花火
いつもはランニングをする人もほとんど見ないような道が、今日だけは人であふれかえる。
ゆっくりと揺れる人影たちは、等間隔に置かれたオレンジの街灯と、屋台の強い光に照らされている。人々の輪郭は光に包まれたように輝いているのに、顔や体は暗闇に塗りつぶされている。
ぶつからないように体を何度も捻りながら人波を流れていく。屋台の食べ物をねだる子供の声や、友人とふざけ大げさな反応をする声、花火を見る場所を相談する家族の声が切れ切れに聞こえる。
揚げ物と発電機の燃料と綿菓子の香りが絡み合う。もう少し歩けば金魚すくいがあるらしい。
自分もどこで花火を見物しようかとあたりを見渡す。一番花火に近い土手はブルーシートや折り畳みの椅子に占拠され足の踏み場もない。
土手とは反対の、斜面を降りた道路の縁石はぽつりぽつりと空いていた。そこに座ろうかと歩み始めた時、
ぽんぽん
と空に破裂音が響き、喜びとも悲鳴ともとれるような
「ああ」
という声がどこからも聞こえた。
花火が始まるのだ。にわかに騒めきはうねりをもって大きくなる。私も歩みを早めて縁石に腰を下ろす。汚れているかもしれないが、多少のことは気にならなかった。
まだ何もない夜空を見た。
大きな満月が、花火に不釣り合いなほど空を照らしている。薄雲が月の前を横切っていた。
ふいに、ぽしゅっ、という少し気の抜けた音がして小さな火花が夜空に直線を描いた。
次の瞬間、三つの火花が夜空を登り始めた。三色の大きな火花は思い思いの方向へ上がっていく。
その光の行方を最後まで追っていると、いくつもの爆音が響いて大きな光の花が咲き始める。
中心からはじけた光は思い思いの色をつけ、夜空を彩り始める。雫のような炎が黄色に染まり、飛んでいく。そして中心は朱に染まり生ものの花に勝る美しさをひと時だけ見せる。一つ一つの火花に色がついているのを見ると、無性に嬉しくなってしまう。
花火の音が少し胸に響いて、あたりの喧騒を消していくのが分かった。今の世界にある音は花火の弾ける音だけだった。
普段より少し上げた目線には、花火と、花火を指す指と、夜空と月しかなかった。
爆音と光は止むことなくこの夜を支配し続ける。誰かのあげる掛け声もかき消して、夜空を数秒自分だけのものにする。
時折混じる火花の中から別に生まれた火花がしゅるしゅると動くのをみると少し可笑しな気持ちになる。
弾けた花火が消える間もなく次々と花火が打ち上げられ空に広がっていく。柳のように焔を垂らす花火も打ちあがり始める。光が瞬いているのを眺めるのは気持ちがよかった。
一瞬だけ、人生という文字が心に浮かぶが花火が消えるよりも早くその文字は消えた。
輪のように広がる花火や、土星のような花火が上がる時間は終わり、花火の打ち上がる間隔がだんだんと詰まっていく。三つも四つも花火が重なって花束のようにすら見え始めた。
いくつも上がる花火の音で胸の中から何かがせりあがって来そうになる。
だがその何かを吐き出すよりも早く、光は闇を染め上げて、音は胸を打っていく。最初の頃は打ち上れば溜息の出るような大きな花火が惜しげもなく空に何度も広がり消えていく。さらに速度を上げ空の半分を常に花火が占めるほどになる。
爆音が連鎖するように響き、火花は散らばりすぎて花ではないように見えるほど広がった頃、唐突に花火は終わりを迎えた。
急に止んでしまった花火に肩透かしを食らったようだったが余韻が心を占めていて、不満に思うことはなかった。
満足感を抱きながら立ち上がり、何もなくなってしまった夜空を見上げた。ただ呼吸をしたつもりが溜息になった。
次の瞬間、今までとは比べ物にならないくらいの轟音と閃光が夜空を占める。目は眩みそうになり、耳は抑えたくなるほどの強烈さだった。数えきれない数の花火が同時に咲き乱れ、空には光しかないほどだった。最後に今までで一番大きな柳が三つ続けて打ち上げられ、花火は終わった。
一度終わったと思っていた私は騙されたような気持になる。だがそれ以上にあの花火たちに圧倒されとてもものを考えられる心ではなかった。
知らぬ間に笑顔になっていた。私は必死に顔がほころぶのを抑え、家路に急ぐ人ごみの中に紛れて行った。