前編
灰がぱらぱらと風にのって流れてきた。
崖のうえから見える森は轟音と煤けた煙がふきあがっている。
距離がありすぎて聞こえないが、そこからは兵士の恐慌の叫びもあがっているはずだ。
あの森は、あらかじめ人間が立ち入ると爆発が起きるように魔法のしかけがほどこされていた。
身が潜めそうな場所を重点的に、人が触れると爆発するしかけが大量に用意されていた。
向こう側の魔法使いに見破られないように厳重に植物に擬態させて狭い通り道に配置したそれは、目論見通りに効力を発揮してくれた。
爆発は連鎖的に広がって、あちらの人員を大幅に削ってくれただろう。
あの煙の下ではきっと大勢の兵士が死体に変わっただろう。
私が仕掛けた罠で。
「ジェンナ。そろそろ行くぞ」
後ろから近づいてきた背の高い赤毛の男は今日も軽薄そうな顔をしていた。
「次は?」
「一旦待機」
「……休みなんていらないのに」
「いるに決まってんだろ馬鹿。お前さあ、生き急ぎすぎだろ。何をそんな焦ってんだ」
「関係ないだろエミリオには」
「いやあるだろ。お前に戦線離脱されたら俺の仕事がどんだけ増えると思ってんだよ」
同僚のこの男は本人の性格に沿わない癒術師をしている。
まったくもって似合わないが優秀な使い手だ。
同じ部隊に彼がいなかったら多分、私は初陣の時に死んでいた。
「……欲しいものがある」
「欲しいもの? へえ、お前にもそういう感情あったんだな」
「私のことを何だと思っていたんだ」
「なに考えてんだかわかんねえ死に急ぎ馬鹿女」
失礼な男だ。
「あっちい! ふざけんな馬鹿!」
上着の袖に火をつけられたエミリオは慌てて袖口を手ではたいた。
軍部所属の魔法使いに支給されているローブは防御魔法が練り込まれた素材で作られているので、ちょっと火をつけたってすぐに消える。
「で、欲しいものって?」
エミリオもたいして燃やされたことは気にしていないようで、このまま流してしまいたかった話をわざわざ蒸し返してきた。
「………………………………兄」
嫌々ながらもぽつりと答えたというのに、目の前の男は首を傾げている。
「は? なんの話だ?」
「聞いてきたのはそっち」
「兄って、兄貴? 欲しいって、それどういう……、いやそもそも、お前にも家族いたんだな。てっきり……」
「天涯孤独だと思った?」
濁された言葉をはっきり口にすると、エミリオは視線をそらした。
「家族がいるやつは、あんな馬鹿みたいな戦い方しねえからな。お前みたいな危なっかしいやつが軍人になるなんて、反対したんじゃねえの? その兄貴も」
「まあそれなりに。でもこうでもしないと手に入らない人だから」
「どんな兄貴だよ」
「……あの人以外の兄なんて知らないから、どんなと聞かれても分からない」
なんだそれ、とエミリオは呆れたようにしているが、だって本当に分からないのだ。
あの人を端的に表す言葉なんて多分この世にはないんじゃないかと思う。
五つ上の兄――ルカは美しい男だった。
朝方に差しはじめる光のように清廉な金色の髪は艶やかで、空のようにも海のようにも見える瞳はいつも自信に満ち溢れていた。
妹の私は金髪といっても暗い色で、どこまでも凡庸な見た目をしていたから似ていない兄妹だと何度も言われてきた。だが私が兄に対してコンプレックスをいだくことはなかった。
年が離れていたこともあるし、性別が異なっていたことも要因だろう。しかし一番は対抗する気もなくなるほどに彼が美しかったからだ。
それほどに兄は美しく、美しいからそれを利用したい人間の目にとまってしまった。
十才の夏、事故で母が亡くなった。
父はその二年前に戦死していたから、頼る親戚もいなかった私たち兄妹は二人だけで生きていかなければならなくなった。
「よしジェンナ。髪を切れ」
兄がそう言い出したのは、母が亡くなってから一ヶ月たった辺りの頃だった。
「なんで?」
「明日からお前は男の子だ。だから髪を切れ」
「私、女の子だよ?」
「うんそうだな。可愛い可愛い俺の妹。だから男の子にならなきゃ駄目なんだ」
意味が分からなかったが、私は渋々言うことを聞いた。
短い髪の毛は頭が軽くなって楽だったけれど、首筋がすうすうして、その頼りなさが怖かった。
「ここが今日から俺たちの家だ」
翌日、兄に連れられてたどり着いたのはこれまで立ち寄ったことのない区画にある五階建ての綺麗な建物だった。
もう朝の時間帯なのにしんと静まりかえっていて、ひとつ向こうの通りとの雰囲気の違いに、分からないなりに何か感じとるものがあって不安が込みあげてくる。
「ジョンキィユ?」
入口のレリーフに書かれていた文字を読むと、兄は私と繋いでいた手に力をいれた。
「この店の名前だ。………………ごめんな」
「お兄ちゃん?」
兄のそんな弱々しい声は聞いたことがなかった。
驚き見上げた兄の顔は、逆光で薄暗くなっていてよく見えない。
「多分お前はこれから俺のことを嫌いになる。でも、俺は……」
その時、人の気配のなかったジョンキィユの扉が開かれた。
「きみがルカ?」
出てきたのは花の香りのする男の子だった。そんな男の子とは初めて出会ったのでどきどきした。
「僕はミュゲ。よろしく」
微笑んだその顔は兄のように整った顔をしていた。年齢もきっと兄とそう変わらないだろう。
全体的に色素がうすい感じの人で、どこか品の良さが漂っていた。
「ああ、よろしく」
「その子は?」
「俺の弟だ」
「その子も?」
「いいや、この子は、ちがう」
ちょっと痛いくらいに兄が私の手を握りしめた。
「……へえ、そうなんだ。でもいつまで許されるだろうね」
「させないよ。俺がさせない」
この時の私は戸惑うばかりで、二人の会話の意味は分からなかった。
男娼館ジョンキィユ――兄を買い取ったその場所で暮らすようになっても、私はしばらくの間は彼らの仕事がなんなのかちゃんとは理解できていなかった。
いいや今にして思えばそれは、理解してしまえば失ってしまうものがあると本能的にわかっていて、気づかないようにしていただけなのかもしれない。
少しでもその時を遅らせようとして、子どもでいようとしていたのかもしれない。
兄が初めて客をとった日だってそうだった。
「おかえ、り、なさ、い……」
朝日がまだ昇りきっていない頃に部屋に帰って来た兄に気づき、目をこすりながら身を起こした。
「まだ寝てな」
頭を撫でようとした手がこちらに伸ばされる。いつものことなのでじっとしていたが、兄は伸ばした手を宙に浮かせたまま固まっていた。
「どうかした?」
強ばったその表情にどこか怪我でもしたのだろうかと、彼の手にふれようとした。
「触るな!」
火にでも手をくべられたように強い反射的な動きで兄が私から距離を取る。
「……さわるな、ジェンナ」
ここに来てから伸びた髪が兄の顔を隠す。短くなった私の髪の毛と反して、兄の髪の毛は肩よりも長いくらいになっていた。
「お兄ちゃん?」
「お兄ちゃんじゃなくて、兄さんだろ」
何度か繰り返された注意はいつも通りの声音だったが、兄の表情が見えない。
「兄、さん、えっと……、大丈夫……?」
「――大丈夫だよ。俺は、大丈夫だ」
その日からしばらくの間、兄は私に決してふれようとしなかった。
どれくらいたった頃かはもう定かではないが、いつからか距離を取るのをやめたので何があったのかは聞かなかった。
聞いてはいけないと、どこかでわかっていた。
けれどそんな無意識の目隠しもいつまでもは続かない。
十二の年までは、男の子の格好をして兄の身の回りの世話をしていた。店の男の子たちは私に優しかったり、無関心だったり、嫌悪を向けてきたり色々だった。
どれも納得できる感情だった。
優しい人たちは年下の弟妹がいた人が多く、代替の優しさをくれていたし、無関心の人はここで生きるので精一杯だというだけ。
嫌悪を向けてきたのは兄よりも年下の子が大半だった。当然の感情だろうと思う。あの場所で、私だけが守られていた。
憎しみを向けるには十分すぎる理由だ。
ミュゲもそうだった。穏やかな微笑みに隠して、いつだって私に向けられる目には怒りがちらついていた。
彼は一緒に過ごすうちに次第に兄を慕い、尊敬していたようだったから、余計に私の存在に苛立ったのだと思う。
しかし直接的な嫌がらせなどはなく、表面上は平和な暮らしだった。
けして不幸ではない毎日。終わりが訪れたのは十三になってすぐのことだった。
理由は簡単だ。私が初潮をむかえたのだ。
「ジェンナ。もう俺にお前は必要ない。すぐにここから出ていきなさい」
私の身体の変化を知ると、兄はすぐさま行動にうつした。
兄を贔屓にしている客の伝手を使い、寮のある学校を見つけ出すとそこに私をねじこんだのだ。
その頃には、兄はここで一番の男娼になっていた。皮肉にも兄に目をつけた娼館の主は慧眼だったということだ。
兄には才能があった。美しい容姿だけではなく、人を虜にする才能に長けていた。
最初はおそらく私という存在は兄を逃がさないための鎖の役割もあったのだろう。娼館側もだからこそ客もとらないのに私がここで暮らすのを許していた。
けれどもう私がいなくたって兄はここから逃げられないだろう。そうするには、しがらみができすぎていた。
「二度とここに来てはいけないよ。さよならだ、ジェンナ」
離れたくないと何度もすがる私をすげなく振り払い続け、兄は私をここから追い出した。
悲しみと怒りでいっぱいでこの時は兄の気持ちなんて考えられなかった。
ひどい。大嫌い。そんな言葉ばかりが頭のなかを埋めていた。
自分に私は必要ないのだと言い、嫌われるような言葉を兄は何度も投げかけてきた。
たった一人の家族だったから、本当に傷ついたけれど時間がたてば兄がそうしたのもわかる。
微塵も譲歩する余地なくそうしたのは、いずれ秘密が知られた時に私が受ける仕打ちを考えたからだったのだろう。
兄が守るといっても限界がある。彼が客をとっているときは鍵をかけた部屋から出ないようにずっとしてきたが、それだって本気で害そうと思えばどうとでもなってしまう。
私をよく思っていなかった男娼に秘密を知られてしまえば、どうなるかなんて考えるまでもない。
ジョンキィユは客の性別は問わない店だ。まだ十三の小娘の心を壊すやり方もきっとよく知っていただろう。自分がやられたことをすればいいのだ。
だから、私のため。
私のためだ。私の、せいだ。
消えてなくなりたいほどに、自分の存在が憎かった。
兄と離れて二年。私は別に不幸ではなかった。
学ぶことは面白く、三年ぶりに同年代の子どもたちと過ごすことは新鮮だった。
それまでとは違いすぎる環境で、新しい生活にはじめはうまくなじめなかったけれど、それでも半年もすれば順応していた。
もしかしたらその日々を、幸福と呼ぶ人だっているのかもしれない。
平凡で、普通の毎日。ただ、兄だけがいない。それだけ。
それだけが、私を幸福にはしてくれなかった。
だから私は。
「ジェンナ。聞き分けなさい」
二年ぶりに会った兄は、相変わらず美しかった。
「どうして喜んでくれないの? みんなはすごいって褒めてくれるよ」
「それは、そのみんなは、お前を愛してないから褒めるんだ」
「私の友達や先生に対して失礼な物言いだね」
軍の魔法部隊から私が声をかけられたのをどこで知ったのか、兄は突然会いに来た。
「話をそらすなジェンナ」
こっちの気も知らず、久しぶりの再会だというのにそれに対しては一言もなく、兄はひたすら頭ごなしに否定してくる。
腹が立った。
「兄さんは前に、俺はえろいことが好きだから金をもらえてやれるなんてラッキーだ。男娼は自分にとってまさに天職だって言ってたでしょう」
「……そんなこと言ったか?」
「言ったよ、私をここから追い出すときに」
二年前に彼は私をそうやって突き放した。
「だから、私もそうだよ。私も魔法を使いたいの、魔法を使えばお金をたくさんもらえる。天職だよ。だからなるの」
「その魔法でお前は人を殺させられるんだぞ!」
「そんなの今更でしょ!? 私が殺さなくても誰かが殺す。殺される。父さんみたいに死んで、私たちみたいな子どもも増える」
私たちは今、平和な暮らしをしている。けれどいつまでその平和が続くかはあやしいものだ。
国境での小競り合いは年々悪化していて、いつ爆発するかわからない。
才能があれば年齢は問わないと、私みたいな子どもにまで軍が声をかけてきたのがいい証拠だ。
遠くない日に、その日は来る。
同級生たちは若くして国から声をかけられた天才だと目を輝かせていたが、実際は戦力として確保しておきたかっただけだ。
私は魔法部隊の隊長から聞いた話によって、兄はきっと客から聞いた話によって、それを知っていた。
「魔法使いが一人いれば、兵士千人分の働きができる。それだけ戦況が有利になる」
しらじらしい言葉だ。そんなのは従軍する理由の一割にも満たないのに。
「みんなの役に立って、お金も稼げる、普通に生きてたら手に入らないくらいの報酬が出る、お金が……あれば……」
「金は俺が稼いでる。充分すぎるほどに稼いでるはずだ。これから先も学ぶにしろ、いつか嫁ぐにしろ、お前が将来の金の心配をする必要なんて、」
「それじゃあ意味ない!」
ふりしぼるような叫びをあげた私に、兄は目を丸くした。
「一体どうしたっていうんだ」
「……兄さんには、わからないよ。ねえ兄さん、私はいつまであなたを食い潰しながら生きていかなきゃならないの」
ずっと、苦しかった。
自分の日常は兄の犠牲によって成り立っている。
まるで普通の子どものように学び、遊び、日々を暮らせば暮らすほど、暗く濃い後ろめたさが心に影を落とした。
「もたらされるはずだった苦しみを知らずに、私が普通の子のように育てたのは兄さんのおかげだよ。感謝してる。でも、苦しい。ずっと苦しい」
だから楽になりたかった。
「兄さんは馬鹿だよ」
お金さえあれば、私は楽になれる。
「どうして兄さんを犠牲にしながら私が幸せになれると思うの?」
お金さえあれば、私は兄さんをあの場所から解放できる。
二年前に娼館の主から具体的な金額だって聞いていた。
あの時は、お前には到底無理だろうけどな。と嘲られたけれど魔法使いとしての才能に恵まれていたことがわかった今となっては話は変わる。
「俺が望んだことだ。犠牲になんてなってない」
「私はそうは思えない」
「そんなに惨めに見えたか? 汚らしく見えたか? 身体を売って生きた俺はそんなに不幸そうだったか?」
「私、知ってるんだよ兄さん」
「なに、を」
一瞬戸惑いをみせたが察しのいい兄はすぐに気づいたらしい。
「知っ……、て……?」
「もう責任を感じなくていい、私の不幸はあなたのせいじゃない」
呆然とするルカに私は背を向けた。
「次に会う時はきっと他人だね。ばいばい、兄さん」
あなたはもう、私を家族にしたことを、後ろめたく思わなくていい。