第八話 悪魔のゆりかご(後編)
『それからも、同じような被害を受ける病院出身の孤児たちだったが、唯一、わしだけが気胸にかかることなく、普通の暮らしを送ることができていた。
その秘密を解き明かすことができれば、皆が外の空気の中でも、気胸を患うことなく生きていくことができるかもしれない。そう説得され、わしは皆が生きることのできる未来を信じ、この病院における実験体として、長い時を過ごすことになる。そう、若い時のわしは、それが最良の選択と信じてやまなかったのだ』
また外でバタバタと足音。もしかすると本格的に自分を探しに来たのかもしれない。
祐也は更に早く、眼を走らせていく。
『それから30年たつ間に、院では少々、奇妙なことが起こる。捨て子の数が増えたことだ。もろもろの事情で育てることを断念された子が、院の外に置いてけぼりにされていたのは、これまでもあったこと。
しかし、これらの捨て子は院外に放置されていたわけではない。「院内」にある例の木、その根元にいつの間にか姿を現したんだ。
院内の誰かの隠し子かと、当初は噂がされた。孤児院時代の仲でお付き合いをするようになった男女もそれなりにいる。共に入院している子もおり、その子が密かに産んで、捨て置いたのではないかと。
院長は追及をしなかったし、申し出る者も誰もいなかった。命に罪はないからと、他の子たちと一緒に、育てられた件の子供たち。ところが、ある程度大きくなって、外へ連れ出そうとした時、問題が発生する。
彼らは院外で、まともな呼吸をすることができなかったんだ。「息が苦しい」と盛んに訴え出て、どんどん顔が青くなっていってしまう。あわてて院内へ連れ戻すと、やがては復調し、また元気に走り始めるんだ。しかし、外に出ることは叶わず、寿命もまた、長くて15歳そこそこで死に至ってしまう
院内の環境と院外の環境で、どうしてここまで違いが生まれるのか。多くの者は、「例の木」の存在のためではないかと思うようになっていた。
試しにあの葉を一枚むしり、マスクの内側に仕込んだ上で、「院内の捨て子」の一人を外に出してみる。すると3分と外にいられなかった子が、半日の間、外で走り回ることができたんだ。他のいずれかの捨て子の場合でも、同様の現象が見られた。
くわえて、一日の大半を木の根元で過ごす子が、信じがたい報告をする。木のこずえの中から枝が一本、地面に落ちてきた。特に気にも留めなかったのだが、少し目を離したすきに、すぐそばで産声があがる。顔を戻すと、そこには裸の赤ん坊がわあわあ、声をあげながら泣いていたというのだ。
枝が人になる。そしてその人は、この木の発する空気がなくては生きられない。それだけでなく、この空気に長く当てられた者も、多かれ少なかれ影響が出ると見られた。
実際、色弱によく似た、特定の色の組み合わせを認識しづらくなる症状が出ることが分かっている。どれだけ空気になじんているかを見るため、ここの病院の図面は、その色合いで作られているのだ。
中の空気に身体がなじむと、外の空気に触れることを有害と判断した身体が拒み、肺に穴を開けてまで逃げ出そうとするのではないか。
我々はこの突拍子もない仮説へ、徐々に傾倒し始めたのだ』
「302号室の緒方祐也さん。302号室の緒方祐也さん。お客様がお見えになっています。いらっしゃいましたら、病室までお戻りください」
突然の館内放送。祐也はまだ完全に手紙の内容を信じたわけではないが、このタイミングだと、悪意のある呼ばれ方のように思えてしまう。
「とうとう強引にあぶり出しにかかったか」と。
だが予想に反して、病室の前で待っていたのは看護師の類ではなかった。
「お、ようやくお出まし? どっかぶらついてたんかい?」
「え、部長? まじで来たの?」
よっ、とばかりに病室脇の壁に寄りかかって手を上げるのは、本番でのオフィーリア役を務める部長だ。
ほっそりとした体形かつ、黒のロングヘアと、いかにも大和撫子然とした容姿は入部当初から変わらない。本人曰く、「イメージは大事」だとか。その割に言葉遣いには、ところどころがさつなところが見えるのは、素なのか。
「おいおい、『来たの?』とは失礼な奴だな。練習がひと段落したら、見舞いに行くと連絡したと思うけど」
「いや、まさか今日とは思わなくて。じゃあばっちりなのか、みんな」
「ああ、仕上がりはぼちぼちだ。だがやっぱり君じゃないと、プライドは締まらないな。控えの人に合わせてもらったけど、ただの大根だねえ、あれは。本番でやられたら、あたしらの肝と一緒に、客の顔まで青ざめちゃうだろうさ」
「だいぶ乗せてくれるじゃねえか、部長。これで『君の代役の準備を急いでいる』とかいってたら、そのきれいな顔が赤くなってたところだぜ」
「おやおや、本番で決闘する仲だってのに、早くも一戦交える気? がっつく男は嫌われるって」
「思わせぶりな焦らしも、今や淑女のたしなみじゃないと俺は思うぜ。時代は素直。つれない態度などされちゃあ、ここがずきずき痛むってものよ」
管の入った自分の右肺を、親指でちょんちょんと指してやると、部長がにんまり笑う。
「よし。そんだけ口を叩けるなら、心配いらなそうだ。また来るよ」
「みんなに『待ってろ』って伝えといてくれ」
「その前に、こちらから来てやるさ」
部長は悠然と廊下を歩き、とんとんとテンポよく階段を降りて行ってしまう。結局、立ち話だけして終わり、病室の中へは入らずに終わってしまった。どこか潔ささえ感じる所作も、彼女が部長に抜擢された理由かもしれない。
部長の余韻を感じつつも、時任老人のメモへ意識を戻しつつあった祐也は、ふと周囲を見回す。メモはまだ懐の中だ。今、調べられたら簡単に見つかってしまうだろう。
近くに看護師の姿は見えなかった。いや、それどころか、またナースステーションはもぬけの殻になっている。あれからだいぶ時間が経っているだろうし、まさかまだ中庭に集合しているとは考えづらいのだが。
時刻は15時になろうかというところ。昨日はこの時間に検診があったはずなのだ。
いずれにせよ、今がチャンスと、祐也は手近なトイレの個室へ入る。メモもだいぶ読んだし、ここで残りに目を通し、また流して処分してしまう腹積もりだった。
『木はここ10年余りで、急激にやせ細ってきた。病院はすでに数回の改築を経て広くなり、木をフロアごとに大量のコンクリートで囲って、容易には倒れないようにした。木も元の色を尊重したうえで、金属の質感を感じさせるメッキをしながら、どうにか体裁は保っている。
だが、木はどこか最期を迎えたいと思っているのではないか、と我々はうすうすとだが感じ始めている。枝を自ら落とし、子を作るのもさることながら、自分の根っこへ外部の者が容易に近づけないようにしたんだ。
例の肉壁だ。あの道の先には、木の根っこに通じる路がある。昼間は木が起きているせいか塞がっているが、夜は木も眠り、通れるようになるんだ。
だが、外の空気をたっぷり吸って吐いている奴は、あそこをただの壁としか認識できないらしい。夜になってもそれは変わらず、寝ぼけまなこで迷い込んだ挙句、パニックを起こして我々に回収され、部屋へ戻される者も現れた。それがどうやら「道が変わる病院」として伝わったらしいんだ。
先にも話したように、わしはあの木に携わる皆が、生きられる手掛かりになればと思い、協力を続けてきた。
皆は私に、外でも木の空気を生み出し続ける「後継者」になってもらうことを望んでいたのだ。自分たちが生きることのできる、木の息吹。それを吐き出し、彼らの命脈を保つ空気を提供し続ける、そのような存在になることをな。
詳しいことは教えてもらえなかったが、30年の研究の末、どうにか用意は整ったらしい。だが、肝心のわしが歳を取り過ぎてしまった。拒絶反応を初めとする、様々な障害により、わしはその役目を負うことができないまま、身体を傷ませていった。
このまま木が枯れてしまえば、木から生まれ、また木から育った皆が死に絶えてしまうかもしれない。そう思われた時、祐也君。君がこの病院にやってきた。
詳細までは聞いていないが、どうやら皆は、君にわしと同じような「後継者」の資質を見出したらしい。
短い付き合いだったが、わしが失いかけていた情熱を帯びる君は、何ともまぶしく映ったよ。同時に、ひょっとすると君が、わしと同じ道を辿ってしまうかもしれないと不安になったんだ。君の情熱の芽を潰したくない、と。
だからこの晩、わしは木の暗殺を謀った。君がただの気胸患者として過ごし、この病院を去れるように、と。たとえこれまでの皆の願いを踏みにじっても、だ。
済まない。気持ち悪い言い方かもしれないが……惚れた、という奴かな。君の意気に。だが、わしにはとどめを刺すことができなかった。根のそばまで行くと、急に手足の力が抜けてどうにもならず、引き下がらずを得なかったのだ。
先ほどの去っていく気配、君だったのだろう? 二日目でこの通路に気づくほど空気に適合するとは、確かに後継者としてふさわしい人材かもしれない。これが知れれば君を「後継者」としか見ない奴らが、少しでも早く外の空気を出し、ここの空気を取り入れさせようと手を打ってくる可能性もある。
わしも次の手術が最後の適合手術になる予定だったが、おそらく変わる。根を害そうとしたわしは始末されるか、あるいは意思を奪われモルモットとなり果てるか……少なくとも、もはや正気を保って、君と向き合えることはなかろう。
だからここに残す。わしの心があったという証を。
君はどうだろうか? わしのやろうとしたことを継ぐのも、奴らの願いを叶えるのも、管を外してここを逃げ出すのも自由だ。
君が自分の意思で、最良の選択をしてくれることを望む。
では、さらば。
時任』