第三話 二日目開始
その夜。祐也は、静枝はやはり先輩なのだと思い知ることになった。
下手に体重をかけて管をつぶしてはならないと、寝返り禁止令。昨日まで右半身を下にして寝るのが常だった祐也にとって、この時点ですでに軽い拷問。
そして痛い。静枝と話している時も、横になるまでの時間もさほど痛みを感じなかったのに、横になってからは思い出したように、肋骨の間が悲鳴をあげている。どう動いても、骨の内側で空気が踊り、それが管を動かして、触るべきでないところに触れ続ける……そんな心地がしてしまう。
年下の少女の言葉通りになるのが癪で、最初は耐えた。だが、痛みは治まるどころかひどくなる一途。寝返りを打たないようにと身体に力を入れているせいか、管が刻一刻と、身体の中へ潜り込んで来ているような錯覚さえ覚えてしまう。
――これ以上はまずい。寝られねえ。
枕もとのナースコールを押す。ほどなくスリッパの音がして、女性の看護師さんが顔をのぞかせる。痛むことを告げると痛み止めを持ってきてくれるとのこと。
「ただお薬を処方するのに、時間をいただきます。2時間くらい、待ってもらえますか?」
2時間!? と思わず聞き返しそうになる祐也。
――この痛みを、2時間。2時間……。
看護師さんが去った後の祐也は、もうただひたすら痛みと戦うことしか意識になかった。
翌日。6時には起きて検診を受ける。しかし祐也はその20分前にはもう目覚めていた。
痛み止めはすごい、と祐也は感じる。あの2時間を超えた後のロキソニンを飲むと、みるみる痛みが治まっていった。身体にえぐりこんでいた管の苦痛が、ちょっとした違和感程度しか残らない。
――そりゃ、痛い思いする人が欲しがるわけだわ。痛いってだけで、もうろくな判断ができねえもん。
測られるのは体温、血圧、脈拍。更に聴診器もあてられた。朝食を食べて、しばらくしたらレントゲン撮影だという。
そして、時任老人に関しては手術を行うことが決まった。今朝になっても、空気の漏れが止まらなかったのだ。内科の先生と呼吸器外科の先生とが話し合い、夕方にはおそらく、手術についての説明があるだろうと、時任老人は自分で語ってくれた。
今日の食事のトレイは、祐也が時任老人の分まで下げに行く。手術を控える以上、少しでも負担をかけたくはない。
「全身麻酔を使った手術、怖くないですか?」
戻り際に、祐也は尋ねてみる。悪い方向へ向かった時の自分は、同じものに立ち向かわなくてはいけない。
「手術そのものは、あっという間だ。わしの場合、酸素マスクをして点滴らしい針を刺され、ほどなくすると、目の前が真っ白になる。真っ暗じゃない、真っ白じゃぞ。
だが、手術が終わった後の夜。こいつがきつい。君も昨晩、かなり痛がったと思うが、あれが倍以上になって、しかも痛み止めを飲んだだけでは収まらない。
痛いからといって追加の痛み止めをせがんでも『飲み過ぎたら、かえって薬が効かなくなる』と言われてな。持ってきてくれる氷をしゃぶって夜を明かすのがやっとだ。内臓も疲れているでな、ぐびぐび飲める液体はくれない。カテーテルとかの管も、新たに身体から生えていて、もはや気分はスパゲティよ」
うへえ、と顔をしかめる祐也。自分も経過が良くなければ、あと4日で同じ目に遭う覚悟を決めなくてはいけなくなる。
時任老人は「少し休む」と、ベッドで横になってしまう。親が来るのは10時頃で、あと2時間以上の猶予があった。
親はご所望通り、祐也の台本。それに暇つぶしになればと、何冊かの本、あと現金を持ってきてくれた。ちょうどレントゲンを撮る時間にぶつかり、一緒に一階のレントゲン室へ向かう。
この病院では、撮影してから一時間足らずで写真を見せてくれる。昨日は真っ黒で気配がなかった右肺の部分に、白い広がりが確認できた。
「肺はしっかり膨らんでいるようですね。このまま様子を見ましょう」
親は安心した顔をするが、祐也もほっとする。手術が一歩遠のき、退院に一歩近づいた気がしたからだ。時任老人のいう体験、できれば味わわずに済ませたい。
ひとまず心配がないことが分かると、親はいったん家に帰るという。祐也としても、台本に集中したかったところだったから、それはそれでありがたい。
――午後4時に2階の中庭、て静枝は言ってたっけな。
外来の人たちでやや混みあっているエントランス内を見回す。すると、少し離れたところに、あの地下一階にあった木のモニュメントのものと思われる幹が、1階の天井を突き抜けていた。
病室へ戻った時、時任老人は起き上がっていて、文庫本の表紙を下敷きに書き物をしているところだった。祐也が向かいのベッドに腰掛けた時も、昼ご飯のトレイが運ばれてきた時も、黙々と綴っている。
邪魔をするのは悪いし、祐也も台本に目を通したかったところ。盛り付けられたかぼちゃサラダを口に運びつつ、書き込みを中心に頭の中で場面を思い描いていく。
祐也の役は悪役だ。それも虎の威を借る狐ならぬ、真の黒幕の威を借りた、当初の黒幕。主人公たちに打倒された瞬間、彼らに本当の使命を知らしめ、一時的に絶望へ追いやる。何とも演じがいのある、敵役を賜ることができた。
――すべてを把握しながら、あえて真の黒幕の手足となる。我を挟むな。黒幕の意図を己が意図として、周囲が勘違いするほどに没頭しないと……。
ぶつぶつセリフをつぶやきながら、合間合間で箸を口に運ぶが、やがてカツ、カツと皿にばかり当たるような音。ふっと顔を上げると、時任老人が立っていて思わず身を引きかける。
「食べ終わったなら、またトレイを持っていこうと思ったんだが」
祐也の他の皿には、まだ少しおかずが残っている。今朝、自分が負担をかけないように、と心がけたはずだったのに。
結局、時任老人が二人分のトレイを下げて、ベッドに戻ってくる。これから少しすると、時任老人にはCTスキャンが待っていて、その後に手術の説明が待っているだろう、とのことだった。
「手術前日は、消灯時間以後の飲み食いが禁止されるんじゃ。この歳じゃ今更という気もするが、食べ盛りにはこたえると思うぞ」
「嫌ですねえ、それ。さっさと退院して、みんなとこいつの練習をしたいですよ」
祐也はぺしぺしと、台本を指で叩く。
「君は午後も台本練習か? この時間、何もしないと手持ぶさた一直線じゃぞ」
「ええ、聞きました。他の患者の人から。なので台本を持って、中庭で練習しようかと」
「はて、この部屋にはわしら2人しかいないと思うが、誰かに会ったのかい? 暇になることは、今、初めて話したと思ったが」
「昨日の夜の散策で会ったんですよ。まだ小さい女の子で……」
ふと祐也は思いつく。彼女が最後に話していた怪談話。時任老人は知っているだろうか。
「時任さんは何度も気胸の手術を受けているとのことですが、全部、この病院でですか? そうだとしたら、何年くらい前に初めて手術しました?」
まずは軽く探りを入れる。
「そうさな、もう30年以上前の話になるか。わしは大人になってから、初めて気胸になったクチでな。手術も完全な開胸で臨むしかなかったんじゃよ。いずれもここで受け続けておる」
「その間で、何か大規模な工事とかありました? 内部の構造が変わってしまうくらいの大きなものとか……」
「知らんな。わしは工事関係者じゃあない。さすがにどこをどう変えたかははっきりとは分からんよ。そもそも、いち患者にする質問か? それは」
かすかに不機嫌な色が見え始める時任老人に、つい頭を下げてしまう祐也。台本なしの誘導尋問、苦手分野だ。
そのまま時任老人はベッドに戻ってしまい、先ほどと同じようにもくもくと書き物をし始める。そして言葉通り、14時ごろには迎えに来た看護師さんと一緒に、CTスキャンのために病室を出て行ってしまった。