手を握る
「飲み会?」
「そう」
うだるような暑さの続くとある一日。僕は飲み会に誘われた。
誘ってくれたのは同じ下宿先の人だ。僕よりも5年前も前にここへ越してきた先輩で、引っ越してきた当初、ゴミ出しや顔合わせなどでかなり面倒を見てもらった頭の上がらない先輩である。
職業はフリーター?らしい。といっても、ぶっちゃけよくわからない。何度か聞いたことがあるのだが、毎回返ってくる答えが違うし、平日の昼間でもよくこの下宿の階段で飲んでいる。僕が早めに大学から帰ってきた時も、ビール片手に「よう!」と声をかけてくることがほとんどだ。
フリーターというのは大家さん情報である。本当は『職業不詳』が正しいかもしれない。
とにかく、そんなよくわからない人ではあるが、気さくで物知りな彼のおかげで、この下宿の雰囲気はたいへん明るく、コミュニケーションも円滑に動いている。実際下宿の皆がお世話になっていて、ここに欠かせない人である。
そんな先輩のお誘い。ふと疑問を口に出す。
「いつも飲んでるじゃないですか」
僕はこのお酒好きな先輩につきあってほぼ毎日と言っていいくらい晩酌に付き合っている。
下らない世間話や先輩の妙に深い蘊蓄を聞くのはとても面白くて、いつも誘われるがまま彼の部屋で杯を傾けてしまうのだった。
いつもなら世間話のまま部屋で飲む流れになる。そうでないときは飲まない。わざわざ改めて飲み会に誘う意図が分からなかった。
「違う違う。今日は外行くから」
「居酒屋でも行くんですか?珍しいですね」
「だろ?まぁ今日は凜ちゃんもいるからな。部屋に入れると親父さんに殺される」
「ああ…」
凜ちゃんはこの下宿に最近越してきた女の子である。名前に負けない『凜』とした雰囲気を常に纏う美女だ。整った顔にまっすぐ伸びる背筋、すらりとしたスタイルから生まれる流麗な仕草は、見るものを惹きつける。僕も実際初めて会った時はその容姿や仕草に目を引かれ、おもわずぽかんとしてしまった。それほどに美人であった。
「毎度毎度、あの親父さんもご苦労なことです。手放したくないのもわかるけど、そろそろ結婚を意識し始めてもおかしくないでしょうに」
「本当にな。なんで俺が下宿先の娘の親にまで、こんな気を使わなくちゃならんのかわからん」
「それは僕もわかりません。でも気を遣わなかったら半殺しですよ」
「やめろ。思い出したくない」
凜ちゃんは綺麗だ。まごうことなき美人さんである。
そして、当然というべきか、その父親は滅法親バカである。以前、先輩は親父さんに一度半殺しの憂き目にあっていた。
それは凜ちゃんが引っ越してきた初日。先輩の誘いでいつものように歓迎会を開くことになった。この下宿のアパートは二階建ての全8室。ただし、下の二つの部屋は一つは食堂と小さなキッチン、そしてもう一つは何故か浴場に改造されている。今入居しているのは僕と先輩ともう一人の大学生、そして凜ちゃんだ。残り二つは空室で、たまに大家さんが掃除に入るか、先輩が酔いつぶれて間違えるぐらいであまり使われていない。
裏には大家さんの豪邸があり、一応このアパートと繋がっている。事前に連絡を入れれば、そこで騒いでもいいらしい。入居者が埋まっていたころはそっちで歓迎会をしていたと言っていた。
閑話休題。とにかく僕らは「食堂」で凜ちゃんを歓迎した。先輩が昔旅したという部族集落での踊りを披露して笑ったり、酔った大学生くんが研究についてひたすら語りだしたり、僕はそれに突っ込んだり、宥めたりしながら程よく騒いで笑った。突き立つような怜悧な容姿に反して、凜ちゃんもふわふわした笑いを浮かべ楽しそうにしていた。…………と思う。
正直その後の事件のせいでほとんど記憶がない。
そんなばか騒ぎの最中、突然怒号がアパートを揺らした。もうこの時点で意味が分からない。
酔っていた僕ら三人はなんだゴリラでも逃げ出したかなんて笑っていたが、ふと凜ちゃんが「あ、お父さんだ」と呟いたのだ。
「は?」
誰が言った言葉かは分からない。直後飛んできたドアにぶつかって大学生が視界から消えた。
でも飛んできたドアで早々に気絶退場した大学生は運が良かった。
ドアを破壊して入ってきたマッチョマン。その体には怒気がオーラのように立ち上がっているように見えた。顔はもうよくわからない。基本的に小心な僕の脳は受け入れることを拒否したのだとおもう。とにかく僕の体は自然な動作で土下座の体勢を取る。多分生存本能なんだろう。
そして先輩は意味もなく逆らった。「凜ちゃんにげろ!」「お父さん、何でいるの?」「これは君のお父さんじゃない!野生のゴリラだ!」「お父さんはゴリラだったの?」「そうだ!だから俺の後ろに!」なんて声が耳に入ったけど、その後は殴打の音しか聞こえなかった。その後何度か凜ちゃんの声となんらかの唸り声が聞こえたような気がする。
気が付いたらその乱入者の気配は消え、目の前にはボロ雑巾と化した先輩が横たわっていた。
後日先輩の下に凜ちゃんが訪れて、そのまま部屋に入れたことでさらにひと悶着あったらしいが、僕はわからないし、分かりたくもなかった。
「とにかく俺はみんなで飲みに行きたい。ゴリラは召喚せずに」
そう言って先輩はいつものような軽薄な笑みでこちらを見た。
「お前は行くよな?」
疑問というよりも確認だろう。こちらの答えはもうとっくに決まっている。
「もちろん」
僕はそう言って笑い返した。
6時ごろ、皆でアパートの前に集まった。
僕が階段を下りると、既に凜ちゃんがいた。凜ちゃんは珍しく明るめのフレアスカートに白いブラウスを着ていた。普段のきりりとした印象と異なり、可愛らしい雰囲気が覗いている。そしてやはり似合っていた。美人は何を着ても似合うとは本当なのだ。
凜ちゃんに「そういう可愛い格好も似合うね」と声をかける。
「ありがとうございます」
「その服、自分で買ったの?」
「お母さんが買ってくれました。こういうの格好もしたらどうだって」
「お母さんいいセンス持ってる。僕の服も選んでほしい」
「確かにその恰好は……」
「……ちゃんとしたのも持ってるよ?」
先輩に誘われたせいか、凜ちゃんいることを失念していた僕は擦れたジーパンにどうでもいい絵柄のシャツという非常に残念な恰好をしていた。本当に失敗した。
そうして話していると、大学生もやってきた。何故か白衣だった。僕のファッションセンスより下がいたみたいで、ちょっと安心した。
研究が行き詰っているのか、論文を片手に何やら書き込んで唸っている。そのまま歩き、僕たちを通り過ぎ、塀にぶつかる寸前で慌てて引き留めた。ちょっと注意したら、「教授が全て悪い。研究室を爆破したい」とか言っていた。うん。そうだね。
そうしてさらにしばらくして先輩が来た。先輩は来るなり「いくぜ野郎ども!」と叫び、一人勇ましく敷地を飛び出していく。僕は苦笑いを浮かべ「行こうか」と二人に声をかけた。凜ちゃんは「はい」と頷き、大学生はちらりとこちらをみた。
「ほら早く来いって」
先輩の声が聞こえる。僕らは小走りで先輩を追いかけた。
追い付いた先で僕は「野郎どもって言ってましたけど、女の子もいますよ」と突っ込んだ。すると先輩は「飲みの席では全員男子」とひょうきんな答えを返す。もう酔っているのではないだろうか。
「で、どこ行くんです?」
「まだ決めてない」
「おい」
「まぁいいじゃん。良い飲みは出会いだって誰かが言ってた」
「ぼったくりに出会うことだって、あるかもしれませんよ」
「それはそれ。いつかいい思い出になり、そして酒の肴になる」
「一人でやってください」
「お、あれなんかどうだ!」
「あ、ちょ、先輩!」
そう言って先輩は走り出していく。何か見つけたらしい。帰宅途中のサラリーマンに賑わい始める繁華街。その雑踏に先輩が飲まれていく。
僕はちらりと凜ちゃんとみるとすぐに先輩の消えたほうに目を戻す。その際「迷わないでね」といって凜ちゃんの手を取った。
僕は先輩を目で追う。ゆっくりと足を速める。ふと、手を握り返された気がした。