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第七話 悪魔のゆりかご(前編)

 昼ご飯を食べると、祐也はすぐに病室を出た。


『君は気づいたか? この病院、昨晩から妙な臭いに包まれているのを。もし気づいたのなら、次に書くことを確かめてほしい。事態がどれだけ切迫しているか、分かって欲しいのだ。くれぐれも病院にいる看護師を含む皆に悟られないよう、さりげなくな。

 まずは、ここの図面だ』


 祐也は昨晩、まともに見ることができなかった図面の前に立つ。

 やはりまともに中身を把握することができなかった。壁を眺める時はどうってことないのに、図面へ目を向けたとたん、カメラのフラッシュのような残像がちらつき、邪魔をしてくるのだ。


『把握できたならば、ことはまだ進んでおらぬ。だが、把握できなかったらまずいことになっているかもしれん。把握できなくなった時の次の一手だが……』


 祐也はそのまま十字路を右折。曲がり角を見ていく。

 一つ目、二つ目は問題ないが、三つ目との間隔は先の二つよりもやや広く開く。その途中の壁を見て、思わず呻きそうになるのを手で押さえる祐也。


 壁の一部が文字通り、肉壁となっていた。

 ボンレスハムをたこ糸で結わえたかのごときもの。それが他の曲がり角の入り口と遜色ない、幅と高さを持って、存分に埋め尽くされているのだ。すっかり壁に成りきっているかのように、わずかな動きも見せない。

 いったんそこを通り過ぎ、「四番目」にあたる曲がり角をのぞいてみる祐也。

 男子トイレ、女子トイレ、多目的トイレ、洗面所、鏡、行き止まり。初日に見たトイレに通じる曲がり角の景色、そのものだ。昨晩、おそらく自分はあの肉壁の向こうにあるであろう通路に入り込んでいた……。


『見えたか? 壁に擬態した肉の姿が。これも見えてしまったら、いよいよ覚悟を決める段階に差し掛かっているやもしれぬ。

 最終確認だ。2階の中庭へ向かってくれ。昼ご飯の直後にな』


 祐也がこの時間を選んだ理由はここにある。

 エレベーターへ向かう祐也。構造上、途中でオープンカウンター式になっているナースステーションの前を通るが、常駐しているはずの看護師さんが誰もいない。さすがに不用心過ぎる気がしたが、このことも時任老人が残したメモは予見していた。

 2階に到着。中庭へ足を向ける祐也だったが、ここから見える光景だけでも、異様さは十分に伝わる。

 中庭にはめ込まれた窓の奥に、医師や看護師がずらりと並んでいた。こちらに背を向けている人もいれば、奥の壁に背中を向け、こちら側を向いている人もいる。祐也には気がついていないようだが、おそらくは中庭のへりに沿って立っているのだろう。ことによると花壇の上にさえも。


 やがて彼らはバンザイをするように、両手を広げながら、高く頭上へと掲げる。

 するとどうだ。中央にそびえ立つ木のモニュメントひとりでに身震いしたかと思うと、その身体中から、自らが天井近くまで生えた緑色の葉と同じ色の煙を吐き出したんだ。

 閉め切った中庭をあっという間に覆いつくしたその煙は、看護師たちの姿も隠してしまう。それどころかすき間を縫って、廊下にもかすかに漏れ出してきた。

 色そのものは、すぐに空気へ溶けて見えなくなってしまう。だが、祐也の鼻腔に飛び込み、絡みついてくるのは、あの飴のような匂い。昨晩嗅いだそれよりも、ずっと強いものだ。

 どれもこれも、見てきたかのように、時任老人のメモ通りに進んでいく。


『すべてを確認できてしまったら、ここから先に書くこと、どうか信じてほしい。できるならば病室を避け、周囲に人がいないところで読んでくれ。もちろん、病院関係者にこのことは触れないように頼む』


 おそらくこの煙が晴れると、彼らはまた持ち場へ戻っていくはず。気づいていないふりをして引き返さねばと思う祐也だったが、振り返ったところにある2台のエレベーターのうち、自分が乗ってきた真後ろのものに動きがある。

 ここ2階から3階へランプが上がった後、すぐまた下へ進むランプがついた。誰かが上階でエレベーターを呼んだのだ。もう一基は地下の1階にあるまま、動く気配を見せなかった。


 ――今、エレベーターを待つと、誰かとニアミスしかねない……!


 祐也はもう一度中庭を見た。まだ煙は漂っているが、心なしか薄くなり、こちらの姿が中の人から確認できるのも、時間の問題だろう。

 即決する。あの逃げた時のように、もう一度台車を持ち上げると、祐也はエレベーター脇の階段を上り出したんだ。

 平坦な道を行くのとは、わけが違う。ドレーン・バッグの重さもあって、一段上っては遅れている足を引き寄せ、一段上ってはまた一歩を引き寄せ……と、ゆっくり進むしかない。


 どうにか踊り場に着いたが、ほぼ同時に、この階のエレベータードアが開く音。身を隠さないといけない。続く上り階段の影に隠れると、階下からガシャガシャとドレーン・バックの台車を転がしながら走る音がする。

 そっと顔を出すと、そこには辺りを見回す静枝の姿があったんだ。恐らくはあのエレベーターから降りてきたのだろう。

 でも、もう気軽に彼女に声を掛けるのははばかられた。なぜなら、きっと彼女は……。



『君には監視役がついているはずだ。医師や看護師ではなく、同じ患者の立場を装いながら、君に取り入ろうとする誰か。私は直接会っていないが、君が話してくれた『先輩患者』が怪しいとにらんでいる。いや、『間者』というべきか』


 ――静枝が、俺の監視役?


 祐也は今、1階にあるトイレの個室にいる。

 もしも監視の目があるなら自分の病室や、あの肉壁がある3階は張られている恐れがあるし、2階は中庭のあれを見てしまっては、とてもとても。そして地下1階は、静枝とのファーストコンタクトの場だ。

 消去法で、かかわりが薄そうな1階が選ばれた。外来を含めた患者の出入りが激しく、会計などの直接は医療に関係しない要素を含むこの場所なら人の目もある。時任老人が気にしている相手の追及の手が、少しは緩むのではないかと、祐也は希望的な観測を抱いていた。


『二日目。君がしてくれた工事の質問、嘘をついたことを詫びておこう。あれを君に話しているところを見られると、奴らが手を早める恐れがあったからな。

 わしは30年以上前から、この病院で手術を受けていたと話したな? だがそれは、一年を通じ、病院の中にいない時間の方が長いであろう、通院ではない。逆に、病院の外に出る時間の方が少ない、入院状態だったのだ』


 トイレの外でバタバタと足音が通り過ぎ、祐也はさっと顔を上げる。

 どこかの怪談で、個室に隠れていたものの、ずっと上からのぞき込まれていた……というものがあったはずだ。読みふけって注意を怠るような真似は、避けなくてはいけない。

 祐也は個室の上も下も視界の端に映るように、顔から少しメモを離しつつ、足跡が通り過ぎるのを待って、続きに目を通す。


『かつて孤児だったわしは、当時、まだ養護施設も兼ねていたこの病院で育てられた。君も見ただろう、あの地下から2階に突き立っている木。あれはモニュメントのように細工されているだけで、本物の木だ。わしが初めてここへ来た時、それは子供のわしでも踏みつぶせんばかりの大きさだったのだ。それが年々、高さを増し、やがて幹だけでも2,3階に相当するものになる。

 やがて年頃を迎えたわしたちは、外で各々仕事に就き始めたのだが、数年後に突然、死を迎える仲間が増えた。

 死因はいずれも気胸。突如として肺に開いた穴から、漏れ出す空気。それに臓器を潰されて血が循環しなくなったことによる死だった。


 当時のこの病院は養護施設の側面の方が強く、入院はできても医療器具そのものは少なく、手術が満足に行えぬ場所。気胸患者を受け入れることは、できなかった。

 育てた子たちに力を貸せず、死に逝くのを看取るばかりでは忍びない。当時の院長はかなりの無理をして、気胸治療のための施設を整えた。ひとえに子供たちを救いたいがために。

 そうして準備万端を整え、いよいよ持って気胸を抱えながら、ここへ戻ってきた子を迎えたわけだが、手術が行われることはなかった。発症した時と同じく、自然と肺の穴は塞がってしまい、再検査を行っても異常なしの健康体としか判断できなかったからだ。

 留めておく理由がなくなり、退院を許す院長。せっかく準備した施設を満足に使えず、残念ながらもほっとしたのだが、それも束の間のこと。

 退院した子がほどなく、気胸を再発。前回を上回る速さで深刻化した症状により、その子が再びここへ来た時には、物言わぬ屍となってしまっていたんだ』



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