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モヌ  作者: レッド・ジン
第1章 手放す
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第5話 そして、愛

 ――十年前。


 高校を卒業し、食品メーカーに就職して三年目。美沙は、仕事で多忙を極めていた。その日はトラブルがあり、処理しなければならない事が山積している。彼女は、丸一日眠れていない。


「羽立さん、あとは俺がやっておくよ」

「いえ! そういうわけには……」

「もっと自分の体を労って。上がって大丈夫だから」

「ありがとうございます。では、こちらよろしくお願いします。お先に失礼します」


 それは、朝の九時半のことだった。ようやく仕事から解放された彼女は、夏の暑さで汗だくになりながら帰宅する。早くシャワーを浴びたいところだが、まずは睡眠が先か。いや、やはりシャワーか。彼女の頭の中には、この二択以外の思考はなかった。


 外でうるさく鳴いているセミ。美沙は玄関のドアを閉めて、耳に届くセミの声を抑える。


「おかえり、美沙」

「お姉ちゃん」


 一人暮らしの家に、美沙を迎える声がした。彼女の姉の声である。


「何? 朝帰り? へえ、楽しそうじゃん。ねえ美沙、私はあんただけ楽しくてもさあ、つまんないんだよね。だからさあ、お金貸してくんない?」


 美沙の姉はいつも、顔を見せたかと思えば、こうして金の無心をしに来る。


「先週貸したばっかじゃん」

「ええ? いいじゃんか。貸してよ」

「……どのくらい?」

「三万」


 美沙は、「わかった」と答えて、事前に預金口座から引き出していたお金を、財布から取り出して姉に渡す。


「はい、三万円」


 美沙の姉は、美沙から三枚の一万円札を受け取った。


「ねえ臭うよ。シャワー浴びてないの?」


 お札の枚数を数えながら、そう言った美沙の姉。美沙は、そんな姉の言動に怒りを覚えた。


「シャワー浴びてくる」

「あっそう」


 もうたくさんだ。疲れた。嫌なものは全部、排除してしまおう。


 最善策に気づいた美沙は、浴室ではなく、キッチンへと向かった。彼女はキッチンの引き出しを開け、目的の物を引き抜く。


 狙いを定める、床を蹴る、体重を乗せる――。


 気づけば、彼女の手に握りしめられていた包丁は、姉の腰に深く、深く刺さっていた。


 美沙は我に返る。しかし、もう遅かった。美沙は、姉を殺してしまった。



    ◇



「私には、懲役八年の判決が言い渡されました。ですが、刑期を一年半ほど残して、仮釈放されました。現在、仮釈放されてから、三年近くが経過していますので、すでに刑期は満了しています」


 優雅とルーシーは、美沙から一連の話を打ち明けられた。次に彼女は、暴漢の男について話す。


「私を襲った暴漢は、私が今の職場に就業する際の面接で、面接官を担当していた上司でした。面接の時、私は自身の前科について話しませんでしたが、あの人は私たち派遣社員について、一通り調べていました。そこであの人は、私の前科を知り、危険な人間である私が不幸になることを望んだのです。当然の報いです。あの人は世間の代表として、私に罰を与えたのです」


 前科のある者は、前科を隠さないほうがいいのか。否、隠すべきである。世間は前科のある人間に冷たい。隠さずにいても同じことが続く。そんな彼女に寄り添えるのは、世間ではなく、優雅とルーシーという個人だ。


「羽立さん、私は、あなたを肯定します。あなたは十分、罪を償いました。あなたには幸せに生きてほしい」


 ルーシーも優雅に続いて、美沙に言葉をかける。


「私はこんな奴らが嫌いだ。前科者を不幸にするのは、真面目に生きている我々にとって当然の権利だ――などと宣っている奴らがね」

「どうしてそんな……。私は、人殺しなんですよ……?」

「友達になったからっていうのが、一番の理由かな。私たちにとって、美沙はもう大切な人なんだ」


 ルーシーは座布団から腰を上げ、美沙の左側に移動する。


「大丈夫だよ、美沙。私たちは、ずっと美沙のそばにいる。約束だ」


「私も約束します」と、優雅もルーシーと同じように、美沙の右側へ。


「ありがとう……」



    ◇



 美沙の頬を、一粒の涙が伝う。彼女は静かに目を閉じて、心に注がれる愛を噛みしめた。これはきっと、幸せという感情なのだ。幸せが、ここで感じるべき感情なのだ。


 しかし、彼女は涙の理由を見失う。


――どうしてなの? どうして私の心は空っぽなの? 幸せなはずなのに、約束してくれたのに、どうしてこんなに痛いの……?



    ◇



 二日後。優雅とルーシーは、イェムモガ長官室に居た。二人の作成した報告書に、アイザックは目を通す。


「お疲れ様でした。これをもって、羽立美沙さんの観察を終了します」


 二人は礼をした。報告書を読み返すアイザック。


「お二人のこの報告のとおり、羽立さんに注射器が届いたのは、彼女に前科があったからでしょう。羽立さんがまた、事件を起こすことを期待して。ただ、暴漢として現れた羽立さんの上司の男は、取り調べの結果、羽立さんに嫌がらせをしたかっただけだとわかったそうです。注射器を届けた人間とは無関係のようですね」


 二人はアイザックに、「その後、羽立さんはどうですか?」と訊かれた。優雅は答える。


「少しずつ笑顔が増えてきました。口調も砕けてきていて、心を開いてくれています」


 しかし、優雅には心配事があった。


「羽立さんに対して、私に何かできることはあるでしょうか……。ルーシーと共に、ずっとそばにいると約束しましたが、ほかにできることは……」

「優雅……」


 アイザックの顔は、表情筋の無い異形の顔。だが優雅には、彼が優しい表情をしているように見えた。彼は優雅に回答する。


「いるっていうのは、尊いことですよ。私は常に、皆さんがいてくれることを噛みしめています。だから、ずっと、羽立さんのそばにいてあげてください」

「そばにいるだけで、十分ですか?」

「はい、十分です」


 美沙の幸せが確約されたようで、そのアイザックの言葉が、優雅は嬉しかった。

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