第二話 先輩患者 横田静枝
祐也の病室は3階にある。ベッドは6つ置かれていたが、今は自分と時任老人の2人しかいない。
リノリウムの床の上を、スリッパと台車の音を響かせながら、祐也は歩く。これから何度もお世話になるだろうトイレの位置をはじめ、病院の間取りを頭へ入れていった。
その間も頭の中では演劇の自分のセリフを反芻している。まさか入院するとは思わず、台本は家に置きっぱなしだ。親も今日は帰りが遅いとのことで、自分が起きている間に来られそうにない。
――セリフは全員分頭に入っているんだが、書き込み部分がいまいちなんだよなあ。
読み合わせの段階から話し合ったことで、台本はすでに書き込みがあふれている。ぼちぼち通し稽古の数も増えるという、この大事な時期。できるなら完璧に頭に叩き込んでおきたかった。
キャストにとって大切なことは、セリフを覚えるのもさることながら、役作りだ。祐也はそう心がけていた。
ひとまずエレベーターに向かう祐也。さすがにこの台車を持って、階段を下りるのは無理だ。よしんば上手くいったとしても、看護師さんに見つかったら止められるだろう。
時間は19時。ほとんどの院内施設は閉まっている時間。利用できるのは地下の休憩スペースか、2階に入っているコンビニエンスストアくらい。財布は自分の荷物の中で、今は持ち合わせがない。
ひとまずB1Fのボタンを押すと、戸はすぐに開く。溝にキャスターを挟まないように乗り込んだところで、背後からガシャガシャと機械らしきものを鳴らす音。
「待って待って~」
迷惑にならない程度に抑えたその声は、少女のもの。振り返ると、中学生になるかならないかという年ごろの女の子が、祐也と同じ、ドレーン・バックのくっついた台車を引きずりながら、小走りで駆けてくるところだった。
開ボタンを押しっぱなしにして、彼女を待ってやる。息せき切って乗り込んでくる彼女は、今度は「早く早く」と閉めることを急かしてきた。
まるっきり電車に乗る時と同じ。駆け込む時には「もっと待て」と思うのに、いざ乗り込むや「とっとと出ろ」と思い出す、あの心理だ。祐也は閉ボタンを押す。彼女が手を伸ばしてこないところを見ると、行先は同じ階か。
「……お兄さん、初めて見る人だよね。最近、入ってきたの?」
エレベーターで降りていく間、しげしげと祐也を見つめながら尋ねてくる少女。歳は12,13才といったところか。ショートカットの黒髪に、祐也とおそろいではあるが、サイズの小さい患者着を着ている。そしてそのたもとからは、やはりバックとつながった管が伸びていた。
「ああ。今日に診察を受けて、そのまま手術。病室で夕飯を食べて、ことここに至るというわけさ」
「ふ~ん。じゃあ、あたしの方が先輩だね。病院の先輩!」
「病院の先輩? それって名誉なこととは違うような……」
退院する人に、過去のバイト経験から、うっかり「またのお越しをお待ちしてま~す」などと送り出すような、無礼さを感じる。
「細かいことは気にしな~い! あっ、着いた着いた。行こっ。お兄さんも休憩室じゃない?」
ぐいぐい引っ張られるまま、休憩室へ入る祐也。数十席はあるこのスペースも今の時間帯は彼ら二人しかいないらしい。紙コップ式の自販機が並んでいるが、持ち合わせがないので隣にある給水スペースから水を取ってきて、向かい合った二人席に座る。
「あたし、横田静枝! 名字で呼ばれること少ないから、名前で呼んで。お兄さんは?」
「緒方祐也。駅近くの光洋高校って分かる? あそこの生徒」
「へーっ。とはいっても名前くらいしか知らないけどね。気胸の入院って初めて?」
「ああ。生まれてこの方、まだ一度もない」
「そっかそっか。ぐふふ、管を入れた晩はちょっときついかもね~。辛かったら、遠慮なく看護師さん呼んだ方がいいよ」
ちらりと祐也のドレーン・バッグを見やる静枝。祐也もそれにならうと、人体に一番近い目盛りの底に赤いものがほんのり溜まっている。血などの排液を溜めるところとのことで、どうやら祐也の身体はこの異物を、いたく「歓迎」してくれているようだ。
「あたしの方はもう何日も経つけど、まだブラがあるから様子見だって」
「ブラ……?」と祐也は静枝の細くて小柄な体型をじろじろと見る。きょとんとしている彼女を前に、おもむろに口を開いた。
「ことによると、君にはまだ要らないんじゃないかと思うが」
「は? 何のこと? ブラって肺の壁が薄くなって、風船のように膨らんじゃった箇所のことだよ。ここが破裂して空気が漏れるから気胸になるって。聞いてないの?」
「ああ、知ってる知ってる。プラかと聞き間違えたの、プラ。プラモデルのプラ。女子で持っている人少ないでしょ、プラ」
「ふ~ん?」と静枝は何やら、いぶかしげな目つき。
正直、演劇のことでいっぱいだったから、詳しいところまではお医者さんの話を聞いていなかった。まさかこんな際どい言葉が存在するとは、医療の世界には油断も隙もあったものじゃない。
「なんか怪しいんだよね。本当にお医者さんから聞いた話、覚えてる? なんなら先輩として、気胸とこの病院について色々教えてあげよっか?」
「うっす、先輩。よろしくっす」
どこに少女の地雷があるか分からない。ひとまず乗せておいてやる。
「よろしい、後輩。まず気胸についてね。気胸はやせていて背が高い、男の人がなりやすい病気です。原因はよくわかっておらず、自然になってしまうから『自然気胸』とも呼ばれます。かかる人の特徴から『イケメン病』という名前がついていますが……」
静枝は言葉を切って、祐也をじろじろ見る。
「祐也のお兄さんは、例外のようですね」
「ははは……静枝くぅ~ん? それはいったいどういう意味ですかねぇ~?」
「祐也のお兄さんが、ちょーイケメンだってことですよ」
あはは、と能天気に笑い飛ばす静枝。先ほどの意趣返しなのは、ほぼ間違いないだろう。
それから一時間ほど、祐也は静枝と話し込んだ。静江は先輩風を吹かせられるのが心地いいらしく、聞かれたこと、聞かれないこともたくさん話してくれる。
「それでね、入院中ってすっごく暇なんだよ。特に午後。看護師さんの検診以外だと夕飯まで時間ができちゃうの」
教える側の静枝は丁寧語が疲れるらしく、ほどなく先ほどまでの口調に戻ってしまっている。
「まあ、空き時間があるなら好都合だ。演劇の練習ができる」
「あっ、さっき話してくれた部活のこと?」
静枝はにわかに顔を輝かせる。演劇の世界を知らなかったらしく、自分ではない誰かになりきる、というキャストの醍醐味を聞かせた時の、食いつきっぷりといったらなかった。
「ねえねえ、良かったら手伝ってもいい? そろそろ本読むのにも飽きてきちゃったんだ。明日の空き時間とか使ってさ」
「そいつはありがたい話だが、大丈夫なのか? ご両親とかお見舞いにこない?」
「平気平気。でも多分、検診があるから……16時に2階の中庭とか、どう?」
静枝が壁に架けられた院内の地図を指さす。位置的にはこの休憩室から真上に2フロア。この休憩室の中央には樹木のモニュメントが一本あるが、それがここの天井と一階を突き抜けて、そこまでつながっているらしい。
そうこうしているうちに、時計は午後8時半を回った。二人はエレベーターに乗り込んで、元の通りの3階へ。
「そうそう、祐也のお兄さん。入院するなら、注意しておきたいことがあるの。この病院の間取り、しっかり覚えた?」
先ほどまで底抜けに明るかった彼女の声が、一気に張り詰めたものになる。
「ん? まだちらっとだけどね。どうして?」
「この病院ね。時々、道が変わるような気がするんだ。ないはずの通路が、突然現れる。そんなことが」
神妙な面持ちを崩さない静枝。このくらいの歳の女の子なら、怪談話も好きかもしれない。
「スタッフ専用通路に迷い込んだとかじゃないか? 緊急時にはそこを使うことがあるって聞くし」
「ならいいんだけどね。けれど一向に無くならないんだ、この話。だから、いざという時に迷わないよう、覚えておいた方がいいよ」