迷い込んだか、召喚されたか?
「で、どうする?」
葉巻――煙草を吹かしながら、どうでもよさそうに男がそれを右の手のひらにのせる。煙草を口から離したかと思うと、あたしに顔を近づけ、即しかめっ面になった。
「お前、くっせえな……」
「…………」
あたしは項垂れた。事実なので、反論できない。身綺麗にしている男とは違って、四日間同じ服を着て汗だくで歩き回っていたし、もちろんお風呂にだって入っていない。
ふーっと真正面から煙草の煙が吹きかけられる。
うわっ! 煙が直撃して咳き込んだ。
「……あなたの煙草だって、臭いです」
ここには歩き煙草禁止の条例なんてないんだろうな。吸っていい場所以外で吸う奴には不幸が訪れますようにって、歩き煙草をしている人とすれ違うたびに心の中で念じていたから、こんなことになったのかな。
「そうかよ。で、どうする」
せせら笑った男が、手のひらのそれをちらつかせる。
視線と心が、誘惑で揺れた。
――詐欺は、やっちゃいけないことだ。でも。
可哀想な被害者か、不法入国者か。
いまどっちになりたいかっていえば、もちろん可哀想な被害者で。
――でも、あたしは、不法入国者のほうだった。
可哀想な被害者――異世界から召喚された者には、額に花びらみたいな模様が浮かび上がる。それで区別できるらしい。
翻って、あたし。
そんなもの、ない。
ただ、迷い込んだだけ。
この世界に来て四日。あたしが知ったことを整理しよう。
まず、あたしが何者か。
ここに来てから一度も呼ばれたことはないけど、あたしには神山灯という名前がある。どんなときでも、心の中の灯を忘れないように、灯で照らすことができるようになって、つけられた名前。
太陽系にある地球、二十一世紀の日本に生まれて、十五歳になる直前だった。
まだ日本にいたとき、明日は誕生日だって、楽しみにしてた。
……でも、家で誕生日を迎えることなく、いつの間にか十五歳になっていた。
――学校では習わなかったし、確認も解明もされていないんだろうけど、地球には、目に見えない大小の裂け目が定期的に出現している。いろんな場所で。
空だったり、海だったり、地面だったり、住宅街のど真ん中だったり、駅だったり、どこでも。ただし、ほんの一瞬。
それは別に地球に限った話ではなくて、別の惑星でも、次元を隔てた別世界でも日常的に起こること。防げる世界は限られる。
その神出鬼没な裂け目には、時たま、タイミングよく、生き物や無機物が落ちる。
落ちた先は? 裂け目――穴はどこへ通じているか。
少なくともその一部は、タージルという、地球から見てどこにあるんだかも不明な、あたしにとっての異世界に繋がっている。
最も落下物が多いのが、タージル内のフーデリア国。
あたしと変わらない見た目の、人間が住んでいる。
基本の文化は昔の西洋っぽい。そこに落下物から吸収、独自に改良したいろいろが混ざってる。日本より進んでいるんじゃないかって感じる面もある。
だって、瞬間移動できるドアがあるんだよ。
それに、魔法がある。ああ、ファンタジー。
――フーデリアは、落下物によって悩まされていた。
裂け目の周期によっては、大量の生き物や無機物が国内に落ちてくる。
それで発展した時期もあった。だけど、落下物に助けられる時期は過ぎ、フーデリアにとって落下物は多大なるお荷物になった。しかも少数だった落下物は増えるばかり。
たとえば、話の通じないモンスターの群れ。討伐隊を出さなきゃいけない。
異世界の人間。人間に似た尻尾や獣耳が生えている生命体。未知の生命体。数百、数千人単位でやってくるようになった。
中でも知性ある生命体は、フーデリアでは落ち人と呼ばれている。殺すわけにもいかないし、保護しなければならない。ただ、落ち人とは言葉が通じない。落ち人ごとに使用言語が違う。
落ち人が少なかった頃は、落ち人にフーデリア語を学んでもらい、コミュニケーションを取っていた。落ち人が一気に来るようになると、これでは事情を聞くのにも時間がかかる。
そこでフーデリアの人々は、落下してきた知性ある生命体すべてと言葉が通じる魔法を年月をかけて開発し、国全体にかけた。落ち人がどんな言語を使っていようが、互いに自動で翻訳されるようになった。落ち人は大助かりだ。
だから、あたしもフーデリア人と話すことができる。読み書きはできない。
そうだよ。あたしは四日前、駅から自宅への道を歩いていた途中、裂け目に落ちた。気がついたら、見知らぬ場所。異世界――このフーデリアに迷い込んでいた。
……知ったことの整理を、続けよう。
――フーデリア人は、落下してきた知性ある生命体、落ち人と、これで即座に意思の疎通が可能になった。
落ち人は誰もがこう言う。帰りたい。
でも、残念な事実を知らされる。自然発生の裂け目は、一方通行。……帰れない。
フーデリアは落ち人の境遇に同情的だった。落ち人を含めた落下物によって国が発展したという恩もある。どんな姿をしていても平等に、落ち人として一括りで自国に受け入れていた。落ち人の数が増えたってそれは変わらない。
むしろ、これを機に受け入れ体制を強化して、落ち人の環境が整うまでは働かなくても生きていけるような制度も整えた。
落ち人は食っちゃ寝OK。特権階級になったも同然。……食っちゃ寝していれば、悪い方向に堕落する落ち人も出てくる。
さらには、増えた落ち人の中には悪い奴もいた。傲慢な奴もいた。ていうか、大量に落ち人が来るようになってからは、そういう奴の考えに落ち人たちは染まっていった。
そして群れを作る。落ち人とフーデリア人が衝突することも多くなる。落ち人が少なかったときはうまくいっていたのに、不協和音が生じた。
フーデリアは王制。人道主義の王様が即位し、衝突を緩和させようと落ち人をさらに優遇し、フーデリア人のほうが肩身の狭い思いを強いられた時期を経て、フーデリア国民はついにキレた。
まるで奴らを食わせるために生きているようじゃないかって。
落下してきた奴らなんてこっちが呼んだわけじゃない! する必要もないのに、住まわせてやっているんだ! それを何だ! 偉そうに! て。
国の大改革が始まった。そのときフーデリアにいた落ち人は全員が国内から追い出された。落ち人は他国で言葉も通じない辛さを味わって、フーデリアへの帰国を望んだ。
フーデリアは、そういう落ち人一人一人に一度だけチャンスを与え、審査をすることにした。
パスすれば、入国できる。できなければ不可。入国は永久に禁止。
再入国できなかった落ち人は、フーデリアを恨んだ。
どうして何もない自分たちを苦しめるんだって。
他国を利用し、フーデリアへ戦争を仕掛けさせた落ち人が現れた。自分たちの国を作ろう、と落ち人たちに呼びかけた。……その才能、どうして別の方面で生かせなかったんだろ。
フーデリアは戦争に勝ったけど、一部の土地を落ち人に占領されたりして、辛勝だった。国内に受け入れた落ち人の中には、自分たちの国を作ろうっていう呼びかけに応えて、不穏分子になった人たちもいたのが痛手になった。
その間も国内の裂け目からは諸々はもちろん、落ち人がやってくる。やっぱり増加の一途。比例してフーデリアの落ち人への印象は地の底へ弾んだ。
拒否したくても、勝手に自国へやってくるのが落ち人。防げない、招かれざる客。この頃には落ち人は、その存在そのものが煙たがれるようになっていた。
落ち人のほうも――とくにフーデリアに来たばっかりの人たちは、いきなり敵意をぶつけられて反フーデリアになるという悪循環。
戦争を起こしたのとはまた別の国が仲裁に入った。最終的にその国が、落ち人たちの受け入れ先になった。
そしてフーデリアは、ある試みを敢行した。膨大な労力と費用をつぎ込んで、原因の大元である裂け目が自国へ繋がるのをどうにか防ごうとした。
――半分成功、半分失敗だった。
生命体や無機物が落ちてくる頻度は大幅に減ったけど。
魔法エネルギーがうんたら――この部分は専門的すぎてわからなかったのでうまく説明できない――で、異世界人を必ず召喚する人工的な裂け目ができてしまった。国内のどこかにランダムで閉じたり開いたりする。幸い、開く時期はだいたい決まっていて、その場所も特定できるものの、異世界人を召喚してしまうことは変えられない。
かといって、この召喚の通り道を塞げば、二倍、三倍の諸々がまたフーデリアに落ちてくる。
国を二分するような論争が起こり――フーデリアは、この道を塞がないことにした。
可哀想なのは、そのために故郷から見知らぬところへ召喚されることになった異世界人。彼らは落ち人とは違い、フーデリア人にとって、どこからどう見たって自国の犠牲者。被害者。
だから償いの意味もこめて、フーデリアは国をあげて手厚く遇した。
召喚の被害者は、花人と呼ばれる。召喚された異世界人の額には、必ず花びらみたいな模様があったから。
もちろんフーデリアも、異世界人を召喚してしまう人工的な裂け目のことを研究し続けた。それは実を結んだ。――ただの裂け目とは違って、仕組みを解明することができたんだ。
花人によって異なる彼らが通ってきた道を、辿ることが可能に。準備期間があれば、花人を元の世界へ帰せるようになった。戻る時間だって指定できてしまう。
以来、フーデリアに召喚された花人は、帰るか、留まるかを選ぶ。ほとんどは帰還を選ぶけど、中には元の世界が嫌で、フーデリアで一生を終える花人もいた。
花人を定期的に召喚するこの人工的な裂け目を維持することで、フーデリアへの落下物は顕著に減っていった。
そして、現在に至る。
でも、落ち人のあたしとしては、花人と自分、そんなに違いがあるの? て思ってしまう。
通った裂け目が違っただけじゃないって。
迷い込んだか、召喚されたか。
それだけで、不法入国者か、可哀想な被害者かに分かれる。
故郷とも、家族とも引き離されているのは、同じなのに。不慮の出来事に巻き込まれたのは、同じなのに。
あっちは帰れて、こっちは帰れない、なんて。
――この国の人は、あたしを見て、一目で落ち人だって、わかったみたいだった。あたしは中学の制服姿で、服装も違うし。
食べ物をください。お金をかしてください。一晩でいいので、泊めてください。
一日目であたしを悩ませた不安とか混乱とか、そういうものは、三日目、目先の空腹の前に吹き飛んだ。町には共用水道みたいな魔法の蛇口があって、水だけは飲めた。だけど水だけじゃ限界で、野宿するのも限界で、耐えかねて、道行く人を掴まえて叫んだ。
言い方はその都度変えても、要するに「助けてください」だ。
……嫌な顔で、避けられるだけだった。何人目かで声を掛けた子ども連れの女の人が指差したのが、古ぼけた汚い石碑。「あれに触れ」って。……それは魔法石だった。落ち人に自分の状況を理解させるための知識が詰まっている。
触れたら、空腹は満たされなかったけど、頭にいろんなことが入ってきた。心なしか、いまも脳が活性化してるような……ちょっと頭がよくなった気さえしたよ。
これが国の各地に設置されたのは、落ち人の数がピークだった頃。使われる回数も減って、情報が更新されたのは数年前。この近辺では骨董品と化していた。
魔法石に触れて、ようやく、あたしはフーデリアと落ち人の歴史を知った。
なんでフーデリア人が落ち人のあたしを邪険にするのかも。
――もうちょっと、愛想良くしてくれたっていいのに。
こんなところ最悪。冷たい人たちばっかりだって、石に触れるまでは思ってた。
悪口だって、たくさんたくさん。
思考が、沈んでく。
でも、あたし、あたしがフーデリア人だったら、落ち人に親切にしてあげられる? お金をかしてあげる? 家に泊めてあげる?
お父さんかお母さんに、泊めてあげてって頼む?
日本で、見ず知らずの他人にそんなことを言われて、あたし、その訴えを聞こうとしたかな。しかも、子どもでも怪しいんだよ。服も汚れてて臭いんだよ。……近づきたくないって、思うかも。関わりたくない。見なかったことにして、無視するかも。
ホーレムスの人を見掛けた時みたいに。見て、その存在を認識して、内心で気にはして、でも、素通りするんだ。
それが友達だったら話は別だけど、知らない子だもん。
――やっぱりあたしも、逃げるか、避けるかな。
ならさ、花人、になったら?
――大切に、されるんだ。衣食住も保証される。お腹いっぱいご飯を食べて、夜はあったかい布団で眠れる。お風呂だって入れる。帰ることはできなくても、花人だったら受けいれてもらえる。
男の右の手のひらに、視線が吸い寄せられた。
そこにあるのは、米粒よりちょっと大きな、花びらみたいな模様のシール。
シールかどうか本当は知らない。違うのかも。だけどこれを額にくっつければ、花びらが浮き出たように見えるように変化して、剥がれることはないんだって。
花人に成りすますための、偽物の花びら。
花人が召喚されてもおかしくない時期の上、男はかなりの魔法の使い手で、この落ち人を花人に見せかける魔法を開発したばかり。なのに、ちょうどいい落ち人が周りにいなかった。
ひっきりなしに落ち人が来ていた頃とは、時代が違うから。
そこへ現れたのが、あたしだ。
見るからに落ち人で、空腹で、汚くて、フラフラ町を歩いてた。
男は、フーデリア人で、はじめて向こうからあたしに話しかけてきた人間だった。
偽物の花びらは、もちろん、タダじゃない。
あたしが花人になって特権を手に入れたら、それを使って男に便宜を図る。後から拒むのは不可能。花びらを定着させるのは、男の魔力。男が魔力を断ち切れば、その瞬間、花びらのシールは額から剥がれ落ちる。あたしはこれをつけたら最後、男との縁は切れない。
男のくわえた煙草から、煙がこれみよがしに吐き出された。
……煙草の臭い、大っ嫌い。
フーデリアなんていう異世界の国にいるのに、煙草の臭いが大っ嫌いなのは、変わらないや。
「――さあ、どうする? 落ち人」
三度目の、問いかけ。
男がいやに綺麗に、笑った。
「いらない」
男が煙草を吸っていなかったら、花びらに手を伸ばしていたかもしれない。
だけど、大っ嫌いな煙草の臭いが、あたしを正気に戻した。たとえ異世界でだって、やっちゃいけないことはやっちゃいけない。何ていうのかな。その線を踏み越えたら、駄目なんだよ。
……決断に抗議するかのように、お腹がすさまじい音を立てた。
腹ぺこなのはわかってる! うるさいよお腹!
「……落ち人、何と言った?」
男が眉をひそめて聞き返す。
「いらない、です」
繰り返す。男も絶対あたしが花びらに飛びつくと思ってたんだ。聞き間違いじゃないと理解して、目を丸くしている。その様子を見て、あたしは少し、いい気分になった。
ふうん? と男が口を開いた。
「いらない、か。良かったな、お前」
良かった?
「……何でですか」
「この花びらは、額につけたが最後、警邏を呼び寄せるようになってる。つけた者を花人騙りとして通報するニセモノの花びらだ」
手品みたいに、男の手のひらにあった花びらがすっと消失した。
「…………え?」
「花人を騙ろうとした罪は、すさまじく重い。何も花人になりたいのは落ち人だけじゃない。フーデリア人や、他国人だって一緒だ。騙れるものなら騙りたい。しかし花人を丁重に扱うのがこのフーデリアだ。そんなことを許せるわけがない。花人騙りは殺人と同等の罪になる」
「じゃ、じゃあ、もしあたしが……」
男の甘言につられていたら?
「はれて牢獄行きだな」
何でもないことのように男は告げた。
「あ、あなただってただじゃすまないんじゃ……」
花人騙りっていうなら、花びらの偽造だって犯罪のはず。
「俺か? 俺は問題ない」
「ど、どうしてですか!」
「偉いから」
あたしは絶句した。……腐ってる。
「――俺はな、落ち人が大っ嫌いなんだよ。偽の花びらを作って待ち構えてるぐらいには」
「……そうですか」
何この人。見た目からして、三十歳ってことはないと思う。でも、二十歳は過ぎてるよね? 大人のくせに。ろくでもない。
「なにせ、落ち人によって最も多大な実害を被ったフーデリア人の子孫でもある。だが、実際に純粋な落ち人と会ったことはなかった。お前が俺にとって初の落ち人だ。喜べ」
「……アリガトウゴザイマス」
「そしてだ。フーデリア人が思い描く落ち人なら、俺の提案を断わらないはずだった」
「そんなの……落ち人だって、いろいろだと思います」
そもそも、落ち人は、やって来る場所からしてそれぞれ全然違うんだし。共通点は、裂け目を通ったってことだけ。
「だろうな。ところがフーデリア人の落ち人への認識はな、等しいんだよ」
男が嗤う。
「お前みたいな小娘なら、落ち人であってもさすがに同情心ぐらい抱く奴もいる。ほんのちょっとな。しかし前提としてある落ち人への悪感情を覆すには至らない。どこから来たかも、その事情も関係ない。知りたくもない。落ち人である。これがすべてだ。――自分たちで手を下したくはない。だから、自分たちが罪悪感を抱かないように目に見えないところで死んでいて欲しい。そういう存在だな、落ち人は」
「…………」
そんなに、なんだ。
この四日で、落ち人への扱いはわかったつもりだった。『つもり』だったんだなって、思った。
「ここ最近の記録だと、たまにやってくる落ち人は、盗みに走って捕まっていたからな。それを耳にして、フーデリア人はこう思いを新たにする。昔からの言い伝えはやはり正しい。『これだから落ち人は』」
「……それは!」
黙っていられなかった。あたしは無性に反論したくなった。
「誰も助けてくれないし、話しかけても無視されて、どうしようもなくなって、最後の手段で盗んだのかも……! 何かが違ってたら……!」
フーデリア人にとっては、自衛の、当然の態度でも、来たばかりの落ち人にはそんなのわからない。納得できないよ。
魔法石で知識を得られただけ、あたしはまだ恵まれてたんだ。
それすらなかったら?
元の世界でどんなに真面目に生きていた人だって、何も知らないまま未知の土地に来てしまって、空腹だけが募っていったら?
食べなければ死ぬのに、正しいことを貫ける? 踏み留まれる?
あたしだって、花びらの誘惑に負けるところだった。
「何かが違っていれば、盗みを犯したりはしなかったかもしれないな」
男は意外にも否定しなかった。
「落ち人をそこまで追い詰めたのはフーデリア人だとも言える。だが、極限状態であっても決して道を踏み外さない者もいるだろう? その違いは何だ? お前は何故花びらを欲さなかったのか」
ふーっと男は煙草の煙を吐き出して、どこからか出した灰皿に煙草を押しつけた。煙草ごと、灰皿が現れた時と同じように、突然消え失せる。
「――『これだから落ち人は』。お前の選択は、俺の中にあった落ち人への認識を揺さぶったぞ。本物と会ってみるものだな?」
男の紫眼に見据えられて、あたしはびくっとした。
「喜べ、落ち人。さらに言えば、お前の選択は今後の落ち人たちの運命に良い影響を与えた」
「そ、そんな大層な……」
「そんな大層な選択だったんだ」
男が語り出した。
曰く、裂け目という自然現象は、人間が操るには手が余る。花人を召喚する人工の通り道で収まっていた落下物は、再び増加し出す兆候を見せている。
いまのところ、これを止める手立てはない。
一応、落ち人の保護制度は現在も生きている。
国が落ち人を保護しているのは、数が少なくなっていて、手を回す余裕があるから。保護というよりは監視なんだって。
あたしのことも、この町の人が届けを出してくれたらしい。役人があたしを回収することになっていた。
これはあくまでも制度上の話で、感情面では落ち人なんか保護なんかしたくない。落ち人を発見したフーデリア人が必ず届けを出さなきゃいけないわけでもない。保護が遅れて問題が――たとえば落ち人が盗みで捕まるとか――発生することもある。
だけど、十数年内に、落ち人が数百、数千人単位か、それ以上でフーデリア国内にやってくる時代が必ず訪れる。
そうなったら、話は違ってくる。
フーデリアの中枢では、王を中心に議論がなされている。
未来の新たな落ち人たちをどうするか。前は、他国が落ち人を受け入れた。その他国も方針を変えている。
――いっそ、まとめて殺してしまえ。
――従来のように、保護はすべきだ。
正反対の意見が拮抗している状態。
「俺がどちらにつくかでこの天秤は傾き、答えが決まる」
「そ、そんなに……偉い人……?」
「偉いな」
男をよく見てみる。花びらや煙草にばっかり注目してた。そういえば……いかにも柄が悪そうな態度だったのに、それがなりをひそめてる? あれって、演技?
胡散臭かったのに、途端貫禄があるように見えてきた。
顔立ちは整っている。でも、男の容姿で一番目をひくのは、紫色の瞳だ。
「お、落ち人が嫌いなら、答えは決まってるんじゃ……?」
「過去の像そのままの存在ならば、落ち人を好意的に見る要素なぞどこにもない。恣意的に見ても客観的に見てもフーデリアに対する落ち人の所業は目に余る。恩を仇で返しただけだろう?」
男の声音は、冷たかった。
「ま、まとめて殺してしまえ派……?」
「そっち方向に傾いてはいたな。お前が花びらを欲していたら、確実にそうなっていた。『これだから落ち人は』で、実証もされて終わりだ」
「え……?」
「俺は落ち人に関する悪い話なら山ほど知っている。しかし実際に会ったことがないせいで決めかねていてな。どうせなら、落ち人と会って最終判断すべきだと考えた。そいつが悪なら、他の落ち人も悪でいい」
「なっ……! あ、あたしが悪人だったとしても、他の落ち人にはまったく関係ない話だと思います!」
「――だが、もしそいつが善なら、他の落ち人も善でいい」
続けられた言葉に、あたしはぽかんと口を開けた。
「間抜け面だな、落ち人」
「そ、そんな簡単で、いいんですか……?」
「物事は単純でいい。他国を訪れ、そこで素晴らしい体験をしたらそこはいい国だ。嫌な経験をしたら嫌な国だ。また同じ国を訪れて、正反対な体験をしたら、考えは塗り替えられる。――伝聞でない、俺の落ち人への取っかかりはお前だ。そしてお前は、誘惑を退けた。それだけの話だ。今後訪れる大量の落ち人を保護すべき、のほうに俺の意見も傾いた。また塗り替えられない限りはな」
「落ち人、次第……」
あたしも、含めて。
「そういうことだ」
――なあ、落ち人よ。
男が、あたしに呼びかけた。
「花人でないお前は、故郷には二度と帰れない。だが、お前に、フーデリア人の落ち人への考えを塗り替え、正々堂々とお前の居場所を作る気はあるか?」
お腹が鳴る。
ものすごーく、真面目な雰囲気だ。空気がピリピリしてる。仲良しこよしになれるかって、そういう風でもなくて――すごくすごく、大切なことを問われているんだと思う。でも。
「ご飯が、食べれるなら」
あたしの口から出たのは、そんな言葉だった。
花びらの時とは違って、悪いことではなさそうだったし、ご飯を食べれるなら、居場所だって作る。努力する。
でも、まずはご飯だ。ご飯で、ちゃんと翻訳されてるのかな?
「……食事か」
ちゃんと翻訳されてる!
「腹が減っては戦はできぬって諺が、あたしの故郷にはあるんです」
「ふむ。戦な。悪くない。一理ある」
――あたしは町の食堂で四日ぶりのご飯を前にしていた。
男はお酒を頼んだだけで、呆れたようにこっちを見ている。
「……落ち着いて食え、落ち人」
「無理です! ご飯~! ご飯だあああああ! いただきます!」
消化に良いものをって男がお店に注文して出てきた料理。
一番は、野菜と魚介を煮込んだあっさりした海鮮スープ。魚の色がピンクな以外はどこをとっても文句のつけようがなかった。真っ黒いジュースもほんのり甘くて食欲を誘う味わいでお気に入り。
色合いは奇抜なのに、どれも味はさしずめ和洋折衷のいいとこ取りで絶品だった。
フーデリアは、庶民料理が超がつくほど美味しい国。
悪いことも、良いことも、別に否定しなくていい。
お腹いっぱいになって、居場所を作るってことを、あたしも本気で考え出した。
その日から、落ち人として、生涯続くことになる男との付き合いも始まった。
でも、「こっちが四日ぶりのご飯だったことに気を使ってくれてたし、何より奢ってくれたからいい人!」ってなっちゃったのは一生の不覚だったかもしれない。
いつだったかな。思い立って男に訊ねてみたことがある。
――あのとき、あたしが花びらに手を伸ばして花人騙りを選んだら、男が言った通り牢獄行きだったのかって。
花人騙りは大罪。これは事実。だけど男との付き合いが長くなるほど、牢獄行きだけじゃあ済まなかったんじゃって疑念のほうが強くなっていった。
そうしたら、男はいけしゃしゃあと答えた。
「ああ。警邏云々は嘘だ。あの場で馬鹿正直に言う必要もなかったしな。お前が花人を選んだら、望み通り花人として利用し尽くすつもりだった。考えてみろ。この俺が四方八方に手を回してようやく実現可能になるようなことも、花人なら言葉一つで同じ無茶を通せるんだぞ。とにかく反対してくる声だけ大きい者どもも一発で黙らせられる。便利だろう? 俺も本物の花人相手ならそんな非道はとてもできないが、偽物なら話は別だ。そうして花人騙りの落ち人には花人のまま、機をみて退場してもらう。国葬は盛大にな。……そんなところか?」
何が「そんなところか?」だっての! 可愛らしく首を傾げていたのが腹立つ!
あたしの男への印象は何度も何度も塗り替えられていったけど、いい人ではなかった。絶対。
フーデリア人も落ち人も他国の人も、男に対しては同意見だったから間違いない。
「……まあ、いまでは考えられないもしもの話だがな。灯」
でも、最後にそんな風に付け足して、男が満足そうだったのも、癪なことに覚えてる。