着だった。

「それは、えっと、申し訳ない」

「謝んな!」

「えええ……」

 どうすればいいんだ。

「くそ、だから、そうじゃなくて……、ジェンナ」

 いつもは軽薄そうにしか見えない垂れ目に、真剣な色をのせてエミリオが私を見る。

「俺はお前のことが好きだ」

 こんな時なのに思い出したのは兄の言葉だった。

 ――それは、そのみんなは、お前を愛してないから褒めるんだ。

 エミリオは、私がどれだけ戦果をあげても称賛はしなかった。

 ずっと、ずっと、無茶な戦い方をする私をたしなめ続けていた。

「……なにか言えよ」

 この人は、本当に私のことが好きなのか。

「すまない……。私の一番は、ずっと前から決まってる」

 彼の気持ちを知って浮きあがってきたのは、喜びではなく申し訳なさだった。

 だって私は、彼の気持ちには答えられない。

「だからなんだよ」

「え?」

「そんなことはこっちだってずっと前から知ってんだよ。そんなのわかってて言ってんだ」

 そう言うと、エミリオは私に紙片を握らせた。

「俺の住所だ。いいか、馬鹿なことする前に絶対に俺のところに来い」

「馬鹿なことってなんだ」

「お前が散々やってきたようなことだよ、死に急ぎ馬鹿女」

 呆れたように笑うと、彼は指で軽く私の額をはじき立ち去っていった。

 本気なら、余計に彼に頼ることはできない。受け取った紙はひどく重く感じた。


 残務処理を終え八年ぶりに足を踏み入れた故郷の街は、記憶とは所々変化していたが懐かしさが呼び起こされるほどには変わっていなかった。

 国境からは遠いこの街は戦火とは無縁で、かりそめの平穏はあれからも彼らの下にはあったようだ。

 子どもの頃に娼館のお使いでよく通った道を進む。身長はあんまり伸びなかったけれど、あの頃よりは高い目線で見える街並みに奇妙な感慨がわいた。

 角を曲がれば、三年暮らしたあの華やかで憎らしい場所にたどり着く。

 そして現れた懐かしのジョンキィユは、予想に反してひどく寂れていた。

「そこ、もうやってないよ」

 人の住まなくなった廃墟の気配が漂っていることに呆然と立ち尽くしていると、向かいの店から少年が顔を出してきた。

「どういうことですか」

「理由までは知らないよ。……あんた、もしかしてジェンナ?」

「そうだけど」

「すっげえ、本物? 有名人じゃん握手してよ」

 乞われるままに手をさしだす。どうやら私の名前はここまで届いていたらしい。

「冗談だと思ってたけど、本当だったんだなあ。はいこれ、あんたが来たら渡せって頼まれてたんだ」

 彼が取り出したのは飾り気のない封筒だった。

「兄さんから?」

 自分に手紙を寄こすような相手はここには兄くらいしかいない。

 だがどうして、わざわざこんな回りくどいことを。

「あんたの兄さんかどうかは知らないけど、俺にそれを渡したのはミュゲってやつだよ」

「……ミュゲ?」

 私を嫌っていた男が、なぜ。


「ルカは死んだよ」

 すぐに手紙に記されていた場所に向かうと、儚げな美貌に磨きをかけた彼が私を待ち受けていた。

 久しぶりだなんて再会を喜ぶ言葉をかけられるとは思っていなかったが、開口一番告げられたのは到底信じられない言葉だった。

「馬鹿なジェンナ。お前がするべきは英雄になることなんかじゃあなかった」

「……ミュゲが私を嫌っているのは知っている」

「嫌がらせでこんなことを言うとでも?」

 彼の冷めた目からは感情が伺えなかった。

「そんな、わけ、ない。兄さんが、死ぬわけない、私を置いて死ぬわけない」

 どうしてだろう。戦場でたくさんの死を見てきたくせに、もたらしてきたくせに、私はたったの一度もそんな想像をしたことがなかった。

「死んださ。惨めに。お前のせいだよジェンナ」

 びりびりと手足がしびれるような痛みが走った。

 どんな怪我をしたときよりも、死にかけたときよりも、激しい痛みが私を襲う。

「私が生きているのに兄さんが死ぬわけない!」

 喉が焼き切れてしまいそうなほどに熱かった。

 これが報いか。

 他者を殺すことで願いをかなえようとした、愚かな行為の報いがこれか。

「ああ、本当に腹が立つ。兄妹で同じことを言うなよ」

 彼に似合わない舌打ちの音に俯いていた顔をあげると、ミュゲはどこか憑き物でも落ちたような顔をしていた。

「戦場でのお前の話を聞くたびに祈るようにルカも何度も言ってたよ、俺が生きているのにジェンナが死ぬわけないって」

 その声の調子に一縷の望みをかけすがるような目でミュゲを見ると、彼は不愉快そうに顔を歪めながらため息をつきこう言った。

「まだ生きてるよ」

 どっと身体から力が抜けへたり込む。

 立ち上がれない私と視線を合わせるために、ミュゲは私の目の前にしゃがみ込んだ。

「お前が戦争に行ってからのルカはひどかったよ」

 凪いだ瞳をして彼は言う。

「この世のすべてがどうだっていいガラクタに変わったみたいに、どんなものもルカを喜ばせることはなくなった。何にも心を動かさず、死んだように生きていた」

「……あの兄さんが?」

 あの人は、男娼に身をやつしたとしても決して自暴自棄にはならなかった。

 どんなときでも絶望せず、いつだって美しいままだった。

「見てられなかったよ」

 そんな兄を、私は知らない。

「ルカは、本当にお前のためだけに生きてたんだな」

「羨ましい?」

 悔しそうな彼に嘘をつかれた意趣返しをしてやると、見たことがないくらい大きく口を開けてミュゲは笑いだした。

「ムカつく女。やっぱり無理やりにでも子どもの頃にとっとと売っぱらわれるように仕向ければよかった」

「英雄に向かってとんだ言いぐさだね」

 多分ミュゲは、投げやりになった兄のそばにもずっといてくれた。

 彼は私のことが嫌いだろうけれど、私は彼がいてくれて良かったと思う。

「兄さんは、どこ?」

 あの人に会いたい。変わってしまった私はあの人に軽蔑されるかもしれないけれど、それでも会いたかった。


「ジェンナ?」

「――兄さん」

 ミュゲに教えられたのは、兄の居場所だけではなかった。

「ああ、くそ誰だよ教えたのは。こんな姿お前には絶対見られたくなかったのに」

 渡された鍵を使って入ったその家の寝室に横たわっていた兄は、見る影もなくやつれていた。

「馬鹿なこと言わないで」

 寝巻からのぞく身体の細さに泣きたくなる。

「嫌だよみっともない。かっこいい兄貴でいたかったのに台無しだ」

「兄さん」

 英雄とすら呼ばれたのに、自分が急速に小さな子どもになったようだった。

 この人に会ってしまえば自分が弱くなってしまうのがわかっていたから、今日まで会いに来られなかった。

「……お帰り、ジェンナ。ここまで来てくれるか? 起きあがれないんだ、俺。情けないことにさ」

 けれど、会いに来れば良かった。手遅れになる前に。

 ミュゲは私に二つのことを教えてくれた。

 一つは兄の今の居場所。

 そしてもう一つは、投げやりな生活によって内臓を悪くした兄が、もう長くないという知りたくない事実だった。

「ごめんなさい、兄さん」

 ベットの横に置かれた椅子に座り、必死に言葉を探したが出てきたのはなんの役にも立たない謝罪だけだった。

「どうして謝るんだ、ジェンナ。すごいなあ英雄だってさ。お前は、俺の自慢の妹だよ」

 痩せてやつれても、兄は兄だった。私の美しい愛しい人だった。

「ジェンナ、顔をよく見せて」

 やわらかなその声にぐっと覚悟を決めて顔をあげる。

「大きくなったなあ、ジェンナ。それに綺麗になった」

 戦場で私の容姿を褒めるような人はいなかった。相変わらずこの人は兄馬鹿だ。身内の欲目がすごい。

「ただいま、兄さん」

 八年すぎても消えなかった気持ちを再確認したことで、私は決めた。

 私はその日、癒術師のエミリオに助けを求める手紙を送った。


「お前の兄貴って、天使の剥製か何かか?」

 彼が寄こした紙片に書かれた住所はこの街から距離があったものの、驚くべき速さで彼は姿を現してくれた。

「失礼な同僚だな」

「あ、起きてたんですね」

 朝食を食べた疲労で休んでいた兄だったが、エミリオがやってきた物音で目を覚ましていたらしい。

「ジェンナがこれまで世話になったね」

「………………いやあ、こちらこそ妹さんには世話になりっぱなしでしたよ」

 どこか含みのある雰囲気の二人の様子に疑問はいだいたが、それどころではないので私はエミリオに問いかけた。

「それで、あの、エミリオ。……治せるか?」

「誰に聞いてるんだよ」

「じゃあ……!」

 浮き立つ私を彼は押しとどめる。

「俺の治療は安くないって知ってたか?」

「私がこれまで貯め込んだ金を全部やってもいい。だから兄を助けてくれエミリオ」

 もともと兄のために稼いだ金だ。いくら払っても惜しくはない。

「その程度じゃあ足りないな」

「そ……、そんなわけないだろう。小さな街くらいなら買える金額だぞ?」

 国王の治療を任されるとしたってこんな法外な金額が支払われることはないだろう。

「欲しいのは金じゃない」

 彼の様子に予想が当たったことに気づく。もしかしたら言われるんじゃないかとは思っていた。

「治す代わりに俺にお前をくれ。知ってるだろ、俺はお前が好きだって」

 エミリオの発言に兄が目を見開いていたが、彼が口を挟む前に私は言った。

「私の一番は一生変わらない。それでもいいっていうなら、いいよ」

 そう言うと、エミリオは手ひどく傷つけられたような顔をした。

 私も馬鹿だけど、彼も馬鹿だ。こうなるとわかっててあんなことを口にしたんだから。

 彼に手紙を書きながら、自分が彼にひどいことを頼んでいることはわかっていた。

 それでも頼った。

「いいよ、エミリオ」

 兄のために数千の命を踏みにじったように、彼の心を踏みにじったとしても、私は兄を救いたかったから。

「よくない!」

 片腕で身体を支えながら必死の形相で兄が身を起こそうとしていた。

「に、兄さん身体にさわるから無理は……」

「そう思うなら馬鹿なことを言うなジェンナ!」

 こんな身体になってもまだ私を守ろうとする兄に乾いた笑いが出る。

「兄さん、私、もうあなたの可愛い幼い妹なんかじゃあないんだよ」

 これまでたくさん、数えきれないほどに敵兵を殺してきた。

 それに、それだけじゃない。

 死ぬのが怖いと泣く部下と一度だけそういうことだってした。

 同情と、共感。そんな感情からふれあったそれは、身を寄せ合って寒さをしのぐような行為だった。

 だがこの秘密は兄には絶対に教えない。墓まで持っていく。決して誰にも明かさず先に逝った彼のように。

 でもエミリオだけは、多分知っている。

 部下と抱き合った翌朝、表情をなくした彼に「馬鹿」といつもとは違った調子で言われたから。

「だからなんだ」

 兄は妹のために身を削ったけれど、私は自分のために他者を殺した。

 どちらがより汚いかなんて、そんなの考えるまでもない。

「私、たくさん人を殺してきたよ」

「戦争だったんだ、仕方ないだろう」

「本当にそう思う?」

 優しいこの人が、戦争を仕方ないことだなんて思うわけがない。

 けれど私はちがう。選択をやり直せるとしたって、何度でも私は兄のために同じ道を選ぶだろう。

「私、多分これから先いつか報いだって受けるよ」

 この国では英雄だとしても、隣国にとっては最悪の殺戮者だ。

 私が手にかけた父親か、兄か、弟か、恋人の敵をうつために、いつか誰かに殺されるだろう。

「兄さんが守ろうとする価値はもう私にはないよ」

 可哀想な兄さん。

 こんな私を安全に育てるために男娼にまでなったのに、育てた妹はこの有り様だなんて。

「馬鹿なジェンナ」

 気落ちしたかに思われた兄は、身体を支えるだけで痛みがあるはずなのにそれでも晴れやかな笑みを浮かべて私を見た。

「どうしてお前を犠牲にして俺が幸せになれると思うんだ」

 それは、あの日、私が兄に告げた言葉だった。

 どうして兄さんは私を見限ってくれないんだろう。

 私の命は兄さんのものだ。あの日拾ってくれたこの人のもの。

 だから、いいのに。私は兄さんさえ幸せになってくれればそれでいいのに。

「俺の存在忘れてねえ?」

 空気をがらっと変えるようにエミリオは大袈裟にため息をついた。

「あー、もう馬鹿らしい。やってらんねえよ」

「エミリオ?」

「なんなんだお前ら兄妹は二人そろって堂々巡りしやがって、俺の目の前で勝手に馬鹿な方向に走っていくんじゃねえよ」

 妹が妹なら兄も兄ってことか? と、エミリオはぶちぶちと文句を口にした。

 しょっちゅう自分に向けられてきたお小言だったが、こんな時までどうしたんだろうか。

 よくわかっていない私の様子に彼はまた大きくため息をつく。

「馬鹿兄妹の馬鹿っぷりに免じて格安で治療してやるって言ってんだよ。感謝しろ」

「いいのか」

「惚れた方が負けって相場が決まってんだよ。ああ、やってらんねえ」

「すまない……、ありがとう」

「感謝するくらいなら、とっとと幸せにでもなんでもなりやがれってんだ」

 そう言うとエミリオはちらりと兄にも視線を向けた。

「お前と兄貴、別に血は繋がってないんだろ。本当、何をためらってんだか」

「え、な、なんでエミリオが知って」

「酔っぱらったときにお前が自分で言ってたんだよ。ついでにどれだけその兄貴が好きかってのも延々聞かされたぞ」

「そ、うなのか。それは……すまない……」

 自分がそんなに酒癖が悪いとは思っていなかった。

「へえ、仲が良いんだな」

 そう言った兄に、エミリオはびしりと指をつきつける。

「あんたも! 俺にちくちく牽制するような目を向けてくるくらいなら、愛の言葉のひとつやふたつやみっつでも言えってんだ」

「簡単に言ってくれる」

「絶対にあんたのせいだが、鈍いぞお前の妹」

「それはそれは。安心したよ、どうもありがとう」

 額に青筋をたてると彼は私に詰め寄ってきた。

「おい話がちがう。お前の兄貴いい性格してるぞ」

「ん? そうだろう。兄さんは素敵な人だ」

「ははは、本当に可愛いなあジェンナは」

 ……兄さんが、笑ってる。

 なんだろう、こんな。

 あっていいのだろうか、こんな奇跡が。

 何も失わなくてもいいだなんて、そんなの私に許されていいのだろうか。

「殺した分だけ味方を救ってきた。どれだけ血に染まっていたとしても、俺たちの英雄はお前なんだよ」

 兄に軽い治療をほどこし帰るときにエミリオはそう言った。

 そんなことで自分の罪が消えるとは思えないが、恩人の彼の頼みなら私はもう馬鹿な真似はできない。

 何度かに分けて治療をすすめる必要があるため、また来る。そう言って帰路についた彼の背中に向かって私は深く深く頭を下げ続けた。

 エミリオが立ち去ると、私と兄の間には居心地の悪い、言葉をさがしあぐねている空気が流れていた。

 私が兄をどれだけ好きか延々と聞かされただのなんだのと言われてしまったが、兄はそれを妹としての言葉だと捉えてくれただろうか。

「ジェンナ」

「はい!」

 呼びかけてきたものの、兄は口を開けたまま固まってしまった。

 どうしたのだろう。

「ああ、くそ、情けない。嘘だろ。俺はジョンキィユのルカだぞ」

「どうしたの兄さん……?」

 心臓を押さえながら深呼吸をする兄に不安になった。エミリオは少し楽になるはずだと言っていたのだが、効果がなかったのだろうか。

「愛してる」

 息が、とまるかと思った。

 妹に対する言葉ではないということが、言わずとも彼の目から伝わる。

「ふれていいか」

 この人は、今も私にふれるのが怖いのか。

 そう思うと、身体から力がぬけた。

「馬鹿だな兄さん。ねえ兄さんは知らないかもしれないけどさ」

 呆れながら笑って私は両手を大きく広げる。

「私、兄さんが思っているよりもずっとずっと強いんだよ」

「……そうだな」

 やわらかな力で兄が私をだきしめる。

「ああ、やっとだ」

 兄さんが私の頬に手をそえる。

 潤んだその綺麗な瞳には、私だけがうつっていた。

「やっと、ただ大切にできる」

 街どころかここらで一番の男娼だったくせに、兄は子どものようなふれるだけのキスを私に落した。

 今の私たちは、兄で、妹で、そしてどうしようもなく他人で、けれどたった一人の特別同士だった。




「兄さん、辛くない?」

「大丈夫だよ。心配しすぎだ」

 まだ万全の体調ではないため杖をつく彼を支えながら、私たちは旅に出た。

 英雄なんて柄じゃない。だがここにいてはそのしがらみからは逃れられない。

 幸い、私は名前は知られていたが顔はあまり知られていなかった。

 だから兄の治療を終えると迅速に、この国よりも、隣国よりも、遠い遠い場所に行こうと兄と二人で話し合って決めた。

「ねえ兄さん、これからどうする?」

 十数年ぶりに伸ばしはじめた髪が、春の風によってさらわれていく。

 その感覚は、懐かしくも嬉しいものだった。

「そうだなあ、先ずは……」

 ふわりと遠くからやさしくあたたかな香りがながれてきた。

 その匂いを嗅ぐと彼は私の大好きな笑顔を浮かべる。

「朝飯のパンでも買おうか」

「賛成!」

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