第10話 月食
依月は優雅とルーシーに、自分が鬼になったことを話さなかった。あの男のことも、何も。理由は明白。彼女――陽輝を、殺されたくなかったからだ。
そして、依月が陽輝と付き合ってから、三年の記念日。それが今日である。彼は彼女の家で、先日購入したプレゼントを手渡した。
「はい、三年記念日のプレゼント」
「三日月! 可愛い~! ありがとう!」
プレゼントは、三日月のネックレス。依月はネックレスを手に取って、彼女の首にかけてあげた。
「私が三日月好きってこと、覚えててくれたんだね」
「だって、俺の名前に月が入ってるのが、三日月を好きになったきっかけでしょ? そんなの嬉しすぎて、絶対忘れられないよ」
その時だった。突然、依月はめまいに襲われる。視界がぐにゃりと曲がり、立っていられなくなる。彼は、そばにある椅子の座面に手をついた。
「大丈夫!?」
「ごめん。ちょっと急に、めまいが……」
「寝転がって安静にしよ」
依月は声を上げて苦しみ出す。椅子についていた手は床へと落ち、彼はその場に転がった。
「依月くん! 大丈夫!? 依月くん! ……依月くん?」
たちまち、依月の体は赤く発光。彼は濡烏態へと変身する。小さな唸り声を発しながら、ゆっくりと起き上がる彼は、正気というものを失っていた。
「何で……? 何で依月くんが、鬼に……?」
◇
優雅とルーシー、そして美沙は、映画館で映画を観ていた。正午を回り、映画を観終えた三人は映画館を出る。
三人が観た映画は、世間で評判の良いヒューマンドラマの洋画。特に、美沙が観たがっていた作品である。実のところ、優雅はこの映画に、あまり興味がなかった。二人と一緒に映画を観に行くという、その時間を楽しみに来ていたのだ。しかし、いざ観てみたら、主人公の人生を描いた濃密なこの物語に引き込まれ、彼は何度か落涙していた。
「すっごく良かったな……」
「なんか、泣き疲れて眠たくなってきちゃった」
ネタバレを口に出してしまわないよう気をつけながら、映画の余韻に浸る優雅。そして、睡魔に襲われる美沙。
すると、一足先に電源を入れていたルーシーのスマートフォンから、着信音が鳴った。
「長官からだ」
ルーシーは電話に出る。「お疲れ様です。ウィンターズです」と言う彼女。
そのあとに、アイザックが何を話しているのかは、優雅には聞こえない。とはいえ、その答えが明らかになるまで、ほとんど時間は要しなかった。
「初瀬さんが、彼女さんを殺害した……?」
彼女が口に出した言葉に、優雅は耳を疑う。
「はい、わかりました」
電話を終えるルーシー。優雅は彼女に問う。
「初瀬さんが、彼女さんをって……」
「彼はいつの間にか、鬼になっていた。警察と交戦したあと、ついさっき逃走したそうだ」
「長官からの指示は?」
「初瀬さんの状況を、離れた位置から観察しろと」
依月の観察が不十分だった。まさか、彼が知らぬ間に鬼になっていたとは。それにしても、モヌであるはずの彼が、なぜ鬼の力を使って彼女を殺害するに至ったのだろうか。なぜ、そんな悲劇が起こってしまったのだろうか。優雅は悔しさのあまり、眉をひそめて涙をこらえる。この涙は、映画の余韻ではなかった。
「あら、深刻そうな顔してるじゃない、二人とも。まったく面白い限りだわ。羽立美沙は、はじめましてになるわね」
「えっと……」
話しかけてきたのは、黒いスカートスーツを着たシニヨンヘアの女性。困惑する美沙に、彼女は続けて言う。
「あなたの家に注射器を届けたのは私よ」
美沙は怯えて、ルーシーに体を寄せる。間違いない。目の前に居るこの女は――。
「オレンジか」
「私ってそんなふうに呼ばれてるの? ずいぶん安直ね」
オレンジに、「呼びやすくていい」と返してみる優雅。
「ねえ、オリヴィア・ウィンターズ。今、私と二人で話すってどうかしら? 私を拘束して連れ帰ってもいいわよ」
「わかった」
ルーシーは横に視線をやって、優雅と目を合わせる。
「優雅は美沙を連れて、初瀬さんの観察任務にあたってくれ」
優雅はルーシーにうなずいて返した。「行こう、羽立さん」と美沙に声をかけ、彼は彼女と共に近くの駅へ向かう。
◇
人気のない路地裏に移動した、ルーシーとオレンジ。
「私の名前は、紫藤夏乃。ご存じかしら?」
「紫藤夏乃って、連続放火殺人の……!? 日本での暮らしは長いんだ。嫌でも覚える。でも、何で……?」
「一年前にまとめて執行されたうちの一人であり、現在は元死刑囚――ということになっているけど、実際はね、モヌとして引き抜かれていたの。私を使う人にとって、これ以上ない使い捨ての駒はいなかったらしいわ」
死刑囚を極秘裏に引き抜くことができる人間は、かなり限られる。ルーシーは、流出事件の裏でうごめく強大な何かに、底知れない恐怖を覚えた。
オレンジ――夏乃は、ルーシーから視線を外し、遠くのほうを見つめる。
「ねえ、ゾノフェって、どうやって作られるか知ってる?」
夏乃がどこまで知っていて、どんな意図をもってその発言をしたのかはわからない。しかし、黙っているよりも、素直に答えたほうがメリットがある。モヌの管理者に関する情報さえ、引き出せるかもしれない。そう考えたルーシーは、彼女の問いに答えることにした。
「モヌ型の超ヒト体細胞を移植すれば、その怪獣は人間態を獲得する。そう、聞いているが……」
夏乃は短くため息をついた。
「ほんとはね――」
◇
優雅は美沙と共に、花蘇芳市市民会館前に到着。離れた位置から状況を観察する。
そこに居るのは、気絶している依月と、戦闘用パワードスーツを脱ぎ捨てる一人の警察官、そして、女性を抱きかかえているネメシス。
ネメシスは赤く発光。真っ赤な光は警察官と女性を巻き込み、その場に散って消えていった。依月は噴水の近くに、置き去りにされる。
「初瀬さん……」
悔しさが再び、優雅を襲う。彼は依月から目を背けるように、美沙に視線を移した。
「じきに警察が来る。それまで待とう」
「いや、私行ってくる。あの人を取り押さえておくよ。麻田さんが任されたのは、離れた位置からの、状況の観察。警察と接触するのは避けたいんだよね?」
優雅は、美沙の前向きさに心を動かされる。
「ありがとう、羽立さん」




