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第一話 突然の通告

「単刀直入に言います。今すぐ、入院なさってください」


 ――は? 入院?


「レントゲンの検査の結果、右の肺が虚脱。肺から漏れた空気によって潰れている状態です。気胸と呼ばれています」


 ――何を言っているんだ? ちょっと肩甲骨の裏側が痛くって、発声練習で息が少し続かなくなっただけだぞ? それをおおげさな……。


「本日中に局所麻酔を用いた手術を行います。溜まった空気を早く出さないと……」


 ――演劇部の発表会は、もう二週間足らずのところまで来ているんだぞ? 入院だなんて。


「管を差し込んで、そこから空気が抜けるようにします。それで空気が肺から漏れ無くなればよし。でも、もしも空気の漏れが無くならないようなら、全身麻酔の手術を行うことに……」


 ――この上、まだ手術をする恐れがあんの? そんなんじゃ本番に間に合わねえじゃん。手術なんか、受けねえよ!



「食事の皿、下げてもいいかい?」


 うとうとと、夢を見ていたところに声を掛けられて、緒方祐也おがたゆうやは、はっとした。

 ベッド横のトレイに置かれているのは、つい先ほどまで食べていた病院食の皿が乗っている。そして今、ベッドの足元に引かれたカーテンから顔をのぞかせるのは、向かいのベッドを使っている患者さんのもの。

 ほとんど禿げ上がった頭と、顔のところどころに浮かんだシミ。眉と短いあごひげにも、白いものがかなり混じっている。祐也が見たところ、すでに還暦を迎えているのではないかというこの老人は、時任ときとうといった。


「大丈夫です。自分で行けます」


 答えかけて、祐也は右のわきの下が痛むのを感じた。顔をしかめながら、改めて痛みの箇所を見る。

 痛むのは当然だった。わきの下をたどっていくと、肋骨と肋骨の間に一本の管が伸び、ベッドそばの箱につながれているのだ。巨大な弁当箱を立てたようなその装置は、目盛りが数種類ついており、色のついた水が入っているものも、それに含まれている。

 看護師さんの話では、この装置を「チェスト・ドレーン・バック」と呼ぶらしい。管を通じて、胸の中に溜まった空気を吸い出しているのだという。これをつけたまま数日間、入院生活を行い、肺が膨らんで穴が塞がれば、退院できるとのこと。

 祐也は試しに、大きく深呼吸をしてみる。いくつもある目盛りのひとつに入っている液体が、「ポコポコ」と泡立った。

 これは肺からの空気が管を通じて、ここに注がれている証拠。これが収まらない限り、肺に穴が開いている状態であるため、治療を続けなくてはいけない。


 ――参ったなあ。まじで。せっかくキャストに選ばれたってのに……。


 祐也は学校で演劇部に入っていた。年に数回ある発表会では、台本の決定と共に、部員間で役を決めるためのオーディションが行われる。実力主義を謳う祐也の演劇部では、学年を問わずに演技力が重要視されるのだ。

 祐也は入部当初からキャストを希望していたが、周囲にかなわず、この一年を裏方に甘んじてきた経験があった。それを高校2年の秋という、一番部活に打ち込めるであろう時期に、ようやくもぎ取った役なのだ。ここまで毎日欠かさず、セリフ練習と役作りを行ってきた。


 それがこのザマ。発声練習で息が切れ、肩甲骨の裏側が頻繁に痛む。その状態を訴えたところ、心配性な友達に促され、しぶしぶ病院に行った結果、半日後にはこうしてベッドで横たわる羽目になっていた。

 こんなことなら、ずっと黙っていて病院に行かず、発表を迎えた方が良かったんじゃないか、ともちらりと思う。だが診察してくれた医師曰く、祐也は重度の肺気胸とのこと。

 レントゲンを撮った時点ですっかり右肺は潰れていて、このままだと漏れ出した空気が心臓さえも圧迫し、死に至る恐れがあると説明されていたのだ。下手をすれば我慢をしたために、発表会前で望みを果たさず、この世とおさらばしていた可能性だって……。


 発表会までもう2週間もない。もし、この数日で肺の穴が塞がり、元通りの状態になれたのなら、まだ間に合う。だが、塞がらない場合は……。

 祐也は医師に食い下がり、何としても発表会に出たいことを強調する。話し合いの結果、本来ならば穴が塞がるかどうか、10日前後様子を見てから手術に踏み切るのを5日間に短縮してもらった。

 6日目の朝の時点でまだ空気が漏れるようならば、手術の準備に取り掛かる。そうすれば本番にはぎりぎり間に合う、と。

 その手術が全身麻酔と聞き、祐也はあまりいい顔をしない。いくら若い肉体とはいえダメージがあるだろうし、何のためにこのじくじく痛む管を差し込んだんだ、という気持ちにもなる。


 手術の可能性を下げるなら、安静にしておいた方がいいかもしれないが、祐也の頭の中の選択肢に、それはない。キャストに選ばれてより、ずっと練習を続けてきた。一日、何もしないとなると、感触を忘れてしまいそうな気がする。

 幸いなことに、このチェスト・ドレーン・バックは、点滴を刺す時とほぼ同じ形状の、キャスターがついた台車に乗せられていた。これを押しながらであれば移動することが許されている。先ほどトレイを持って行ってくれた、時任老人も同じだ。

 時任老人も気胸だという。人工的に圧をかけている段階で、必要最低限の動きのみ行い、後はベッドで安静にしていることが求められるらしい。そして明日の朝、空気の漏れが確認できたら手術をしなくてはいけないとのこと。そのことに不安はないか尋ねてみたが、すでに若い頃から同じ経験をしてきて、恒例行事のように受け取っていると返された。

 気胸は再発の可能性の高い病気。自然に塞がった場合だと4割前後の人が、時間を置いて再び肺に穴が空いてしまうらしい。これは手術によって大幅に再発確率を下げられるが皆無とはいかず、運が悪いと不定期で肺が破れ続けてしまう。


「もう慣れちまったよ。慣れたくなんかない代物だったがな。あんたも、肺に穴が空いちまったこの時の感覚、よく覚えとけよ。この先、こいつが来たのなら、空気が漏れ出す秒読みだ」


 時任老人はベッドに横になると、目を閉じてしまう。時間は19時になろうかというところ。消灯は21時だから、まだ2時間ほど猶予があった。


 ――体を動かすついでに、院内を探検してみるか。


 管の入った体の右側に、重さが掛からないよう、そろりそろりとベッドから這い出す祐也。用意されたスリッパを履くと、ドレーン・バックのついた台車を押しながら、そうっと歩き出す。ちょっとした拍子に、また管を刺した部分がチクチクと痛んだ。


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