第4話 心の栓
優雅とルーシーの向かい側に座る美沙は、テーブルの上のコーヒーカップを手に取って、コーヒーを一口飲む。夕方近く、三人はカフェに来ていた。
「ここのカフェ、落ち着きます」
「落ち着きますよね……。すっかり私は、ここの常連ですよ」
ルーシーは美沙にそう返した。すると彼女は、自分のバッグを開けてクリアファイルを取り出す。
カフェの雰囲気にリラックスしていた優雅は、本題を忘れかけていた。クリアファイルを見て思い出した彼。
「ああ、そうだった。今日羽立さんに来ていただいたのは、このためだったね」
「忘れてたの? 優雅」
「ごめん」
ルーシーはくすりと笑い、「まあ、ここは居心地がいいからね。無理もないか」と言うと、クリアファイルを美沙に向けて開く。
クリアファイルには、書類が収められていた。人の写った写真が数枚載っている。
「昨日までの三日間で、こんな感じの調査報告書を作成しました。美沙さんの家の郵便受けに、注射器を届けた人物が誰なのかは、まだ特定できていません。ただ、ここに載せている十七名が、その誰かである可能性があります。心当たりはありますか?」
少しだけ顔を覗き込み、調査報告書に目を通す美沙。
「皆さん、知っている人たちです。心当たりはありませんが……」
美沙は顔を上げる。
「私、友達がいないんです。ここに載っている職場の方たちも、私のことはよく知らないと思います。すみません、参考にならなくて……」
「いえ、ありがとうございます」
優雅は、こう切り出してみる。
「羽立さん、よろしければ、私たちと友達になりませんか?」
「いいんですか……?」
「ええ、もちろんです」
つい先日、健一やアデレードと知り合った優雅。人と繋がることの嬉しさを体験したばかりの彼は、美沙と友達でいることが、互いの幸せになるだろうと考えた。
「ルーシーもいいよね?」
「ああ。じゃあ私は敬語をやめよう。そのほうが親しみやすくていい」
ルーシーは、美沙に手を差し出した。彼女と握手を交わす美沙。たちまち、美沙から笑みがこぼれる。
「これからよろしく、美沙」
「よろしくお願いします、ウィンターズさん」
「ルーシーでいいよ」
「はい、ルーシーさん」
◇
日が暮れ出した。二人と別れた美沙は、薄暗い夕方の一本道を一人で歩く。帰宅ラッシュの前だからか、この道にはまだ人が居ない。
美沙は、優雅とルーシーが友達になってくれたことで、とても充実した気持ちを覚えていた。友達がいなかった彼女の心は満たされていく。寂しさが埋まる。
しかし、心には穴が空いていた。修復しきれていなかった、小さな穴である。彼女の心を満たそうとしたものは、その穴を広げて、濁流のように逃げていく。
そして穴には、罪が詰まった。心の決壊は罪によって、なんとかせき止められたのだ。
背後から足音が近づいてくる。誰かが駆けてきている。ひょっとしたら、優雅かルーシーだろうか。
そう思って振り返った、その時だった。美沙は突然胴を蹴られる。地面に倒れ伏す彼女。受け身の結果、彼女は手のひらをすりむいていた。
美沙を蹴った、足音の正体である暴漢は、冷たい目で彼女を見下ろす。マスクを着けてフードを深く被っており、顔がよく見えない。
暴漢は美沙の持つバッグを掴み、何度も揺らしながら強引に引っ張る。バッグを奪い取ることが目的のようだ。ならば、今すぐバッグから手を放せば、見逃してもらえるだろうか。
しかし、バッグの中身は貴重品ばかりだ。金銭に、個人情報、カフェのクーポン券――。奪われたくない。
暴漢に再び蹴られる。何度も何度も、繰り返し蹴られる。きっとこれは、美沙がバッグの取っ手を握りしめ続ける限り、終わらないだろう。
痛い。泣きたくなる。もう終わりにしたい。休みたい。
美沙は、バッグから手を放した。勢いで少しよろめいた暴漢は、すぐに振り返って走り去る。
暴漢が遠ざかる。これでもう、バッグも、バッグの中身も、二度とは戻ってこないだろう。ただ、命と比べれば安い。目の前の脅威に命まで奪われてしまう前に、選択することができたのだ。不幸中の幸いだ。
それでも、もっと早く、こうするべきだった。わかっていたはずだ。自分が欲をかいたとき、どんな結果が待っているのか。
奪うくらいなら、奪われる。それが、羽立美沙の生き方だろう――。美沙は、そう自分に言い聞かせた。もう二度と、忘れないように。
茫然としていた美沙の耳に、ガシャン、と何かが倒れるような、大きな音が飛び込む。前方に目をやると、女性警察官が暴漢を取り押さえる、その一部始終を目撃することとなった。見事な逮捕術で、それは一瞬のうちに決着がついた。
音の正体は、手前に倒れている自転車。巡回していたあの警察官が、ここで乗り捨てたのだろう。
「放せ!! おい!!」
「午後四時三十一分、暴行罪の容疑で現行犯逮捕します」
暴漢の男に手錠をかける警察官。彼女は無線で応援を呼び、無線の先の仲間に救急車の手配も頼んでいた。
「もう大丈夫ですよ。安心してください。私は科戸駅前交番の、桐谷と申します。少ししたら救急車が来ますので、それまで、そこのベンチに座りましょう」
警察官は、バス停のベンチを指差して言う。「立てますか?」と彼女に声をかけられた美沙は、慎重に立ち上がった。
「ありがとうございます……」
美沙は暴漢に対し、強い恐怖を感じていた。しかし、このようにも感じていた。恐怖を感じることなど、おこがましいと。何より彼女は、モヌの力を手放していて、心底良かったと安堵していた。
◇
その夜、優雅とルーシーは美沙のお見舞いをしに、彼女の家を訪ねた。彼女が暴漢に遭った話を、ゆりから聞いたのだ。ドアを開けて姿を見せる美沙。優雅は声をかける。
「話を聞きました。私たちと別れたあと、暴漢に遭ったと……」
「怖かったよね。一緒に居られなくてごめんね」
「いえ、わざわざお越しくださり、ありがとうございます」
美沙は目を落とす。そして、再び二人に目を合わせると、彼女は言った。
「今日の一件を受けて、お二人に話そうと思ったことがあります。少し、いいですか?」
「はい、聞かせてください」
「聞こう」
二人は美沙の家に上がる。ドアは閉じられた。
話そうと思ったこととは、いったい何だろうか。優雅は、机の奥の座布団に腰を下ろす。ルーシーは優雅の右に座り、美沙は机を挟んで正面に座った。
「今まで隠していて、ごめんなさい」
美沙はそう謝罪する。そして、続いた言葉は――。
「私は、人を一人、殺したことがあります」




