第九話 祐也と根
祐也は時任のメモを自分のカバンの中へしまい込むと、じっと病室のベッドに腰掛け続けていた。
ここに入った時、気がついたのだが、自分と時任のベッドは軒並み、調べられた形跡が見られた。ベッドや荷物の位置がずれているし、中身もどうやら漁られたらしい。おそらくは時任老人の入れ知恵を警戒したのだろう。何か手がかりを残してやいないかと。
実際、この行動まで計算ずくで、時任老人は自分たちと関わりないベッドに、あのメモを隠してくれていたわけだが。
時任老人の残してくれたメモ。それをどう実行するか、訪問者によって決まる。
時刻は16時20分を過ぎた。ほどなく、小さいスリッパの音を響いてくる。
「――祐也のお兄さん?」
声も予想通りだ。約束をすっぽかした男の名前を呼ぶ、少女の声だ、いや、時任老人のメモ通りなら、本当に「少女」と呼べるのだろうか?
祐也は黙っている。カーテンを仕切っているから、入り口から自分の姿は見えないだろう。もう一度、自分の名前を呼ぶ声。それにも答えなかった祐也の元に、ますます強まるスリッパの音。
「あ、いたいた。良かったあ」
カーテンからこちらをのぞき込み、ほっと胸をなで下ろす静枝。祐也はまだ、何も言わない。
「もう、どうしたの? 約束の時間なのにすっぽかしちゃって。寝てたりした?」
静枝はニコニコ笑っているが、自分へ呼びかける時の声音は、どことなく不安げだったのを、祐也はしっかり感じている。
「ね、中庭に行こ? また色々、演劇について教えてよ?」
「その前に、ちょっと頼みがあるんだ」
「なに? あたしにできることだったら……」
「ちょっとだけでいい。外の空気を吸いたいんだ。ここの窓、開かなくなっちゃってさ」
ぴくりと静枝の肩が震え、表情も固まってしまうのが見て取れた。
「――どうしても、かな?」
「どうしても」
間髪入れずに答える祐也。この後の彼女の行動で、見極める。自分が一体、何をすべきなのかを。この静枝という少女の望みの姿を。
静枝は足取り重く、それでもひとりで祐也を先導しながら、入り口まで連れていく。祐也としては、もし自分を拘束したり、応援を呼ぶ素振りを見せたりしたら、即抵抗するつもりでおり、今も周囲にちらちらと目をやっている。
「本当に出るの? 出るの?」
自動ドアの前に敷かれたマット、数歩手前で足を止め、何度も確かめてくる静枝。「くどい」とは言わず、祐也は黙って自動ドアの前へ立とうとする。
もし「後継者」とやらに思う連中が潜んでいるなら、このまま外に出しはしないだろう。そのまま管を抜かれて逃げ出されたら、溜まったものじゃないからだ。
他の人の出入りはわずかながらにあるから、自動ドアを止めるような真似はできない。祐也自身にぶつかってくるはず。
「……待って」
静枝の声に、祐也は止まった。「やはり、土壇場で許さないか」と、失望混じりに振り返る祐也。
静枝は大きく口を開けて、空気を吸い込んでいた。あくびと見まごうような姿勢で、それでも音を立てながら、何秒も。やがて「ぷくり」と頬を膨らませると、たたたっと小走りで祐也の腕を抱きかかえる。
一瞬、自分で止めるつもりかと思ったが、その顔はしきりに外をしゃくっている。「早く行こう」と言わんばかりに。
本気だ。この子は止めることなく、本気で自分についていこうというのだ。
病院の自動ドアは二重になっている。院内から見て最初のドアと二つ目のドアの間は傘立て、二段目のドアを抜けると外になっている。そこの階段を数段下りれば、だだっぴろい駐車場が広がっていた。
祐也は戸惑いなく、一つ目、二つ目のドアを通り抜けると、行き来する人の邪魔にならないように、ドア脇によけて寄りかかる。彼女はというと、頬を膨らませて腕を抱きかかえた姿勢を崩さない。何度か出入りする人に、ちらちらと顔を向けられる。兄妹か何かと思われているだろうか。
「――病院の外だ。ちょっと変なことをいう。言葉にしなくていい、うなずくか、首を振って答えてくれ。あと、いよいよ持って苦しくなったら、質問途中でも容赦なく、何度も首を振ってほしい。オッケーか?」
こくん、こくんと静枝はうなずく。
「事情はある程度知っている。俺は質問がへたくそだから、単刀直入に聞く。君は、『枝』だな?」
静枝は大きく目を見開いて祐也を見るが、やがて静かにあごをひいた。
「もし、俺がこのまま外へ逃げ出そうと企てたら、追ってくるつもりはあるかい?」
静枝はふるふると、小さく首を横に振る。
「俺は『後継者』になれるかもしれない存在と聞いた。俺がいなくなれば、いつまた同じ存在が現れるか分からない。そうしたら、外に行きたいという君の願いは遠のいてしまうだろう。それでもいいのか?」
「――よくはないけど!」
静枝が閉じていた口を開いた。ほどなくぜえぜえと息が荒くなり、顔がみるみる赤みを帯びていく。
「でも、祐也のお兄さんが望むことなら、あたしはそれを見守りたい」
「なぜ?」と問いかけることはできなかった。静枝の目に涙が浮かんでいたからだ。
「楽し、かったから。短い間だったけど、中庭でオフィーリアを演じるのに、一生懸命頭をひねってさ。その時だけは私、本来の役目を忘れて、誰かになることができたんだ。
知っているんでしょ。このままだと私たちのような存在は、長くないんだって」
ゲホゲホ、と苦しそうに咳をする静枝。「中に入ろう」と促す祐也の足を、今度は力を増した静枝の抱き着きが、食い止めた。
「あたし、これから色々な台本を用意してもらおうと考えてる。そこにいる役を演じれば、いつか死んでしまうその時も、私は『枝』だけじゃなかったと思えるような気がするの。
だから公演は絶対に行く。祐也のお兄さんたちが演じる「生きた別人」を観ることができれば、それを手本に私は生きていける。『枝』じゃない、誰かになれるんだって、幸せな夢を抱いたまま消えていける」
「もういい、しゃべるな。すぐに戻ろう」
腕を抱きしめる静枝の手が、土気色になってきた、冗談ではなく肌の色が消えて、枯れ枝を思わせる茶色に染まっていく。
「止めたいけど、止めたくないよ。それで祐也のお兄さんの演技が、確実に見られるのなら」
院内へ戻って数十秒経つと、静枝の乱れていた息が急速に落ち着き、肌も色を取り戻していく。ようやく腕を放した静枝の頭を、「ごめんな」と祐也は優しくなでた。
「うん、大丈夫、もう。だからさ、祐也のお兄さんのやりたいようにやってよ。あたしは止めない。その代わり、最高の演技を見せてほしい」
「心配しなくていい。俺の覚悟は決まったよ」
目をしばたたかせる静枝の前で、祐也は宣言する。
「――俺、後継者になるよ。この木の」
「え? いいの? そんな簡単に決めちゃって」
「あのやり取りをして『簡単に』とか、言うなよな……」
いや、それこそ「静枝」らしいのかもしれない。思った通りに伸びて、相手に自分の思いの形を見せる。それが自然における「枝」の在り方だろうから。
「――いや、それでも良かったわ。女の子泣かせて、何やるつもりかと思っていたけど」
後ろから掛けられるのは、先ほど別れた人の声。振り返ると部長が立っている。
「げっ、どうしてここに」
「『その前に、こちらから来る』っていったでしょうが、まったく。もしあのやりとりがもう少し長く続いていたら、君をぶちのめすところだったよ」
部長は静枝にも軽く手を振るが、静枝自身はきょとんとして「お姉さん、誰?」と尋ねてくる。
「覚えていない、か。まああたしもあれから髪、伸ばしたからね」
「ん、もしかして部長の気胸って、ここで……」
祐也の口が部長の片手で抑え込まれる。もう一方の手で「しっ」とばかりに口の前に指を立てた後で、こっそり耳打ちしてくる。
「あたしは失敗したんだ。それだけだよ。今度の主役は君」
とん、と軽く肩を押されると、部長は開いた自動ドアの向こうへ消えていく。
祐也は静枝の案内で3階の、あの壁へ向かったが、途中、少しだけ寄り道をさせてもらった。
手術室の前だ。もう時任老人の手術が始まって数時間が経つというのに、「手術中」の明かりは消えていない。自然気胸の手術なら、そこまで長引かないという話だったが、おそらくは……。
――時任さん。
祐也はランプと閉まりっぱなしの戸を何度か見やり、数秒間、深々と頭を下げる。
後はもう振り返らなかった。堂々と胸を張り、静枝の後へついていく。
やがて例の地点へ。静枝が軽く触れながら「通して」と告げると、その手の周りから放射状に肉が退いていく。すっかり姿を現した通路は、あの晩に祐也が見た通り。奥へ伸びて左へ曲がる一本道。そしてやや前方の左手に押して開ける扉が……。
急に視界がゆがんだかと思うと、ぼろりと両頬を零れ落ちるものがあった。涙だ。
止まらない。じわじわと胸の奥から、悲しさ、くやしさ、空しさが入り混じったものがどんどんあふれてくる。
――ああ、これは……これはいけないや。
同時に思った。行かなきゃいけないと、と。そばにいてあげないと、と。
すぐ前で、静枝は右肩をはだけていた。患者着に隠されていたその肌は、先ほど外で見たのと同じに染まっていて、脇には軽くテープで止めただけの管。それを「もういらない」とばかりに、思いっきり引きはがす。
それに釣られるように、祐也の脇からも管が勝手に抜ける感覚がした。ずるずると生地の隙間を抜けて落ちる、先端が赤く染まった管。遅れて、わきの下に温かく、水気を含んだ何かが広がっていく。でも、もうたいした問題じゃない。
「行って。この先に」
静枝の言葉を待たず、祐也は踏み出していた。その足の運びはどんどん速くなり、もう曲がり角を曲がる。
ほんの数メートル先に下り階段。急な角度で、明かりはひとつもついていない。だが、祐也は止まらない。むしろ更に足を早めて、階段を半ば転げるように彼は急ぎ続ける。
どれくらいフロアを下りたか。平らな地べたに着き、目の前には錆の浮かんだ片開きの哲扉。手をかけるとそこは思ったより狭い空間だった。
おそらく四畳半はあるだろうが、その大半は地面から数センチのところに浮かび、上方へ伸びていく、何本もの根っこに埋め尽くされているのだから。
根っこは風もないのに、かすかにそよいでいる。思い出したかのように、錆びたパイプオルガンのような不協和音を響かせながら、祐也の鼓膜を震わせていた。
「――そうか、このままだと静枝はもっと早くに」
声にならない声が、言葉となって祐也の脳裏に響く。それが告げたんだ。静枝はもう3日しか持たない、と。つまりこのままでは、永遠に祐也の公演を観ることは叶わないと。
「分かっているよ、望むことは。そのために俺を呼んだんだろ? 始めようぜ」
その言葉に応えるかのように、そよいでいた根の先が一本だけ、祐也の元へ伸びてくる。鉛筆のように細いその先を、ぐっと祐也は力強く握り込んだ。