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第五話 夜中の彷徨

 ――俺と同じで、トイレに行ったのかな?


 だったら、向かった先で鉢合わせするかもしれない。祐也は台車を押しながら病室の外へ出る。

 廊下へ顔を出すや、何やら甘ったるい臭いが鼻についた。お祭りの時に食べる水あめ。あれのメロン味を、間近で嗅いだ時のようだ。

 誰か、お見舞いの品でもこぼしたのか? と思いつつも、祐也はトイレを目指す。非常灯の緑の光はあるが、廊下すべてを照らすには足りない。

 病室を出て左に曲がり、最初の角を右折。そのまま真っすぐ進んだら三つ目の角を右折。そこに男と女、あと兼用で使える多目的トイレがあったはずだ。念のため、曲がり角の手前に掲げてある見取り図で、確認する祐也。

 だが、見えない。黒く塗りつぶしたかのように、図面が判然としなかった。寝すぎて目がどうかしているのかと思い、何度もこすったが見えない。手でいくら拭っても取れる気配はない。

 そうこうしているうちに、尿意は祐也をせっついてくる。やむなく手探りで先へ進む祐也。

 十字路を右手に。はるか前方に見える非常灯以外、頼りになる明かりはない。曲がり角すら、手で直接判断しなければならないほどの、視界の悪さだ。祐也は台車を押しつつ、右手で曲がり角を確認していく。

 一つ目……二つ目……三つ目。

 ここ、と身体をねじり込む。非常灯から遠ざかるが、ずっと奥の方の窓から、かすかに月明かりのようなものが差し込んできている。その明かりは、左折する曲がり角をしっかり照らしていて……。


 そこで祐也はふと思う。このトイレの並びの廊下は、こんなに長かったろうか。昨日利用した時は、多目的トイレの戸より奥は大きめの蛇口と鏡があるだけだったように思えたのだが。


 ――ひとまずは用を足すのが先決だな。


 祐也は、今度は左手を壁につけながら、そろりそろり。一番手前側の扉が男子用トイレの扉。実際に行き当たり、ぐっと押すとあっけなく開いた。

 ドア脇にある電灯と思しきスイッチをぱちんぱちんと鳴らすが、これもつかない。さすがにトイレの壁を手で伝うのは、汚い感じがして勇気が要る。代わりにスリッパの足をちょんちょんと蹴り出し、小用便器の気配を探っていった。

 ほどなく、その足の先で「ガンッ!」と予想以上の大きい音が響いて、びくりとしてしまう。

 ガラガラ、ガシャン! カラカラカラ……。どう考えても便器を構成する陶器が出していい音じゃない。それにこの音、聞き覚えがある。


 祐也は更にそっと足を上げていき、先ほど蹴ったそれと思しきものに触れる。ぐっと顔を寄せてみると、ポチャリと水滴が床に落ちる音がしたんだ。

 蹴り飛ばしたのは、チェスト・ドレーン・バッグ。今も祐也のわきの下に刺さり、血や空気を吸い出してくれているそれが、台車に乗っかったままここに放置されていたんだ。本来ならば、身体に刺さっているべき管の一方がくねり、先端が床からわずかに浮き上がった状態を保っている。そこから落ちる真新しい血が、音を立てていたのだ。


 ――この管、抜かれてから間もないぞ……!


 さっと、この空間を見やる。管を抜いた誰かが潜んでいる可能性があったからだ。

 引き続き、足で用心深くつつきまわしてみたものの、部屋の隅の木の戸の向こうにモップや洗剤があるだけ。誰もいなかったが、本来あるべき便器の姿もない。いや、そもそもここは本当にトイレなのか?

 まだもう少しなら耐えられる。そっと部屋を抜け出すが、自分の引くバッグの音の大きさに忌々しさを覚える。これじゃ、潜んでいる誰かに「ここにいますよ」と教えているみたいじゃないか。


 ――待てよ。じゃあ、あの管を抜いた誰かも、気配を消すのが目的? 忍んで行いたい何かがある?


 そこまで考えて、祐也はもう一度、耳を澄ませる。

 硬いものをリノリウムの床の上で滑らせる音が、あの遠くの曲がり角から聞こえてきただ。

 コン、ツツー。コン、ツツーとモールス信号さながらのテンポ。ブツを引き上げかけては下ろして引きずり、また引き上げては下ろして……を繰り返していると見えた。

 音の主が、喜んでお近づきになりたい存在とは思えない。だが、向こうは少しずつこちらと距離を詰め出しているようだ。背中を向けかけて、またドレーン・バッグが眼に入る。

 相手のブツでこれほど響くんだ。今、キャスターのついたこいつを転がして音を立てたら、確実に気配を悟られてしまうだろう。

 祐也はスリッパを脱いだ。それらをドレーン・バッグの上に乗せつつ、台車とつながる柱の部分を思い切り持ち上げる。あの部屋で管を抜いていったような、後先を考えない奴の真似ははばかられた。自分はまだ治療をし続けねばいけない身だ。

 想像以上の重さによろめきかけ、どうにか踏ん張った時、あの曲がり角から人影が見えた。

 長身瘦躯。更にその手には長い光りもの。鉄パイプかと思ったが、先端が妙に大きく、横へも広がりが見られる。


 ――斧だ。


 認識した時には、祐也の頭からトイレのことなど吹き飛んでいた。一刻も早くこの場を去らなきゃいけない。相手に悟られちゃいけない。

 走り出した。裸足と持ち上げた台車の組み合わせは、スリッパでタイヤを転がすよりもずっと音を抑えてくれる。けれど、それも初めだけ。

 慣れない姿勢で急ぐものだから、ドレーン・バッグの表面に、ガンガンとひざやももをぶつけ、音を響かせてしまう。


「誰か、いるのか?」


 背中へ浴びせられる、低い男の声。もちろん答えるはずがなく、祐也はこの角を抜け出す。


 来た時と逆だ。左折して三つ目の角、そこも左折して、一番目の部屋。もうバッグに足をぶつけないよう、細心の注意を払いながら飛び込んだ。窓際のベッドの名前は、確かに自分のものになっている。


 ――やっぱり、あそこはトイレにつながるところだったじゃんか。


 一瞬、安堵したがまだ気は抜けない。あたかもここで寝続けているかのように、装わなくては。あんなところに、自分はいなかったという証明のために。


 あの斧の持ち手は存外、足がのろかったらしい。逃げる時も、背中から迫ってくるような音は聞こえなかった。でも、あの低く咎めるような声は、耳の裏で今も響き続けている。深呼吸しようにも、満足に息を吸うことができない。

 そのうえ、ここへきてあの甘ったるい匂いが、病室の中まで入り込んできたような気がする。ひょっとすると、自分が廊下から持ち込んできてしまったのかもしれない。

 我慢を重ねた尿意は引っ込んでしまった。理由は違えど、昨日のように眠れずにいた祐也が、あの「コン、ツツー」はもう聞こえてこない。代わりに、ガラガラとドレーン・バッグを押す音がし、自分の病室へ入ってくる気配。

 足音は途中で止まることなく、自分の向かいにある時任老人のベッドまで一直線。ぎしりときしむ音がして、その晩はもう、怪しい気配がすることはなかった。


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