あの景色とカヤ、夜空の下で
それから数日、私はカヤといろいろな話をした。現代の科学、医療技術や政治のこと、最近流行っていること、私の学校生活、私の家族の話、カヤの覚えている思い出の話。
色々な話を聞いても、カヤの記憶は曖昧なものが多く、会話から「あの景色」に関するものも得ることができなかった。
私は、生まれも育ちもこの土地で過ごしたお婆ちゃんになにか知ることがないか聞いてみようと思う。
昼下がり、お婆ちゃんは縁側で風鈴の音を聞きながら、野良猫が庭で毛づくろいをしている姿を眺めていた。隣に座り、声をかける。
御年九十歳を迎えたお婆ちゃんは、年の割に腰もまっすぐで、足も強い。しゃべるのが趣味といってもおかしくないほど、よく喋る人間でよく笑う人だ。
「コトちゃん、どうしたね」
「黄色い花がたくさん咲いているところって知らない? 月がきれいに見えるらしいんだけど」
お婆ちゃんは、目を閉じるとうーんと唸った。小じわとしみの少ない肌は年齢より若く見え、目尻に深く刻まれた皺は、どれだけお婆ちゃんが笑ってきた人間かということが読み取れる。
乾燥した唇を固く結び、眉間にシワを寄せた。
風に揺られて、風鈴が涼しげな音を鳴らす。庭で毛づくろいをしていた黒の野良猫は、軽やかな足取りでブロック塀に飛び乗り、トトトと足音も立てずどこかに歩いていった。
蒸し暑さに汗を額ににじませ、全身の毛穴が開いて汗が吹き出ても、涼しい風が拭き取っていく。
お婆ちゃんは、目を閉じたまま船を漕ぎ始めた。
もしかして、寝てる……?
「お婆ちゃん?」
お婆ちゃんの肩を優しく揺すると、お婆ちゃんは瞼を開け、「あら、寝てたよ。ごめんねえ」と謝った。
「思い当たる場所はあった?」
「それが、思いつかないんじゃ。だだっ広いところはいくらでもあるんだけど、花畑のようなところはないねえ。黄色い花なら道端に咲いてるけど、集まって咲いてるようなところはわたしゃ知らん。ホノカに聞いてみなね。ホノカは、よく外で遊んでいる子だったからなにか知っているかもしれん」
「わかった、お婆ちゃんありがとう」
ホノカとは私のお母さんである。
腰を上げて、台所まで行き、お皿を洗っていたお母さんに話しかけた。お婆ちゃんに似て、優しげな目が私をちらりと見る。
「手伝いに来たの? じゃあ、お皿拭いてね」
「いや、ちがう。聞きたいことがあって」
「お皿、拭いてね」
「はい」
食器を拭く専用のタオルを棚から取り出して、洗い終えたお皿を手にとった。水滴を拭き取ると、タオルが水分を吸って濡れる。
お皿を拭きながらお母さんに聞いた。
「お母さん、黄色い花がたくさん咲く場所知らない? 月がよく見える所らしいんだけど」
お母さんはスポンジでお皿や箸を丁寧に洗いながら、「知らないわよそんな所」と即答した。
「そんな事言わず、記憶を探ってみて」
「はいはい」
お母さんは無言でお皿を洗い続け、私は無言でお皿を拭き続けた。
お皿を洗い終わって、蛇口をひねるとともに、お母さんは「あ」と声を漏らした。
「一箇所、思い当たるところがある」
濡れた手を、タオルハンガーに掛けられたタオルで拭くと、台所から出ていき、そのままどこかに消えた。最後のお皿を拭き、私は座敷で夏休み課題を片付けることにした。
畳が敷き詰められ、部屋の中央には大きな座卓が置かれている。コップに氷を入れて、お手製の麦茶を入れると、それを机において、問題集を広げた。
次の式を解け、と上から目線の文に苛立ちを覚えるも、シャーペンを握って、問題を倒していく。まだ、簡単だ。
しかし、その余裕もどこへやら。
十問を解き終わり、基本から応用問題に差し掛かった途端、私の手が止まった。
雑魚敵を舐めていたら、ボスが予想外に強かったときのようにたじろいだ。どうやってこの敵を倒そう。
攻略サイトを開くように、教科書を開いて、似たような問題がないか探す。
「あった」
似たような問題を見つけて、私はページ数と問題の番号を覚えて、教科書の後ろの方を開けた。教科書の後ろの方は、練習問題の答えや解き方が載っている。それを知らない人もたまにいるが、私は知っている。
私は、解き方を見て、さっきの問題に取り掛かった。
同じように、数字を当てはめて解くとうまく答えが出た。
敵をやっつけて、経験値と言うなの知識を得る。
私は、そこまで真面目な人間なわけでもなく、私は問題を解くのに飽きて、問題集の答えを写した。全問正解だと怪しまれるから、時々違う数字を書いて不正解を産む。ずる賢い方法を駆使して、課題を片付けていくのだ。夏休み課題を解く際の醍醐味。
すっかり氷が溶けてしまって、水滴のついたコップを手に取り、胃に冷えた麦茶を流し込んだ。
一旦休憩。
「ミコトー、これみてー!」
どこかに消えていたお母さんの声が廊下から聞こえて、襖が開いた。手には丸められた紙を持っている。
テーブルに紙を広げると、それはこの辺りの地図だった。
「ここ、ここみてここ!」
お母さんの指の先を見る。
近くに川が流れ、広葉樹の地図記号が散らばる中、一箇所だけ円を描くように空いているところがあった。そこにはなにもかかれていない。
「お母さん昔、このへんまで遊びに行ったことあるんだけど、このへんは特に月がきれいに見えたのよ」
家からは少し遠く、自転車で行っても問題はなさそうだ。舗装された道路を通ることができるかはわからないが……。
私はこの場所を頭に叩き込んだ。
カヤと今日の夜、一緒に行ってみよう。
その日の夜までの時間が長く感じた。
日付けが変わる頃、家を出て、通学用に使っている自転車に乗り神社まで行った。今日は特に月が大きく見え、空も澄み渡っていて星が綺麗に見える。
今日も鳥居のところにカヤはいた。
「カヤ!」
「ミコト、あれ、今日は自転車なのね」
「ついてきて、あの景色をもう一度見れるかも知れない!」
カヤの表情がぱあっと明るくなり、私の傍まで飛んできた。
自転車をこいで、頭に叩き込んだ地図を頼りに道を進んでいく。そこは神社からそれほど遠くないが、人の通りは一切ないに等しく、道も舗装されていなかった。暗闇の中ガタガタの道を歩くのは危ない。そう思って、私は自転車を降りた。ライトはつけっぱなしで、自転車を押して歩く。
カヤにあの場所が見つかったかも知れないという経緯を話すと、喜んでくれた。
それからカヤは、自分の記憶を一つ思い出した、と自分の話をしてくれた。
「カヤって名前、漢字ついてたんだ。どんな漢字だと思う?」
蚊帳? なわけないか。
カヤはいたずらっぽく笑い、私の答えを待つ。
いろいろな漢字を組み合わせて、カヤに合いそうなのを探したが、ピンとくるものはなかった。
「わからない、おしえて」
「カヤは、夏と夜って書いて、夏夜って言うのよ」
「今の季節にピッタリだねー」
「ふふふ、そうでしょう」
夏の夜と書いて、カヤか。いい名前だ。
しばらく歩いて、森の前に来た。地図の通り、広葉樹が生え、雑草は伸びて、獣道すらない。夜ということもあり、怪しさは昼間の何倍もあるだろう。
月明かりが、木々の隙間に注ぐが、地面なんて見えるわけもない。
自転車を止めて、中に足を踏み入れた。
「この奥だよ」
伸び切った草を避けながら、道なき道を進んでいく。足元に注意をはらいながら、ゆっくりと慎重に歩いていった。
「木の根っことか気をつけてね」
「ありがとう」
カヤは宙に浮いて、私より少し前を歩いて、ナビゲートしてくれた。
歩いて、歩いて、歩いて。
視界の先が、開けてきた。
木々の隙間から出ると、そこには、何もない円を描くような空間が広がっていた。邪魔をするものがない月明かりは余すことなく、その空間を照らしていた。
雑草は生えているけど、花は咲いてない。
ここじゃなかったのだろうか。
力ない足取りで、空間の中央に立って、空を見上げた。
まあるい大きな月が私達を見守っている。月は母のように優しく地球を照らして、人類を見守る。
「カヤ、綺麗な月だね」
「そうね、これを見れただけでも嬉しいわ」
カヤは私の隣に立って、同じように月を眺めていた。青白い月が私達を見ている。私達も月を見ている。
月の大きさや優しい輝きに私は魅了され、その場に立ち尽くした。
そんな中、カヤは感嘆して、小声で囁く。
「わたしが見た景色だわ。わたしの見たかった景色だわ」
カヤの声に我を取り戻し、顔を下げた。
その景色を見て、思わず、息を呑む。
花だ。
黄色にぼんやりと光る花が数え切れないほど咲いている。花は大きくなったり小さくなったりして、存在を証明していた。
「カヤ、これって……」
カヤが、コクリと頷く。
「蛍よ、花だと記憶していたものは蛍だったのよ」
多くの蛍がお尻を光らせて、通り道を咲き描く。
私は今まで、この田舎で生きてきて、蛍ももちろん見たことはあった。けれど、ここまで多くの蛍が飛ぶ姿は初めて。月明かりの下、たくさんの蛍が輝き、花畑のように花という光りを咲かせるのだ。
こんな景色が見られるなんて……。
カヤは、泣いていた。
静かに涙を流して、蛍が飛んでいる様子を見つめていた。
あれ……カヤの体。
「カヤ、体が……」
カヤは涙を流したまま、自分の体を見た。だんだんと、透けていって、つま先なんてもう消えてしまっている。
一瞬驚いて、あとは察したように、困った顔で微笑んだ。
下がった眉に、涙する笑顔。
「ミコト、わたし、この景色を見られてよかったわ。それでね、わたし、もうすぐでこの世からいなくなっちゃうみたいなの」
私は言葉を失った。
私だって、この景色を見られてよかった。
カヤがいなかったらきっと、この景色を見ることなんて一生なかった。
私は、また明日もカヤと話せるものだと思っていた。明日だけじゃない、明後日も、一週間後、一ヶ月後、一年後。ずっとカヤはこの世にいるものだと思っていた。
そのカヤが、いなくなろうとしている。
友達が一人、消えようとしている。
カヤの涙は、以前のように血は滲んでおらず、透明な、私達が流す涙と同じものだった。
カヤの涙を拭うことができない。カヤを「ありがとう」って抱きしめることができない。私は、カヤに触れることができない。
悔しさと、悲しさに視界がぼやける。
「私も、こんな景色をカヤと見ることができてよかった。
ねえカヤ、私に触れて」
「でも、掴めないわ。わかっているでしょう」
「それでもいい、カヤに触れていたい」
カヤは涙を拭うと、首を縦に振り、両手を広げて私の体を抱きしめた。触れられている部分が冷える。夏の暑さを感じながらも、冷たい、寒いという感情が勝ってしまう。けれど、嬉しい気持ちのほうが一番強かった。例え、冷たくても、それがカヤに触れているんだと思えば寒さは嬉しさに変わる。
カヤは、ぼそっと「あたたかい」と呟いて、また涙を流し始めた。しゃくりあげながら、涙を私の肩に落とす。
頭に触れても、髪の感触なんて無いけど、私は頭を撫でた。
「ほら、なかないの。せっかくの景色が見れないよ……」
声に涙が混じっている。声が震えて説得力なんてなかった。
蛍は私達の周りを揺れるように飛び回り、明るく照らす。
泣くのを必死に堪える。喉が引きつって、喉の奥がつんと痛くなった。
「カヤのことは忘れないよ。絶対に忘れない」
「ミコト、ありがとう。わたしも、忘れない」
カヤの体は、ほとんどもう見えなくなっていた。
「大好きだよ、カヤ」
「わたしも、大好き。ミコト」
どうか、誰も見つけないで。誰も来ないで。
カヤは少し体を離すと、私の額とカヤの額をくっつけて、えへへと微笑んだ。でも、それからすぐ、笑顔は崩れてまた泣き始めた。
「ミコト、あえて良かった。ありがとう、本当にありがとう。大好きだよ」
カヤは、消えた。
体に感じていた冷たさはなくなり、辺りにいた蛍だけが空に飛んでいる。
月を見上げて、一筋の涙を流して、思いを込めて叫んだ。
「カヤ! ありがとう! 大好き!」
夏が消えた。
私の特別な夏は消えた。
あれから数年が経ち、私は上京して、勤務先で出会った男性と結婚をして子どもにも恵まれた。今月四歳になる娘を連れて、お盆休みを利用して実家に帰省した。
お婆ちゃんは、去年他界してしまったが、遺影はいい笑顔をしていて、きっといい人生を送ったのだろうと安心している。
娘を連れて私は散歩に出た。
カラッと晴れた外はあまり蒸し暑くなく、過ごしやすい。
カヤと出会った神社に、お参りに行こう。
娘は、私と旦那の血をしっかりと受け継いでいるようで、両方の特徴をしっかりと捉えていた。が、どこかカヤに似ていると思う時が時々あった。
娘の手を握って、娘に話しかけた。
「夏夜、お母さんのことすき?」
「どうしたのお母さん、すきよ? 大好きよ?」
「ふふ、ありがとう。お母さんも、夏夜が好きだよ」
神社の前につくと、夏夜は私の手をほどき、階段を軽々と登ると、鳥居に抱きついた。
一瞬、そこにカヤがいるような気がして、ドキッとした。
「おかーさんみてー! おっきいー!」
「そうだね、大きいねー」
勘違い。
カヤは成仏したのだから。もういない。
夏夜の元まで歩み寄り、手をつなごうとすると、私の体に抱きついてきた。体といっても、身長は届かないため、太ももに抱きついている形になるのだが。私を見上げて、にっこりと笑う。
「どうしたの」
「お母さん、わたしね、もう一度あの景色がみたいわ」
――わたし、思い出した。あの景色をもう一度見たい。
カヤと初めて出会った日のことを思い出した。
夏夜の言う、あの景色は、カヤの言う、あの景色と同じなのだろうか。
私は夏夜の頭に手をおいて、優しく撫でながら聞いた。
「あの景色って、どこのこと?」
「んとね、黄色い花……ううん、ほたるがたくさんいるところ! 夢で見たの!」
無邪気に答える夏夜は、きっとカヤなのだろう。
「お母さん、どうして泣いてるの?」
「え、あ、ごめんねっ。ちょっと目にゴミが入っちゃったみたいで」
夏夜に言われて、私は泣いていることに気付いた。目をこすって、涙を拭い、作り笑いをした。夏夜は、「お母さん、だーいすき」と言って、嬉しそうに笑う。
いつか、夏夜にカヤの話をしてあげよう。
「私も大好きだよ、カヤ――夏夜」