最終話 開幕
「おい、急げ! 適合者と根のすり合わせ。まだ足りないぞ」
――静枝、もうちょっとの辛抱だからな。
「聞こえますか、祐也さん。苦しくないですか? 手、足、動かせますか?」
――ああ、気分がいいくらいだ。どうだ、これで満足か?
「待ちかねたよ、祐也。さあ、詰めの通し稽古と行こうか」
――ここまで来て、とちるなよ。部長、みんな。
「祐也のお兄さん、頑張って!」
――ああ、もうじきだ。席に座って待っていろって。
はっと祐也が気がつくと、自分は舞台袖からオフィーリアとなった部長のセリフを聞いているところだった。
自分の姿を見やる。衣装係が仕立ててくれた、漆黒のマントに身を包むプライド侯爵。その出番はもう、十数秒ほど先で待っている。
「皆! いざ、歓喜の歌を歌わん!」
小道具のサーベルを高々と掲げる部長。それに続く歓声が、兵士役の一同からあがる。
暗転。部長たちが下がると、裏方が速やかに場面を整えていく。数秒後に、舞台はプライド侯爵の一室へと、変わっていた。
祐也はソファへ向かい、腰掛けるとグラスを取る。前より少し暗さに弱くなってしまったが、問題なくグラスを持ち上げた。
照明がつく。上からのライトが焦げ付くように熱い。音響係が鳴らす、雷の音。それらが終わるのを待って、祐也はセリフを紡ぎ始める。
声に出すと、ひときわ強く感じた。自分の息は今、猛烈に甘ったるい。吐き出したものも、吸い込むものも、ときどき、気化したコンデンスミルクが直に喉奥へ注ぎ込まれるような、強烈な甘味。何を食べても、この甘さが邪魔をして、数日間はろくにものを食べられなかった。
「――こう、我がきれいに飲み干すまでのこと」
グラスを傾ける。中身が入っていないにも関わらず、流れ込む息だけで何べんでも腹を膨らませられそうだ。これまでで最高に大きく、喉を鳴らすことができた。
立ち上がる。本来なら座ったまま窓を見るシーンだが、数日前の練習で話し合い、演出を変えさせてもらった。
ホールの中へ集まった客たちの姿を、不自然にならない程度にぐるりと見回す。
静枝はいた。舞台を正面に臨む、良い席だ。そばには私服姿の看護師さんが付き添っており、彼女自身もマスクをつけていたが、祐也と目が合うと、そっとマスクを外した。
その顔には、苦しそうな色はみじんもなく、代わりに満面の笑みが浮かんでいる。
自分はこれからも生き続けなくてはいけない。彼女が生きていくため、そのための空気を紡ぎ、世界中を覆っていかなくてはいけない。
祐也は万歳するように大きく手を広げる。あの時、中庭で煙に巻かれた医師と看護師がしていたように。
「――さあ、新しい世界の幕を開こう」