1 女子中学生と老紳士と
「わっ!」
春。朝の駅前。高架線の下。
慌てて走っていたら、足を滑らせた。
少女のショートボブが跳ねる。
桜の花びらが一枚、風に舞う。
(ひえー、ローファーは滑りやすい!)
(スニーカーにしとけば)
(でも、制服には合わないってママが)
少女シュレナの脳裏に色々と浮かぶが、それどころではない。
頭を打たないように手を伸ばすと、
「おおう?」
今度は、すぐ左を歩いていた男が低音の悲鳴を上げる。
シュレナがとっさに左手を伸ばし、その男の右腕をつかんだからだ。
男は、ただの通りすがりである。
ドスン!
アスファルトへ尻もちを突く。頭は無事だ。
バサバサッ!
シュレナが転んだ場所には、たたんだ段ボールが数枚、道端に立てかけられていた。それらが一斉に倒れ、シュレナの両脚を覆う。
シュレナは、歩道にぺたんと座り込み、両膝は曲げ、腰から下は段ボールに隠された状態に。
「ごっ、ごめんなさい……」
シュレナは、小さな丸めがね越しに、男を見上げて謝る。左手は、未だに男のコートの右腕をつかんだままだ。
転んだシュレナとタイミングを合わせ、男もしゃがんでくれたため、手が離れずに済んだわけである。
「大丈夫ですか?」
白髪頭の男は、困惑顔で、心配そうにシュレナの顔をのぞき込んでくる。
年齢としては、初老という感じだ。自分の父親よりは明らかに年上。校長先生と同世代くらいか。
長身で、薄手のグレーコートを羽織っている。その中は、ラフなスーツ風。
広いひたいと、大きな目。ひげはない。
「はい、だ、大丈夫、ですっ」
「立てますか?」
「はい、多分……」
男の問いかけに答えながら、
(中学生の女の子に敬語で話すなんて、変わった人だなあ)
シュレナには、そんな思いもよぎる。
もしかしたら、高校生と思われているかもしれない。だが、それ以上の年齢には見えていないはず。ブレザーの制服姿だから。
いずれにせよ、祖父と孫娘ほどの年の差である。
(何だか、人がよさそうなおじいさんだな)
心の中でつぶやきながら、シュレナは男のコートから手を放す。
男はシュレナを見守ったまま、ゆっくり立ち上がった。
続いてシュレナも、
「んっ」
と、両脚に力を入れて、立ち上がろうとした。
すると、初老の男は、なぜか気まずそうに横を向く。
その意味をすぐ察したシュレナは、
「大丈夫ですよ。下、ズボンなんで」
「えっ、そうなの?」
男がこちらを向き直る。初めて、敬語が消えていた。
男を見上げたままシュレナはうなずき、
「ええ。ほら」
と、両方の膝を左右へバッと開き、段ボールをはねのける。
シュレナの下半身を覆っていた段ボールが、はじけるように周囲へバサバサと散らばって倒れた。その下があらわになる。
果たして、シュレナが履いていたのは、確かに長ズボンであった。足首までしっかりと布で包まれている。上着と同じ紺色。
老人は、シュレナがスカート姿だと思い込み、立ち上がる時に中を見られたら恥ずかしかろうと、今、目をそらしてくれたわけである。
要らぬ心配ではあったが、シュレナも、その気遣い自体はうれしかった。
老人は、何かを思い出したように目を細めて、
「そういえば、新聞で読んだなあ。
防犯とかジェンダーとかに配慮して、女子もズボンの制服を選べる学校があるって」
「そうです、それです。
動きやすいし、一回履いちゃうと快適で、ちょっと、」
男のソフトな物腰につられてか、シュレナも親しげに答えかけた。
が、転んだショックも残っており、声が詰まる。
それを悟ってくれたように、男が言葉を継いだため、会話が続いていく。
「スカートには戻れない?」
「そう、そう。そうなんですよ」
シュレナがコクコクうなずくと、
「分かる気がしますよ」
男も優しくほほえむ。
「まあ、クラスではまだ、少数派なんですけどね」
と、ここでシュレナは立ち上がり、ズボンの後ろを両手でパンパンと払う。
幸い、どこも痛くない。
「ズボン女子が?」
「そうです」
シュレナは答えつつ、息をフッと吹いて小さく笑う。ズボン女子、というコメントが、いかにも、
(年配のおじいさんが、女の子を和ませようとして頑張ってる発言だなあ)
と感じたからだ。悪い気はしなかったけれど。
シュレナは老人を見上げ、
「変ですかね、ズボンの制服?」
「全くそんなことはないですよ」
「私もそう思う。似合ってるよ」
それを聞いたシュレナは、一瞬、驚きで全身が氷のように硬直した。
今の「似合ってるよ」は、男の背後から聞こえてきた声だったためである。
(えっ?
い、いつからそこにいたの?)
シュレナは、向き合った男の、右斜め後方を見やる。
初老の男は、シュレナの動揺を不思議がり、
「どうしました?」
シュレナは、今思ったことをそのまま口走る。
「いっ、いつからそこに?」
男は、シュレナの目線がそれた先を追うようにして、左後ろを振り返って、
「あっ、この子のことか」
と笑い、けげんそうに、
「今、気付いたのか。意外。最初から、俺のそばにいましたよ。
なあ?」
「うん。さっきからずっと、ここに立ってたよ」
男に問われ、その者はうなずいた。
今、老人が「この子」と呼んだ「その者」は、男の背後にたたずんでいた。
長い黒髪の女性である。
何と、長身の老人よりも、この女性は更に数センチほど背が高い。
まるでモデルのようである。
実際、目鼻立ちは整っていた。
二つの大きな瞳が、じっとシュレナを見てくる。
瞳の色は左右で異なっていた。
左目、緑。右目、青。
いわゆるオッドアイである。